祝言の日まで17

2011.04.25.Mon.18:57
手をさしのべて、若く美しい大王を愛馬に乗せたとき、由津は今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えた。
 馬は里へ向けてひた走り、そのあいだずっと背中にはあたたかいぬくもりを感じていた。腹に回されたしなやかな長い腕。
 一瞬、どこまでもこのお方と駆けていきたいと、ほとんど心がわきたつような思いを感じた。
「狭也!」
 でも、それはまぼろしなのだった。
 のどを振り絞るように叫んだ声を聞いた。穏やかな笑みをたたえて御座におられたときとは違う、いらだちと不安で満たされた大王の表情は、このとき初めて若者らしく見えた。
(こんなお顔もなさるのだわ)
 大王を追って馬を下りると、一瞬にして館はまばゆい光に包まれた。馬を落ち着かせようと首に腕を回していると、里人たちは地面にひれ伏し、大王はまるで稲穂をかき分けるように人々の間を迷いなく進んでいくところだった。
 その先には、立ち尽くした衣袴姿のひとがいた。角髪を結った男装だが、体の線はやわらかい。
「狭也」
 大王は転びそうになりながら走り、きつくその人を抱きしめた。そうでもしないと、かき消えてしまうとでもいうように、強く。
 使いをやるのではなく、御自ら葛木までいらしたのは、ひとえにその人のためだったのだ。由津に言われるまで、春まだ遠い雪の降るところへ、蓑も毛皮も身につけず駆けつけようとしたほど。
 闇の巫女姫。つちぐもの娘。ひなの娘でありながら、豪族の姫がつとめるはずの采女として宮に入り込み、月代王の寵を裏切って輝の御宝を奪い去った狡猾な女。
 様々な悪しき呼び名とはうらはらに、大王に「こわい人」といわしめたのは、まったくふつうの娘だった。
 顔の造りからいえば、山城の一の姫のほうが美しいかもしれない。だが、どこか底知れないかなしみ、暗さをたたえた瞳は、かの姫が持ちようもないものだ。
 おどろくほど表情は豊かで、それにつられて大王もお笑いになるのかと思えば、二人は口もきかない。
 寝屋として整えた室に案内したときの、ひどく取り乱した様子は、人の妻のようには見えなかった。
(わたくしと同じ娘だ)
 とりたてて特別なところなどない。
(大王はどこにひかれたのだろう)
 それと知らず、大王は首に縄をかけられて恋という御しがたい獣に引きずられている。そんな不埒な想像が消せなかった。
 つつましい夕餉の後、父との話をそうそうに切り上げてきたのは、恋人にはやく会いたかったからだろうか。
「では、わたしもそうしよう」
 衝立の向こうにためらいなく歩を進めていく大王の背を眺めながら、もうするべきこともない、はやく去らなければと思うのに、足が動かない。
「稚羽矢」
 声が聞こえた。大王の御名だ。
(そうなのだわ)
 たとえ許されたとしても、由津はこのようには呼べない。母のように、姉のように、恋うものを呼ぶようには。
 自らの命さえもかけて、天の宮に声を届かせようとしたのは、ひとえに大王の御ため。思うだけでなく、あるがままに振る舞える人がどれだけいるだろう。
「あなたをいましめておこう。他には誰も来ない安全な場所に、動けぬように。わたしの手から逃げられないように」
 ほんとうに小さなささやきを、どうしてこの耳は聞き取ってしまったのだろう。
 ちくりと胸が痛んだ。手をきつく握りしめていたのに気づいてはじめて、由津は自分がおろかにもわずかな望みを抱いていたのだと知った。
(大王は狭也というお方をたしかにおそれておいでだ)
 あまりに大切で、もし失うようなことがあれば、その痛みにきっと耐えられない。
 それが誰かを愛おしいと思うことなのだ。

 父のもとに戻ると、かすかに酒の匂いがした。膳を下げる手をとめて顔を上げると、敷物の上にうやうやしく置かれた太刀を眺めながら、杯を口に運んでいる父の姿があった。
「いけません。お体に悪うございます」
 葛木王は頬をゆるめた。
「たしなむくらいなら良薬にもなろう」
 病み上がりの言うことではない。
「こんなことを言えるのはわたくしだけです。大王にはおすすめしなかったのですか」
「あまり嗜まれぬらしい」
「そうですか」
「恋をしたか、あの方に」
 由津はほほがひきつるのを感じた。
「恋など」
 恋にもならなかった。芽生えたかと思ったら、すぐにしぼんでしまった。
「もっと恋は甘いものだと、里の女たちは言います」
「実れば甘くもあろう」
 杯を飲み干すと、ふたたびなみなみと注ぎ、何も言わずに由津に差し出した。
「だが苦い思いもまた、恋すればこそ味わえるもの。この酒は、苦い。だがのどをやくような熱さも、浮かされるような身のほてりも、飲まねばわからぬままだ」
 由津は何か言おうとしたが、舌がかたくしびれたようになって声もでなかった。杯を受け取ると、一息に飲み干した。
 父はおかしそうに体をゆらし、やがて声を上げて笑った。
「輝の方々はおそろしいまでに美しい。心ひかれどこまでもついてゆきたいと、お慕いしたことは、そなたには隠さずにおこう」
 あまりに驚いて、由津はむせかえった。葛木の一族は長らく照日王に仕えてきた。まさか忠誠だけではなく、懸想していたなんて。この堅物の父に、恋はもっとも似合わぬ言葉に思えた。
「誰に打ち明けたこともない。そなただから言ったのだ」
 御方が天の宮に帰られてから、食べ物ものどを通らず、身を整えることもかまわなくなったのは、病は病でも恋の病だったとでもいうのだろうか。
「焦がれると人は、平らかな心をたやすく失う。正気さえもな」
 一瞬だけ、なんとも言い表しがたい痛ましい、寂しげな表情をした父に、今までになく近しいものを感じた。
「だが、今ではこうも思う。いかに苦い酒であろうと、飲んで酔わずば何も始まらぬと」
 父は飾り太刀をみつめた。それは誓約の供物であり、天の宮におられる主との、希なる再会のよすがなのだった。
 もしかして、今日の出来事がなければ、父は死んでいたかもしれない。尊い御影を追って、重い体を地に捨て去り、天の宮へ参上せんと。
 飲み干した酒のせいなのか、涙がこみ上げてきて、由津は目を伏せた。
「わたくしは父上とはちがいます。痛手を追ったとしても、おなかはすきます。そうでなくては」
 顔を上げたとき、由津は憂いを払うように、言い切った。
「あの方々をお守りできません」
 それを聞くと、子どもの頃に見たきりのような、ひどくやさしい顔で葛木王はほほえんだ。
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