ヤマタノオロチ(1)

2010.06.14.Mon.15:59
「決まってしまったものは、しようがないわ、とうさま」

 櫛名田(くしなだ)は憤然として言い返した。

「何を言うか。くじを引かねば、おまえは大蛇神の生け贄に選ばれることもなかったのだ」

 櫛名田の父は鳥髪を取り仕切る大里長。里人からの多少の批判があろうとも、彼には娘にくじをひかせず御館に籠めておく権限があった。

「とうさま、聞き捨てなりません。わたくし以外の娘たちの命なら、いくら捨ててもかまわないというのね」

 父の足名椎(あしなづち)はひたいに青筋をうかべた。

「そうは言っておらん」

 唸るがごとくつぶやいた父の目は、惧れに沈んではいなかったか。強そうな雰囲気をかもしていた父の足名椎の灰色のひげや、角髪に結った黒い髪にはこの数日でめっきり白いものが増え、彼の心労の深さを見るものに教えていた。

「・・・山祇どのがお隠れなさってのち、高志の大蛇神は暴れ放題だ。このように長雨を呼び起こし、娘を欲しがる。わしらは立ち向かうすべもしらぬまま、大蛇神に娘をたてまつって行くしかない、歯を食いしばって耐えてゆくしかないと、いままでそうおもってきた」

 ・・・年頃のむすめがある家は、毎年この季節は必死に願うしかなかった。この里のそばを流れる肥川の上流、高志に棲まう八またの蛇神が、毎年この時期になると嫁を欲しがるのである。嫁になった娘がどうなるのかなんて、だれも知りはしない。神という名をかぶったばけもの蛇の腹をくちくするためだ、そうみんな確信していても、抗おうとは誰も言わない。

 櫛名田は今年で十七であった。父も母もあと一、二年のうちに彼女に婿を取り、くじ引きの対象であるおとめでなくなれば万事うまくゆくであろうと考えていた矢先のできごとである。櫛名田は大蛇神の神威にえらばれ、すなわち大蛇神の嫁として里を旅だたねばならない。

 神にはむかうことは、みずからの身を、そして里を滅ぼすことにつながるのである。神威に膝を折ることしかできないのは櫛名田ばかりではない。この十数年、毎年のように娘たちは大蛇神の贄になっていた。

 八またの大蛇神、みなは荒ぶる神をそう呼んだ。身一つに頭が八つ、尾が八つあり、その身丈は谷と峰それぞれ八つをわたるほどの長大な大蛇だという。櫛名田はそれをみたことがない。なぜなら、神は一年にいちどの嫁取りの日以外に人に姿をみせることがないからだ。

 大蛇神を見て、そして大蛇神からも見られると、その者は目がつぶれてしまうという言い伝えさえあった。・・・大蛇神は川の神、なればこの肥川の水を真っ黒な毒水に変えてしまうことすら容易にちがいない。そうでなくとも、風雨をあやつるひとならぬ霊力、荒ぶるこころを神はもっているのだ。やさしい神がひとびとを苦しめるわけがない。

 遠いむかし、神々が地上を闊歩していた頃。そんな神代のころほどには神々の姿はひとびとに近くはなくなったが、やはり森や川、山の峠などもろもろの自然に、神は確かに存在していた。ただ神代のころと変わらないのは、そのころから神々というのは人にとって脅威でしかなかったということ。豊かさを与えてくれると同時に、神々は風水によってひとびとの生活をおびやかしもする。

 それでも、十七年前まではひとびともこんなに大蛇神におびやかされるようなことはなかった。十七年前までは、彼の神を鎮める山祇とよばれる巫女がおり、大蛇神の荒ぶるこころを鎮めたのである。

 山祇さまは代々この鳥髪の里に生まれていた。どういうわけか、六つ里の中でも鳥髪にしか産まれないのだ。山祇さまは大蛇神と目交いあっても魂を飛ばさないし、大蛇神はそんな山祇さまを吾妹のようにいとしむ。

 けれど最後の山祇さまが天寿でなくなってからは、ぱったりと彼女のあとを継ぐ山祇が生まれなくなってしまったのである。大蛇神を鎮める巫女たる資格があるのは、泣き声のない女の赤子。そのうえ盲いであらねばならない。盲いであるのはたましいを飛ばさないため。そのうえ神にだけ話しかけるため、その声だけを聞くために耳が聞こえず口もきけないのだ。山祇さまというのはつまり、障り人のことなのだ。

