祝言の日まで18

2011.06.09.Thu.11:47

 どこへ行くというあてもなく、稚羽矢は走っていた。踏み出す足は重く、息は苦しい。しかし止まることはできなかった。
 何かを探している。だが、それはどこを訪ねてもみつからない。焦りとおそろしさに押しつぶされそうで、いやな予感ばかりが胸を占めている。
 名を呼んだ。ほとんど悲鳴のような叫びだ。声を届かせようとした人は、どこにいるのか。それとも、もうどこにもいないのか。ついさっきまで、一緒にいたはずだったのに。
 大事に腕のなかに閉じこめて、誰も害をなせないように守っていたはずなのに。
「どこだ、狭也」
 自分のふがいなさを呪うように、稚羽矢はこぶしを握った。ふいに目の前の薄闇がはれて、衣袴姿に角髪を結った人の後ろ姿があらわれた。安堵の息を吐きながら近づいて、きつく抱きしめた。
「あなたは」
 狭也はまるで初めて会った時のように、どこかおびえたような目で稚羽矢をみつめた。
「・・・・・・だれ」
 足下がおぼつかなくなり、稚羽矢はよろけた。抱きしめていたはずの人は、どこかにかき消えてしまった。
 からっぽの腕は我が身を抱きしめている。
 呼吸が苦しくなった。塩辛い水が身を包み、もがいても重たい手足は言うことをきかない。声は細かな泡となり、髪は力なく漂う海草のように目の前でゆれるばかりだ。
(海だ)
 はるか上を仰ぎ見ると、ほのかに明るい水面がみえた。そこへ行きたいのに、稚羽矢の体はどんどん暗い水底へ沈んでいく。
 息を吐ききり、沈んでいくにまかせるしかなかった。いつか見た底知れない亀裂に吸い込まれ、まったくの暗闇に落ち込んでいく。
 慈悲のないまたくす闇。己と闇がすっかり溶けいり、どこからどこまでが自分なのかすらもあやふやになる。
 ふしぎとおそれはなかった。手足の感触が消え、呼吸もまばたきも奪われて、しかし稚羽矢の中にはその闇も消しされない輝きがあることに気づいたからだった。
(勾玉・・・・・・狭也)
 闇の道を通るために飲み込んだちっぽけな勾玉。それは狭也を水の乙女たらしめる証であり、闇の一族、ひいては女神の願いの証なのだ。
 豊葦原に満ちよ、愛しい子どもたち。何度でも生まれ変わり、その魂が持つ願いを果たしなさいと。
 輝の性質である不変は、闇にはない。生まれ落ち、名を授かり、そうして生きられるのはただ一度きりなのだから。
(わたしは狭也と共にいたいと願った。狭也のとどまるところに、わたしもとどまりたいと)
 どこか青い空を思わせる光が、胸をあたためた。 
「どうしても選ばなくてはならないのなら、言うわ。あたしは、あなたが殺されるのはいやよ。それくらいなら、輝の大御神を殺してほしい」
 狭也の声とまなざしが強い光の明滅とともに浮かび上がってきた。それは思い出しているのとも違う、あの時へ一瞬だけ戻ったような鮮やかさだった。
(わたしはあの時、思ったのだ。たしかに、うれしいと)
 こぼれ落ちたのは涙だ。輝の神がみは決して泣かない。容赦することを知らない輝の神は、己を哀れむこともないからだ。
 姉が稚羽矢を出来損ないと言ったとき、その奥にあったのはちいさな畏れだったのかもしれない。縄で戒め神殿に籠めたのは、手に負えない存在を隠し閉じこめて、存在すら消し去りたかったからかもしれないと、稚羽矢はふと思った。
(わたしも確かに父の子だから)
 闇の道を通って、その思いは確かなものとなった。父は泣かないのではない。稚羽矢を通して、父は泣くのだ。愛しい人を喪って、荒れ狂うような怒りと悲しみに足をすくわれて。激しい想いを打ち捨てようと、父は稚羽矢を豊葦原へ産み落としたのかもしれない。
 
