祝言の日まで12

2011.04.13.Wed.22:09

 降る雪はいつしかやんだ。
 栗毛の馬はぬかるんだ悪路をあぶなげなく駆けて、あっと言う間に葛木の領内へ入った。
「あの山は?」
 馬上から遠くを眺め見ていた稚羽矢は、手綱を取る小柄な娘にたずねた。うっすらと白くけむったように見える小さな山は、里を抱くようにそこにあった。
「三輪山でございます。古の神を封じて、輝のご威光とともに葛木は清らかな土地になったのです」
「神は封じられたままで窮屈ではないのか」
 これから稚羽矢がなそうとしていることは、いままで輝につかえてきた葛木の人々にとって、愉快な話ではないことはわかる。
 三輪山の神をとき放つ。それは彼らにとって、怖ろしい災いを揺さぶり起こすに等しいことなのだ。
 神を封じ地上を清めるということは、生き物の営みさえも封じることだ。時の流れさえゆるやかで、いっさいのケガレを払い捨てた輝の宮が、どこか淀んで滞っていたのは、天の理を地にむりやり当てはめたからではないのか。
「わたくしの祖父は、三輪山の地主神をあがめていたと聞いております」
 由津はそっとつぶやくように言った。
「祖父が首長だったころ、領内の田は秋になると重たい穂をつけ、実りは豊かだったと言います」
 言い出す声は震えていた。
「わが父が葛木王となったのは、いと高き輝の御子がまほろばに降り立たれて間もなくのことです。年若かった我が父は、輝をうべなわなかった一族の人々を無視し、三輪山の神を輝の御鏡に封じたのです」
 稚羽矢は身を屈めるように聞き取っていたが、何も言うべき言葉を思いつかなかった。
「実りは少しづつ減っていき、黒々としていた土は年々実りを細らせていきました。我が父や里人は、土地神の恩恵とひきかえに変若を得たことを認めません。わたくしたちに必要なのは、女神のもたらす豊穣なのだと、心の底ではわかっていても、認められないのです」
「あなたは闇をいとわないのか」
 葛木王の一人娘は、はっきりとうなずいた。
「わたくしは変わり者と言われています。ですが、大王の御代にはわたくしを笑う者はいなくなると信じております」
「あなたを笑う人をわたしが笑おう」
 由津はそれを聞くと、あわてたように早口で言った。
「大王がおそれるお方を、父がどのようにもてなしているか心配です」
 
 杉の並木を抜けたところで、一人の里人が馬の前に駆け寄ってきた。
「姫さま、よくお戻りに」
 泡吹くような動転した様子に、稚羽矢は物もいわぬまま馬を下りた。館の上空には鳥が飛び回り、その影は広げた幕のように空を覆っていた。
 鳥彦が同胞を集めたのか、それにしては統制されていないまま無目的に飛び回る鳥たちの姿は、どこか不気味で心を騒がせた。
 館から逃げ出してくる人々で門前はこみあい、一歩も進めない。
「狭也」
 稚羽矢は叫んだ。彼女の声が耳に届いたのだ。
 輝と闇が戦い続けるなら、命を捧げると。
 我が耳が信じられなかった。
 人々の間に身を割り込ませながら、稚羽矢の胸はひどくうるさく鳴って、息もできなくなりそうだった。
「狭也!」
 喧噪がひどく邪魔だった。聞きたい声が聞こえない。もっと近くに行きたいのに、なぜ行けない。
 そのとき、思わず息をのむような寒気がした。突然一筋の光が射し、館を満たしたのだ。稚羽矢にごく近い、それだけに憎悪すらする存在の気配。
(まさか)
 光が館を満たすと、ざわめきは吸い取られてしまったかのように静まり、あとは奇妙な静けさがその場に広がった。人々は降り注ぐ光を浴びることすら畏れ多いとでも言うように、身動きすらせずにひれ伏している。
 狭也の影が稚羽矢の足にまで伸びていた。水の中でもがく人のような必死さで駆け寄ると、稚羽矢は狭也を腕の中に抱きしめた。
「あなた、どうして?」
 どこかのんきなその声は、ひどくいらだちをかき立てた。狭也こそ人の心が分からないではないか。こんなにも案じて、ようやく腕の中にきつく抱きしめたというのに、とうの心配ごとの種ときたら、目を丸くしてびっくりしているのだから。
「それはわたしが言うことだ。なぜ、あんなことを言った。あんな無茶なことを」
 角髪を結って男装をした狭也は、いたずらを見咎められた子のように上目遣いで稚羽矢をちらと見て、すぐに顔をそむけた。
「あたしにも考えがあるのよ」
「そういうのを畏れ多いと言うのだ」
(まるで祓いだ)
 天の宮に住まう神が、地上のちりを払って降り立つに等しいことだと稚羽矢はさとった。慕わしくも、二度と会いたくないその姿を目に留めて、稚羽矢は歯をかみしめた。
「姉上」
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