 ともあれ、つぎの山祇が産まれないまま、この出手母の国の肥川の川べりに連なる六つ里の本家がある鳥髪の里では、大蛇神の暴れだす頃になると年頃の娘たちは集ってくじをひくことになった。一番川上にある里であるうえ、川からうける被害が一番ひどいということで、毎年贄役の乙女をだすのはこの鳥髪の里からということに決まっていた。山祇さまとして差し出せるような障り人がぱったりと産まれなくなったことを、鳥髪の責任だと考える人間もたしかにいたのである。そうでなくとも、荒神なんかにむすめを差し出したい親は、どこを捜したっているはずがない。犠牲になったのは鳥髪のむすめたちであった。

 山祇さまが亡くなってからいちど、鳥髪ではなく木次の里から大蛇の花嫁を選び出したことがあったそうだが、その年はたまたま川が鎮まらず、たくさんの人々が犠牲になったという。ウワサによると、木次のむすめは恋人と逃げたともいわれている。

 ともあれそのときから、なかば押し付けられるように大蛇を鎮めるのは鳥髪の娘の義務になったのだと。人柱の成果は幸か不幸かてきめんだった。人柱を送りつけたあとには川も鎮まり、ひとびとは日々の生活をひとりの犠牲でとりもどす。

 選び方は簡単だった。くじである。烏の羽根を人数分、そのなかに白鳥の羽根をひとつをまぜる。それらに糸をくくりつけ、娘たちはおのおの一本を引き抜くのである。純白の羽根を引き寄せた娘が、その年のましろの花嫁となった。

 そして、今年は櫛名田が大蛇の花嫁になることとなった。

「だが、娘を・・・おまえを嫁にやることだけは、耐えられぬよ。わかっておる、わかっておるのだ。わしは鳥髪の里長としてあってはならぬような、虫のいいことを言っておる」

 櫛名田は何も言えずに、ただじっと父を見つめた。父の悲しみが身に染みるように感じられたせいだった。

「もういいの、とうさま」

 櫛名田は胸が詰まった。正直をいって、父にこんなに大切に思われているとは考えたことがなかったからだった。櫛名田にとっての父は、大里長としての仕事に追われ、櫛名田のことをあまりかえりみないひとだった。いいやそれ以前に、女である櫛名田を疎んでいるきらいさえあった。 しかし櫛名田はこのとき、父が本当は怯えていたのだと知ったのだ。 こんな日が来ることを。娘をいけにえに差し出さねばならない日のことを思って、足名椎は櫛名田を見ているのがやりきれなかったのではあるまいか。

「櫛名田、おまえが花嫁に決まってから、わしはずっと考えておった」 足名椎は、疲れをにじませながら言った。

「どこかよそからおまえをさらいにくる益荒男でもいないものかとな。このままおまえをみすみす死なせてしまうくらいなら、わしはおまえをこの里から追い出してでも解き放ってやりたいのだ」

 それはきっと、どこの親も渇望することであるに違いはなかった。荒ぶる神に娘を捧げるくらいならば、いっそよそ者にでもやってしまったほうがいいと。

 櫛名田ははじめて父と目を合わせた。すると、めっきり老いた感のある父のすがたが櫛名田の目の前にあった。つめたいじぶんの手を、父のかたく握り締められたこぶしにかさね、櫛名田は言った。

「わたくしも鳥髪の女よ、とうさま。どうかわたくしに義務をまっとうさせてください」

「義務か!」

 足名椎は吐き捨てた。

「義務を唱えるまえに、おまえはわしの娘だ」

 櫛名田は鳥髪の大里長の娘。父母はひとりむすめの櫛名田がかわいいあまりに、今までくじを引かせないでいたが、今年は櫛名田が引くといってきかなかったのだ。無謀にも父の監視をぬけだして、義務というものをまっとうしにいってしまったのである。

 櫛名田はそれを後悔してはいないのだった。自分だけが里長の娘ということで犠牲を免れつづけるわけにはいかなかった。里の女ならば里の女として、義務をまっとうしたかったのだ。

(もうわたくしは子供ではない。鳥髪のおんなだわ)

