祝言の日まで15

2011.04.21.Thu.15:40
 室を飛び出したものの、いくあてもない。まごついていると、軽やかな足音がした。
「お待ちくださいませ。ご案内します」
 追いかけてきたのは葛木王の娘だった。
「こちらへ」
 磨かれた床の上に、立派な毛皮が敷かれていた。その上にさらに柔らかそうな敷物が重ねられている。枕は二つ。思わずうめいてしまい、狭也は口元を押さえた。
 照日王のからかいが聞こえなかったわけがない。大王の名代が闇の巫女で、さらに二人は寝床をともにしているらしいのに、まだ共寝もしていない。人事として聞けば、まったく奇妙なことかもしれない。
 狭也はひどくうろたえて由津に背を向けた。
「わずかですが湯をお持ちします。それと、わたくしのものでよろしければ、この衣にお召し替えください」
 てきぱきと動く姿は首長の娘の立ち居振る舞いにしてはやけに段取りがいい。
「母を幼い頃になくしました。父はあのような人ですから、ほかに妻を娶ることもせず、女の仕事はわたくしが取り仕切っているのです。それに、こうしてお世話ができるのはとても誇らしいことですから」
 狭也が問う前に、由津はなんでもないことのように言って笑った。
 その笑みはとても好ましいものだった。
「狭也さまとお呼びしても?」
 この人は、輝も闇も分け隔てしないのだ。それはうれしいことのはずなのに、なぜか気分は晴れなかった。
「わたくしのことは、どうか由津とお呼びください」
 湯が運ばれてきた。狭也は衝立のなかで衣を脱ぐと、桶に布をひたした。熱い湯にふれた手から、疲れが流れ出ていくようだ。いやな気持ちも流れていけばいいのに、それだけは狭也の腹にとどまっている。
「大王」
 衝立の向こうで由津が声を上げた。
「狭也さまは湯をつかっておいでです」
「では、わたしもそうしよう」
 床を踏みしめる足音が近づき、稚羽矢は狭也のそばに腰を下ろした。こちらを一瞥もしない稚羽矢に腹が立つような、むなしいような気持ちになって、狭也は背を向けた。首筋をごしごし拭いていると、稚羽矢はひとりごとのように言った。
「とれない」
 思わず振り向くと、稚羽矢はうつむいて上衣の紐をおぼつかなく解いているところだった。
「かしてごらんなさい」
 薄青い衣に袖を通してから、狭也はいざり寄った。今朝、固く結んでしまったのは狭也だ。簡単に解けないように、固く固く。自分の嫉妬深さをあばかれたようで、顔が熱くなった。
「衣の紐を解いたらどうする」
「湯が冷めないうちに体を拭くの」
 狭也はそっけなく言った。声が震えそうで怖かった。
「袴の紐も」
 顔を上げると、稚羽矢はじっと狭也をみつめていた。いつもの穏やかな顔つきだったが、何かがちがう。押さえつけた怒りと痛みをこらえるような、強い目の輝きが狭也の手を止めさせた。
「なぜあんな無茶をした」
 狭也は答えずに、結び目を解いた。袴の紐も足結いもほどくと、桶に沈んでいた布をかたく絞った。
「もし姉上が狭也の声を聞き届けてくださらなかったら、あなたは死んでいたかもしれない」
 なおも言い募ろうとする稚羽矢の顔に手布を押しつけて、黙らせた。
「もういいでしょう、うまくいったのだから」
 稚羽矢は顔を荒っぽく拭いて、手布をつきだした。自分ではうまく絞れないのだ。
「よくない」
 稚羽矢はむっとしたように声を低くした。
「狭也がそのように命を軽んずるなら、わたしはどうやってあなたを守ればいい」
 絞った布で首を拭き、胸とわきをぬぐってやった。そうしている間彼は目を閉じて、こわい目で狭也をにらむこともなかった。
「あたしは守られてばかりでいるつもりはないわ」
 まどろんでいた獣が身を起こすようなすばやさで、彼は腕をつかみ、狭也を床に押しつけた。
「見ていられない」
 震えが伝わってきた。苦しげに顔をゆがめて、稚羽矢は吐き出すように言った。
「あなたをいましめておこう。他には誰も来ない安全な場所に、動けぬように。わたしの手から逃げられないように」
 ぷつんと何かが切れる音がした。狭也が角髪を結っていた蔓を彼が噛みちぎったのだ。あらわになった耳元に稚羽矢は口づけをした。熱い腕の中にとらわれて、息もできなくなりそうだった。
 吐息のなかにまぎれそうなくらい小さな声が聞こえた。
「見失いたくないのだ」
 背中に腕を回すと、すがりつくようにきつく抱きしめられた。

 そなたがいなくば、稚羽矢はもはや手のつけられぬ災いにすらなるぞ。

 照日王の声が、よみがえった。
 もし天に狭也の声が届かず、太刀が地に落ちていたら。
(あたしは、おろかなことをしたのだ)
 この人をおいていこうとした。
 命をかけて追ってきてくれた人も、代わりに女神の御元に旅立った人のことも考えなかった。
「稚羽矢」
 彼は狭也の肩にうめていた顔をのろのろと上げた。長いまつげには涙がたまっている。それを指でぬぐい、頭を引き寄せて狭也は口づけをした。
 おずおずと、はじめは探るようだった。
「ごめんなさい」
 唇を離すわずかの間に、狭也は言った。そのつぶやきさえすくい取るように、稚羽矢は狭也の唇を舌でなぞった。
「逃げたら追っていくことしかできない。父神がそうしたように。でもわたしは、どんなことがあってもあなたをあきらめられない」
 いとしいと、瞳が、声が語る。
「あなたがとどまるところにとどまりたいのだ。それがこの豊葦原でも、女神の御元でも。どちらでもかまいはしない」
「あなたは大王なのよ」
 稚羽矢は無邪気に笑った。
「ではこれは、わたしたちの秘密にしておこう」
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