「若い神よ、そなたにまたこうしてまみえようとはな」

 稚羽矢はどこからか響いてくる声に気づいた。浜辺で聞いた声よりはずいぶんはっきりとした、腹に響くような翁の声だった。
「あなたはわだつみの神か」

「そうでもあるといえる。そうでないともいえる。わしにとっては、どちらでもかまわぬことじゃ」

「わたしはなぜここに?」

「眠った間に身を離れ、漂うことはよくある。しかしこんな水底へ来る者もめずらしい」

 おかしそうに声はゆらいでいた。泡がはじける音も混ざって、いくらか楽しげに聞こえてくる。

「若い神よ、そなたはなかなかに、よく働いた。そなたの進む道を案じていた者として、こう言えることをうれしく思うぞ」

 急にほめられて、稚羽矢は戸惑った。
「わたしは、殺してもかまわないと思っていたのです。姉や兄を倒してでも、死にたくないと願ったのです」

「いかにも。であるからこそ、今のそなたがある。そなたは、もう孤独ではない」
 
 声はゆっくりと遠ざかっていった。

「わしは、それをなぜかうれしく思うぞ。ちはやぶる神よ。さあ、もうそろそろ、戻るがよい・・・・・・」

 稚羽矢は目を開けた。
 寝床はあたたかく、うっすらとやさしい闇が身を包んでいた。手を伸ばすと投げ出された細い腕があり、稚羽矢はこみあげてくる嗚咽を飲み込むことができなかった。
 すがるようにつかんでいた狭也の手が動き、そっと稚羽矢の頬をなでた。
「あなたは泣き虫なのね」
 顔を上げると、狭也は目を細めて、笑うのでもなくやさしくささやいた。
「泣くといいわ。がまんしては余計に悲しくなるもの」
「悲しいんじゃない」
 狭也は目を大きくみはると、ほほえんだ。
「なら、なおさらだわ。うれしい涙なんて、そうたくさん流せるものではないもの。さあ、おいでなさい」
 上掛けをめくって稚羽矢を招き入れると、狭也は稚羽矢を抱きしめるようにして、背中をなでた。
「どんなうれしいことがあったの」
「わたしは孤独ではないと、気づいたんだ」
「あら、それに今気づいたというの」
 狭也は稚羽矢をくすぐった。
「どんなことがあっても、あなたのそばにいると言ったじゃない。本当に、人の大事な告白をちっとも聞いていないんだから」
 稚羽矢はくすぐる手をつかんで、手のひらに口づけをした。
「聞いていたよ。それを言うのなら狭也だって、わたしの言ったことを覚えている?」
 見つめると、狭也はばつが悪そうに目を伏せた。そのまぶたに口づけをして、稚羽矢はささやいた。
「あなたを閉じこめておこう。戒めはわたしの腕と足だよ。あんなに自由に動いてしまう人なら、しっかりつないでおかなければ」
「稚羽矢?」
 寝起きでゆるんだ衣をはだけると、あたたかい肌に唇を落とした。はねる半身を押さえつけるように体を重ねると、手を突っ張って拒まれた。その手を少々手荒に床にぬい止めて、稚羽矢は言った。
「命をすてて誓約をした人が、どうしてわたしを拒む? 豊葦原を一つにするには、わたしたちもそれなりのことをしなくては」
 狭也は青ざめたり赤くなったりしていたが、心を決めたように小さくうなずいた。
 口づけは少し苦く、触れあった舌の動きは腹の底に火をつけるような熱っぽいものだった。こぼれる息を耳に受けて、狭也は声をもらした。
「稚羽矢」
 制止なのか、懇願なのか、どちらなのかわからない。それほどこうして触れあうのは慣れないことで、悠長すぎると姉に呆れられても仕方ないと稚羽矢は思った。
 やわらかな体はどこへ触れてもすぐに応えてくれる。乳房は雪をかむったうつくしい小山のようで、ただ一つちがう頂の色にさそわれるように舌をはわせた。
 狭也が身じろぎしたときに、しろい太股の奥がひそかに潤う音を聞き止めて、稚羽矢は狭也をみつめた。誰かに教えられなくても、するべきことがわかっている。それは驚きでもあり、どこか誇らしくもあることだった。
 豊葦原はもともと海原のうえに脂のように浮いていた。そこへ矛を突き立てかき混ぜて、国生みをしたのは父神母神だ。
 まぐわいは、それと似ている。温かな暗い闇へ高ぶる己を差し入れて、何度も突き、混ぜる。吐息も体もひとつになる。
「稚羽矢、誰か、来る」
 ひざを押し広げようとする稚羽矢に、狭也は息もたえだえといった様子でささやいた。
「大王、狭也さま」
 室の入り口に垂らした帳の向こう、遠慮がちな由津の声が聞こえた
「まだ夜は明けていない」
「残念だが、もう夜明けだ」
 荒々しい無遠慮な足音が室の前で止まり、じつに不機嫌な声が響いた。わだつみの神のしわがれた声のほうが、ずいぶんやさしかったなどと、稚羽矢は様々なことを考えながら、仕方なく体を起こした。
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