 手繰り寄せた糸のさきに白鳥のまっしろな羽根をみたときも、驚いたものの絶望はなかった。くじを引くことを免れていたこの年月、櫛名田のかわりに死んでいったかもしれない娘たちの犠牲もまた、絶望にまさるいかりを彼女のなかに育てていたせいだった。

 幼なじみの少女、佐里を去る年に失ったことも、櫛名田の中に押さえ切れない怒りを養っていたのである。・・・喰らわれるにしても、本当に嫁としてとられるとしても、むざむざ黙っているものか。姿を見られることを厭う神だというのなら、その醜い爛れたすがたを目に刻むほど睨めつけてやる。そして、せせら笑ってやる。それがせめてもの抗いだ。 母は櫛名田が大蛇神の嫁に決まった日から、ずっと泣き通しだった。父は櫛名田の顔をみるたび、怒り出さずにはいられないようだった。とうの櫛名田はというと、悲しいどころか気分はどこかすっきりとしていた。蛇の赤い口元にひかるするどい牙をおののきながらみつめているより、その腹に飛び込んでしまえばよほど楽。もしかしたら、そういう心境なのかもしれない。

 櫛名田はくすくすと笑った。もしかしたら大蛇神の腹の中で、さきに生け贄となった佐里やほかのむすめたちにあえるかも知れないと、ばかげたことを思いついたからだった。そして、そんなおろかな考えをするじぶんは、とうに気が狂ってしまっているのやもしれないと思ったから。(狂ってしまえたらいいのに、いっそのこと)

 家のそとは、大雨がもう何日もふりしきり、川面も地滑りした土のせいで茶色くにごって、穏やかではなくなってきている。川を近くしたこの里は、ちょうど木さじで地面をすくったような低地にあるために、こんな大雨が続いて川まで氾濫すれば、いずれ里はおおきな水たまりのようになってしまうだろう。稲田もこのままではすっかり水浸しになってしまう。多すぎる水につかったままでは、稲が腐りきってしまうだろう。 男たちが雨の中、蓑笠をまとい、土嚢をつみあげたり川べりを補強したりしにいったものの、大蛇神の機嫌をなおさねばすべて徒労に終わってしまうことは目に見えていた。

 とにかく、人手が足りないのだ。六つ里も下流へゆくと水害はずいぶん軽い。そちらから借りてきた何人もの人夫はいるものの、叩きつけるように打ちくる長雨のせいで仕事はおもうようにはかどらない。里の女たちは総出で、人夫たちの底無しの腹を満たすために飯炊き役になっている。今ごろ炊飯場は戦場のようないそがしさだろう。ふだんは里に溢れかえるほどいる若衆たちも、今は泥まみれになって作業をしているにちがいない。

 けれどそんな努力も大蛇神の前ではほんのちっぽけな抗いにすぎないのだ。大蛇神は嫁をのぞんでいる。嫁が手に入らないかぎり、大蛇神は鎮まることを知らないのだ。

「鳥髪の女は、大蛇神を鎮めるのが役目です、あなた。十七年前に山祇さまもお隠れになったきりですけれど、きっとまた生まれ変わりを果たされるでしょう。それまで辛抱するしかないのです」

 櫛名田の髪を結いながら母の手名椎の夫をなだめる声が、すぐうしろのほうでひびいていた。櫛名田は雨の音をうわのそらで聞きながら、伏し目がちに円座に座っていた。いま櫛名田は白い装束を着て、首にはいくつかの木の実に穴を穿ち、紐をとおしたものを飾りとしていた。年頃の娘たちがひそやかな楽しみとして、心憎からずおもっている相手に送る首飾りをつくるのを、ずいぶんまえに櫛名田もまねてつくったものだ。そして、いちどは幼なじみの佐里という少女にあげた。

 佐里は去年のいけにえだった。彼女は櫛名田のつくったこの木の実の御統ばかりを飾りとして御輿にのり、川上へたびだった。つぎの日、御輿を回収しにいった里の男たちが空の御輿のなかにみつけたのが、いま櫛名田の胸を飾っている木の実の御統だったのだ。

 ・・・御統はふたたび櫛名田の手に戻った。けれど、二度とふたたび櫛名田の胸をはなれるときはないだろうと思われた。大蛇神の嫁となるじぶんは、おとめのままで死んでいくしかないのだ、もはや。

