幽ノ壱サンプル2【あなたのそばに(現代空色)】

2012.01.12.Thu.04:07
 すっかり両親の心をつかんだ稚羽矢を、狭也はため息とともに見つめた。
 なごやかな夕食のあと、それとなく時計をしめした狭也を、母は叱った。引き留めたのはこちらなのだから、もし稚羽矢さえよければ泊まっていけというのだ。
(二度あることは、きっと三度ある)
 しかも、三度ですみそうもないことは、稚羽矢のうれしそうな笑顔でわかるのだった。学校では、こんな楽しそうな顔はめったに見せない。
 風呂をつかった稚羽矢は、父の灰色のジャージの上下を着込んで、そのうえ寒いからと藍色のどてらなどを着せかけられたところだ。
 家族がくつろぐのは、リビングというより茶の間であり、十畳のまんなかに鎮座ましますこたつに入り、稚羽矢にみかんをむいてやりながら(彼はみかんもむけないということに、狭也は絶句した)つぶやいた。
「そういえば、宿題があったわ」
 苦手な数学と、先生が厳しい現国。ためいきがもれた。
「あたし、絶対明日にはあてられる。ちゃんとしていかないと」
 もはや稚羽矢にはかまわずにノートを広げていると、彼がそっと身を乗り出してきた。
「そこ、間違っている」
 計算式をみかんの汁のついた指でしめしたあと、稚羽矢は父のどてらで指をふいた。
「どこ?」
「そこだよ。どうしてここで7なのに、こっちにもってきて2になる」
 ペンを取り上げると、稚羽矢は思いがけないくらい几帳面な、うつくしい字を書いた。迷いなくさらさらと書き上げると、狭也を見つめて笑った。
「ほら、きれいに解けた」
「じゃあ、次のこれは」
 稚羽矢の顔を見ると集中できない。こたつの中で足が当たるのも気になる。父と母は娘をよほど信頼しているのか、さきにやすんでしまった。
 宿題は面倒なものだが、今夜はありがたかった。稚羽矢とひとつのこたつに入って、何を話せばいいのかわからない。
「あなたは、頭がいいのね」
 狭也はノートを閉じると、お世辞でもなしに言った。十分もかからず、稚羽矢は全部解いてみせたのだ。しかも、狭也の間違いを教えることも意外に上手なのだった。
「なのに、どうしてここらへんが苦手なの」
 もう一つの宿題は、小説の登場人物の男性の心境を、手紙風にかけというものだった。稚羽矢はほんとうにお手上げといった風で、狭也がすでに書き上げたのをみると、ため息をはいた。
「わからない。この人の気持ちなんて。わたしはこの人でもないのに」
 狭也はほほえんだ。
「少しでも、この人に共感できない? 考えていることとか、思いとか」
 逆立ちしたまま百メートル進めと言われたような顔で、稚羽矢は首を振った。
「知りたいと思って読むといいわ」
 手の届かない人を思い、その人のためにつくすも、愛する人は男を置いて遠くへ行ってしまう。
「知りたいと、どうしたら思える?」
 稚羽矢は頬杖をついた。そのまま、ちらと狭也をみた。
「人の心は目に見えないのに。それに、文だけでは、この人がどんな顔をしているのかもわからないじゃないか」
「入り込むのよ。この人が、好きな人をどれだけ強く思っているか、どうしたいか」
「入り込む?」
 繰り返して、稚羽矢はすこし興味がでたようだった。めくりあともないまっさらな教科書を手で押さえ、じっと読み始めた。
 その間に狭也は客間に行き、部屋があたたまっているのを確かめた。きちんと敷かれた布団は、干してあってふかふかだ。
 脱ぎ捨てられた彼の制服をハンガーにかけ、シャツを手に取った狭也は、振り返って驚いた。いつのまにか、部屋の入り口に稚羽矢がいたのだ。
「どうしたの?」
 稚羽矢は首をかしげた。
「すこし、わかったよ。なんとなく書けそうな気がする」
「そう」
 よかった、と言う間にも稚羽矢は一歩二歩を進み出て、狭也をすこし高いところから見下ろした。あかりをつけない室内は暗く、廊下からもれてくるわずかな明かりが、稚羽矢の横顔にあたってひどく大人びて見えた。
「あの人は、どうして好きな人を追っていかなかったんだろう」
 近さに怖じ気付いた狭也は、後ろにさがった。枕に足を取られて布団の上にたおれこんだ。あわてて立ち上がろうとした狭也の肩を、稚羽矢はやさしく押した。
「遠くで想っているだけで満足できるのか? 声も聞こえない、こうして触れることもできないのに」
 頬に触れられて、狭也は声を絞り出した。
「やめて。へんなことをしたら、もう家にいれないから」
「へんなこと? どういうことだ」
 稚羽矢は、困った顔でつぶやいた。
「あの人に入り込めと言ったのは狭也だ。共感というのは、それほど難しくないのかもしれない」
 触れた唇は冷たく、みかんのにおいがした。
 
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