祝言の日まで19

2011.06.10.Fri.08:55
「残念だが、もう夜明けだ」
 聞き間違えようもない、科戸王の声だ。
 稚羽矢はひどく残念そうに体を起こした。狭也はいつだったか、牧を目の前にして迂回しなければならなかったとき、彼がそんな表情をしたことをふと思い出した。
(あたしもだいぶ格上げになったのかしら)
 稚羽矢は変わってきている。少しづつ、しかし、狭也が思っていたよりずっとはやく。もしかして、死ぬまで人を恋うことの機微などわからないのではないかとおそれていたが、稚羽矢は執着にも似た思慕を向けてくれるようになった。
 嬉しくないわけがない。でも、ひどく気まずいのも確かだった。ひざを開かれそうになったことを思い、狭也はあわてて衣を整えた。
(稚羽矢が知らないと言っても、今度からはあまり信じないほうがいいかもしれない)
「いいじゃない、もうちょっと寝かせてやれば」
 どうやら鳥彦も一緒のようだ。開都王が案じて二人をよこしたのかもしれない。狭也は稚羽矢をせき立ててすばやく身支度をすると、帳をかきわけた。
「許せ。そなたの顔を見なければ気がすまなかったのだ」
 科戸王はまっすぐに狭也をみつめた。そういう顔は疲れきっていて、こちらが心配になるほどだった。
「無事のようだな」
「はい。稚羽矢が来てくれましたし」
 そう言う間に、王の顔つきがいっそう険しくなって、狭也はてっきり叱られるものと覚悟を決めて身を縮めた。
「いや、そなたに大事がなくて何よりだ」
 思ったよりやさしい声音だ。顔を上げるとすでに王はこちらに背を向けている。
 由津がひかえめに声を上げた。
「朝餉をご用意させていただきました。そのあと、いささか急ではございますが、お山へ参りたいと父が申しております」



「あれは見るにたえない恋の奴だね」
 朝餉をかき込み、三輪山への小道を進んでいると、狭也の肩にとまった鳥彦がつぶやいた。
「何のこと?」
 葛木王を先頭に、稚羽矢、狭也、科戸王が続いていた。闇の氏族を一族の御山に招き入れることを、意外なことに葛木王は許したのだった。敵対していた輝と闇、いくら戦が終わったとはいえ、複雑な感情をともに捨て去ることはできまい。
 一族の最も重要な秘められた場所へ、稚羽矢はともかく狭也も科戸王らも踏み込めるとは、正直思っていなかったのだった。
「科戸王のことさ。夜も明けきらぬうちに宮を飛び出してきたんだ。狭也を案じてね」
 狭也は鳥彦を軽くにらんだ。
「あたしはそれほどうぬぼれ屋ではないのよ。今あの方が案じているのは、闇の巫女のことで、あたしのことは、言ってみれば妹か娘のように気にかけてくださっているだけよ」
「・・・・・・娘」
 鳥彦は絶句して、それからしばらく黙っていたが、ひどく小さな声でつぶやいた。
「これだから、報われない」
「何か言った?」
 応えずに鳥彦は飛び立っていったが、科戸王に手ひどく追い払われて、肩にもとまらせてもらえないようだ。
 小道はゆるやかに登り坂になっていた。少し息が切れてきたところで、ふいに視界がひらけた。
 木々の合間にあらわれたのは、湖だった。遠くから見ていたときは、御山がこれほどすんだ湖を懐に抱えていたことに少しも気づかなかった。
 湖のほぼ中央に、ちいさな社があるのが見えた。葛木王はひざまづき、衣に包んでいた飾り太刀をうやうやしく両手で社の方へ差し出した。
「天のいと高きにおわします御方に申し上げます。誓約の供物を持ち参上いたしました。どうぞお受け取りくださいませ」
 静かな水面に波紋があらわれた。それは幾重にも重なり、響きあっている。
「近くに感じる」
 稚羽矢の声はすこし尖っている。狭也が手を取ると、稚羽矢は痛いくらいに握り返してきた。
 揺れる水面を凝視している稚羽矢を見て、狭也ははっとした。この湖こそが鏡なのだ。曇りのない水鏡は風もないのにざわめき震え、何かを映し出そうとしている。
「いらっしゃった」
 稚羽矢はどこかあきらめを滲ませた声でつぶやいた。気がつくと、水際に稚羽矢の立ち姿が映っている。しかし、よく見るとそれは稚羽矢によく似た別の人だった。
「御方」
 問うように稚羽矢を見つめると、彼は一礼をして水際にひざをついた。手をつないでいた狭也もつられて腰を下ろすと、いっそう近くなった面影がふっと笑みをこぼしたようにも見えた。月代王は初めて出会った夕べと何一つ変わることなく、ただ美しく完璧な姿でそこにあったのだった。
「またそなたにこうして会えたね」
 紡がれる言葉はじつにやさしく、空気を震わせるお声は希有な美しさだった。
「わたしの願いが叶った」
 それが狭也に向けての言葉というわけでもないのに、頬が熱くなり、狭也はうつむくしかなかった。
「天の宮の方々は、よほど暇を持て余しておいでなのですか」
 稚羽矢の物言いはあんまりなもので、しかし兄神はそれをとがめずほほえんだ。
「姉上はいつになくご機嫌うるわしくあられた。弟の成長をご覧になったのであれば、さもあろう」
「稚羽矢、失礼なことよ」
 小声でつぶやいても、稚羽矢は引き下がらなかった。
「供物はお渡しします。地上のことは案じず、お心やすらかに。それでは」
 あろうことか稚羽矢は葛木王の捧げ持つ飾り太刀をつかむと、放り投げるようにして湖に落とした。激しい水音が響いた一瞬、水鏡はゆらめいて空を映したが、すぐに元に戻った。
 弾けるような月代王の笑い声が耳に届き、狭也は身の置き所もないような気持ちで平伏していることしかできなかった。
「弟よ。まさしく、そなたは地上の人らしく欲というものが芽生えたようだな」
 御方の声はどこか苦々しかった。
 湖面に漂っていた飾り太刀は吸い込まれるように沈んでいった。
「そなたたちに、よいものを見せてやろう」
 含んだ笑いとともに、水面は輝き始めた。朝焼けを映したかのように、まっさらに白く。狭也はまぶしさに目を閉じた。
 再び目を開けたとき、そこはもう社から遠く離れた、どこともわからない場所だった。
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