 どんなに気丈なことを言っていても、やはり心細くないわけはなかった。腰までの黒髪を母に結ってもらいながら、櫛名田はじっと雨の音を聞いている。黒目がちの瞳はまばたきをするのを忘れたかのように、木目があらわになっている御館の壁をただじっと見つめている。

 この雨の止むときが、川上へたびだつときだ。川上の高志にある洞穴には大蛇神がいる。櫛名田を喰らおうとする、大蛇神が。

 雨は矢のように降っている。これが天からの神矢であれば、と櫛名田はふとおもった。こころある神さまがいるのなら、この神矢を絶やさないでほしい。神の意志があるとすれば、醜い大蛇神の背や腹、八つの頭のことごとくを神矢で射潰しておしまいになることもできるはずだ!

 彼女のねがいもむなしく、雨脚はしだいに弱まりはじめていた。まもなく櫛名田をはこぶための御輿が里長の御館までやってくる。ましろの衣装をまとったおとめが、質素な木の実の御統のみを身につけて、大蛇神の腹の中へゆくしかないのだ。

「うつくしいわよ、櫛名田」

 娘の髪を結い終え、手の動きをそっと止めた母の言葉が涙にしめっている。櫛名田は母のその声を聞くたびに、いたたまれないのだ。むぼうにもくじを引きに行った櫛名田を、母は叱ろうとはしなかった。しかし怒らないぶん、母のみせる悲しさはよけいに櫛名田をさいなむのだった。「やめて、かあさま」

 ふと笑いが喉元につきあげてきて、櫛名田は笑った。悲しくて、腹立たしくて。なのに櫛名田の口からこぼれでるのは、笑い声なのだった。どうにものっぴきならなくなったとき、ひとは笑うのだろうか。じぶんのおろかさを憐れんで泣くことはあまりにくやしすぎるから、救いがなさすぎるから、せめて笑うのだろうか、わからない。

 櫛名田は納得のうえでくじを引いたはずだ。なのに、いまさらのように後悔の気持ちが胸底から湧き上がり、櫛名田をうちのめした。

 この身は大蛇神の贄になるためにいままで生きてきたのだろうか。なにを見て今まで笑い、泣き、怒ってきたのか。ちっとも思い出せない。 もはや、くじを引いたことを後悔しているのではない。しかし、ただくやしかった。櫛名田だけでなく、この十七年のあいだ大蛇神の犠牲になってきたむすめたちも感じたであろう悔しさを、櫛名田は身に迫る思いで感じたのだった。

(わたくしはみんなのいう恋のせつなさも知らない。妻問いの贈り物も、歌も、いとしいひとの胸で目覚める朝も。なにもしらない)

 十七年しか生きないで、こうしてひとりきり、冥いあなぐらにゆくのだろうか。たとえ里を救うためだとしても、それはとても理不尽なことではないのか・・・いつのまにか頬をぬらすものがあることに櫛名田は気づいた。この数日、なみだのひとつも浮かばなかった櫛名田の乾いたまなじりが、あふれ出た涙にたちどころに濡れそぼつ。笑い声は嗚咽となり、櫛名田は母のおおきな腕にだきしめられ、しゃくりあげた。

 雨がやもうとしていた。すでに音もやみ、笹目ほどのほそい雨が、ふりやむのをしぶるように地面をたたいているだけだ。降り続いた雨のせいで直土にはいくつもの水たまりができているのだろう、雨が止むのをまちかねるようにひとつの足音がこちらに近づいてくる。歩幅はひろく、威勢よく水たまりを蹴散らしてくる。

 櫛名田はおびえたように顔を上げた。目の前には母の悲しみにみちた瞳がある。母もわかっているのだ。このときが娘を目に、心にやきつけるさいごの時だと。

 父は御館の扉をしずかにみつめている。閂はかけていない。櫛名田の支度ができたか見にきた者だろう。そうでなければ咎める者が扉のまえにふたりいる。階段をのぼる足音が近づいた。

