武蔵の風1

2012.02.08.Wed.04:07
「こちらへ」
 うながされて廊下をゆくと、誰かがせき込むのが聞こえてきた。
 小さな、聞いていて痛ましくなるような咳だと鈴は思った。

 国司の邸は国府の中枢にあるにしてはいくらか慎ましやかで、しかしよく整えられた庭を見ても風流を好む主の嗜好が見て取れた。
 質実な人柄は武蔵の土地柄に合うようで、足立郡司である総武も、ずいぶんと仕事がやりやすいと飯時に話していたのを覚えている。
 国司殿には一人娘がおり、どうやら床に伏せがちなのだという。都から遠く離れたこの地で、心を打ち明けられるような相手もなく、寂しい思いをしているらしい。
(十五歳と聞いているけれど)
 いままで都に暮らしてきて、父の赴任についてきたはいいが、不幸なことに母をつい先頃なくし、ふさぎこんでいるらしい。親しい人を亡くす悲しみは鈴も痛いほどわかる。それが、慕っていた身内ならばなおさらだ。
「物語が読みたいと、夜も昼もそればかり願っているような方なのです」
 品のいい乳母の女性が、物思わしげに言った。
「以前はつてを頼っていくつかお目にかけることもできたのですが・・・・・・それも今ではかなわず」
「わたくしのようなものが、姫さまのお話相手になりますでしょうか」
 鈴はひかえめに頭を下げた。武蔵に来てようやく一年たって、竹芝での振る舞い方がわかってきた気がする。かつて内親王だったことは、遠い昔にも思えた。田畑に出て土を耕し、収穫をみなで喜び、なんの気取りもなしに飲み歌う暮らしの中で、小さな室にあいた窓からほんの少しだけ外をのぞいて世の中を見たつもりになっていた鈴は、いかに自分がものを知らない娘なのかを知ったのだった。
 物語に夢中になっていたころの内親王殿下が、いまの鈴の境遇を見知ったならば、きっと目を丸くして驚くだろう。もしかして気を失うかもしれない。そう考えるとすこしおかしかった。
「竹芝の鈴と申します」
 室に通されると、香のにおいが漂ってきた。土や水、よく日に温められたまぐさの匂いに慣れていた鈴の鼻は、いくらかむずがゆくなった。
(なつかしい)
 それでも懐かしいと思えるのは、都で親しい人が衣にたきしめていた香りだったからだ。平伏しながら、鈴は香を胸に吸い込んだ。
「顔をお上げください」
 ささやくような声が聞こえた。
「それでは、お話ができません。もっと近くに」
 鈴は失礼にあたらないように、衣の袖あたりをみつめた。床から半身を起こし、黒塗りの脇息に身を預けた姿は、どことなしか十五という歳よりは大人びて見えた。そっと目を上げると、ほほえんだ可憐な口元が見えた。いざり寄ると、すきとおるような白い手がのび、鈴の手に触れた。
「お越しいただき、光栄ですわ」
 鈴は、はっとして娘をみつめた。
「ようやくお会いできました。殿下」

「どうして鈴が出向かなくちゃならないんだ」
 阿高はまだぶつくさ言っている。藤太は馬を引きながら、なだめるように言った。
「国司殿からのたっての頼みとあらば、むげに断れないだろ。娘の話し相手なんだし、きっとすぐに返されるさ」
「そうかな」
 阿高は疑わしそうに言った。
「はやく帰らないと暗くなる」
「鈴が都の風を思い出すのじゃないかと、気が気でないんだろう」
 深い意味もなくそういうと、阿高は痛いところをつかれたようで、押し黙った。ずいぶん意外な気持ちがして、藤太はほほえんだ。
「もう一年たつ。夫婦としても、うまくやってるじゃないか」
「おれたちのなにがわかる」
 阿高はむっつりと言った。
「まだ一年だ。わかったと思ったら、知らないことがどんどん出てくる。そのたびに、違いを突きつけられるんだ。かなわない」
「なんだ。けんかでもしたのか。弱音をはくなよ、みっともないから」
 おどけていうものの、阿高はいっこうに乗ってこず、足下の土を蹴っている。
(これは、落ち込んでいるな)
 久しぶりにこんな阿高を見たような気がする。というのも、二人がそれぞれ連れ合いをみつけてからというもの、落ち込んだ阿高をなんとかするのは鈴の役どころだったからだ。
 飯時に総武が国司の娘の話を出してからというもの、阿高と鈴はどうもぎくしゃくしはじめた。ふだんは次の日にもちこさないケンカも、二日たっても収まる気配がなかったのだ。夫婦のことに口を挟まないのが竹芝の家のならいだったが、いつまでも鈴の笑顔が見られないのもさびしいものだった。
「なにを心配しているんだ」
 藤太はずばりと聞いた。阿高は毒々しいほど鮮やかな丹塗りの建物をにらみながら、吐き捨てるように乱暴に言った。
「武蔵に、都に勝るものがあるとおもうか?」
 藤太は首を傾げた。
「さあな。比べるなよ、そもそも意味がないぞ。寺社も住まいも、けた違いに大きかったろう、都というものは。良くも悪くも、政の中枢だ。いろいろと胸くそ悪いものが渦巻いている。好きか嫌いかなら喜んで答えられるけど」
 苛立った様子で阿高は腕を組んだ。
「好きか嫌いかで言ったら、鈴はきらいと言うだろう。武蔵も、おれも」
 藤太は肩をたたこうとして、甥の顔つきがあまりに真剣なので驚いた。振り上げた手をどこに持って行ったらわからないまま、頭をかいたのだった。
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