「飯ならば炊飯場に案内する、おいおまえ! ここはよそ者が立ち入れる場所ではないんだ」

 なにやら言い争うような声が響き、父の足名椎は異変に気づいて円座からたちあがった。門番役がだれかと問答する声が聞こえたかとおもうと、足名椎が扉に手をかけるまえに荒々しい音を立ててそれは開いた。 ひとりの男が立っていた。里の男ではない、櫛名田はちいさく悲鳴を上げた。男は挑むような厳しい眼差しで櫛名田を睨めつけていたのだ。 長い髪は里の男たちのように角髪に結わず、解いたままにしている。濡れてほつれた髪が額や首筋にはりつき、眼の強さもあいまって、魍魎のような恰好だ。先ほどの豪雨では蓑もほとんど役をなさなかったのだろう、雨に濡れ、染めてもいない質素な白い衣は乾いた部分もないくらいにぴったりと身体にはりついていた。そのせいでたくましい体の線があらわになっている。腰には太刀を帯びていて、それは父が持っているような飾り太刀ではなく、無骨なまでに実用一線のしろもののようだった。

 男の激しすぎる眼。それはまなざしひとつであらゆる生き物の息の根をとめる、ひとならぬ者の瞳のように直視を許さない。

「だれ」

 櫛名田は震える声で訊ねた。なぜか目をそらすことができなかった。目を逸らせばそれきり、たましいが喰われてしまいそうな気さえした。「あなたは、大蛇神、なの」

 据えた目付きが、櫛名田にそう思わせた。男の黒いひとみが、ほんのひととき赤加賀智のような真っ赤な色彩にみえたせいだった。赤加賀智は神々の色彩。荒ぶる生命のかがやきの色彩なのだ。ただの気のせいかもしれないけれど、そのとき男の瞳はたしかに深紅であった。それが櫛名田に嫁を迎えにきた大蛇神の化身ではあるまいかと思わせたのだ。

 よそ者の男は、そのひとことを合図にするように、まばたきをひとつした。

「いいや、ちがう・・・」

 御館のなかを一度ながめまわすと、男はようやく、門番役を押し止どめている足名椎にまなざしをやった。

「あなたがここの里長か」

 その物言いは丁寧ではあっても、どこか慇懃であるように櫛名田はおもった。足名椎もそれを感じたか、とっさに高天原の貴人に応対するようにこたえた。たとえ濡れ鼠のようなありさまであろうと、男にはなにかしら貴い者のかもす、特有の雰囲気があるのだ。けれどそれは、言葉で言い表せることではない。あえて語るとすれば、この男を見るとひとは気圧される、圧倒されるといったところだろうか。

「わたしがこの鳥髪の長、名は足名椎でございます。ここにおります妻の名は手名椎、娘の名は櫛名田と申します。あなたさまはどなたです、もしや高天原からの使者どのか」

 櫛名田は聞きながら、はたして高天原の使いがひとりきりでやってくるものだろうかと訝った。

「何者でもない。そんなことより、なにやらわけありのようだ。何をあなたがたは泣いておられるのか」

 櫛名田は男のことばを無粋だと思わずにはいられなかった。とつぜん雨の中やってきて、世話になりたいだなんて。すると彼女の不審に気がついたのか、男の瞳がふたたび櫛名田を見た。今度はおどろくほどやさしい瞳だった。櫛名田はそのきゅうな変化に戸惑った。顔に血が上ってくるのを彼女は訝しくすらおもう。櫛名田は白い衣装の袖で、みずからの口元を隠すように被い、顔をそむけた。

「この里にはたくさんの娘がございましたが、川上の高志にすまう八またの大蛇神が毎年、里の娘を嫁に求めます。嫁とは言うものの、いけにえとそうは変わらないのです。かといって、嫁を差し出さねば里は水浸しになるでしょう。稲根は腐り、そうなればわたしどもは飢え死にだ。今また、そのおぞましい季節になりました」

 父はいちど言葉をくぎった。やり場のない怒りの高揚のためだろうか、くちびるはわなないていた。

「今年はわが家の櫛名田が選ばれてしまったのです。わたしどもはもうこの娘と生きて会うことはないでしょう。どうにもならないのです。荒ぶる川の流れから里をまもる、堤を強めるちからすらない、ただびとの身では。泣いておりますのは、そういうわけでございます」

「大蛇神か。ひとを喰らう荒神のことは、ここから下流の吉田の里でも耳に聞いた。くわしく教えてほしいのだが」

 男はしばし考えこむようにつぶやいた。濡れ蓑を背負い、濡れた衣もそのままでじっと考え込む若い男のすがたは、どこかただならぬところがある。なにしろ、大蛇神の名を聞くと、たとえ大の男であろうとも見えない鮮血に酔ったようになる、ふがいない者もいるくらいなのだから。よほど肝が強いか、大蛇神の恐ろしさを知らないで侮っているか、どちらかだ。櫛名田には後者にまちがいないと思えた。

「ええ、その目は赤加賀智のように赤く、一つ身に頭が八つ、尾が八つございます。その身体は山の峰と谷それぞれ八つをゆうに越え、檜や杉の木がその背なにあまたと生えておるそうです。わたしは見たことはありませんが、そう言い伝えられております。わたしどもの先祖がこの地に移り住んだはるか昔から川上に棲まっているということです。わたしどもは大蛇神を祖神とも思って崇め、川べりに住居しておるのです」

 おとこは黙って足名椎の物言いを聞いていたが、次の言葉を聞きざまに首を振った。

「彼の神は、肥川の地主神でありながら、水龍なのでしょうな」

「いいや、それはもはや水龍ではないな。川をまもる地主神の役目も忘れおおせた、ただの落ち神だ。・・・神は、ひとを喰らわない。喰らったときからそれはもう神ではないのだ。落ち神といったほうがただしい」「落ち神ですと?」

 足名椎の驚愕に、男はうなずいて見せた。

「吉田でその話を耳に挟んだときから、そんなところだろうと察しはついていた。だからこそ、こうしてここを訪れもしたのだ。落ち神とはいえ神にはちがいないが、何かの縁だ、どうにか話をつけてみよう」

 足名椎は男の物言いに我が耳を疑った。櫛名田だって、じぶんの耳を疑わずにはいなかった。

(話をつけるですって!)

 男は雨のせいで身体にはりついた蓑をはがすように取ると、御館のゆかにおとし、水を吸って重くなった髪をうるさそうに掻き上げた。おんなのような顔をしているのに、男の面には女々しさなんてかけらもない。それは眼の強さが、獣のつよさを孕んでいるからだろう。

「は、話をつけるなどとご冗談を。八またの大蛇は神でございますぞ」 ここでいう話をつけるというのは、大蛇神を退治するということと意味を同じくするのだろう。そんな恐れ多いことを口にするだけでも心がとがめようものなのに、この男はそんな思いなど一片も持ち合わせてはいないようだ。櫛名田は呆れた。涙は干上がりかけていた。

「神であろうとなんであろうと、わたしにはそれができる。わたしは、天照大巫女王の、弟だ。こんななりだが、高天原からくだってきたところだよ」

「高天原の男が何をいうの」

 櫛名田は、母の腕のなかで唸るがごとく叫んだ。その声は、悲しみではなく怒りで震えていた。父がとがめたが、櫛名田はむろん聞いてはいなかった。

 高天原というのは、あつかましい侵略者たちのすまう土地。父がそう言っていたのを、櫛名田は何度も聞いていた。はるかむかしにウミの向こうからやってきた異国のひとびとが、もとから芦原中津国に住みついていたひとびとと血を交わし合い、まつろわぬならば辺境においやり、追い出した人々を「土蜘蛛ども」とあざ笑っていること。

 かがやかしく美しい高天原には天照大巫女王と呼ばれる女王が坐し、彼女を中心に略奪と、そのための戦が行われているのだと。

 櫛名田が高天原をこころよく思っていないのは、ある意味あたりまえの事とも言えた。高天原びとはこんな出手母の山の中の里までにも朝貢を要求し、貰うものだけ貰っておきながら、この里の窮地を見て見ぬふり、しらぬぞんぜんを決め込んでいるのだ。

 この鳥髪の里をはじめ、肥川のかわべりに連なる大小六つの里、すなわち六つ里を統べる大里長、足名椎。出手母では尊敬されている彼を高天原びとがどんなふうにみているかというと、ただの貢ぎ物をたずさえてノコノコとやってくる、下僕にすぎないのだ。

「高天原の男は、神さまの怒りを知らないのね。だからそんな恐れ多いことがいえるんだわ」

 悲鳴のようなこえで、彼女はつづけた。

 こんな小さな里であっても、神を名乗る高天原びとたちのちからのつよさは聞こえてくる。名に神を冠りし、高天原の傘下に入ることを拒みつづけていた土着のひとびとを、軍のちからで辺境に追い出し、なおかつあざ笑bフきの枝葉が傾いでゆれていた。須佐ノ男はひどく低い声で、櫛名田に噛んで含めるように告げた。

「あなたが案じることはなにもない」
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