幽ノ壱サンプル1【日高見神語り(空色+白鳥)】

2012.01.08.Sun.04:17
 祝言の日まで 直後から

「どなたです?」
 聞き慣れた声に、科戸王は振り返った。
「もう休んだのではなかったのか」
 階を降りてこようとする狭也に手を貸しながら、王はとがめる声で言った。
「不用心だな。足下が危ういというのに。稚羽矢はどうした」
 狭也はむっとしたようににらみつけてきた。まっすぐなまなざしが、どんな不届きな思いを呼び起こすか。この人は一瞥にそんな力があるなどと、夢にも思わないだろう。
「池に映る月を眺めたかっただけですもの」
「まったく。もう身軽な娘ではないのだぞ。体の調子はどうだ」
「つわりが無くなってから、だいぶ楽になりました」
「くれぐれも無理はするな」 
 言いながら、王は苦笑をした。いくら言っても、狭也は思うことはためらいなくやってのけるのだろう。周りのものはいつもそれについていくことしかできないのだ。禁止や掟など、いざとなればたやすく踏み越えていけるこの人が水の乙女だったからこそ、今日のこの日があるのかもしれない。
「王、あの」
 御統のあかりのおかげで、狭也が迷うように口ごもる様子がはっきりと見えた。
「どうした」
「あの噂は、ほんとうですか」
「なんのことだ」
「つい今し方です。妻をお迎えになると聞きました」
 王は笑った。どこから飛び出て狭也の耳に入ったものか。
「山城の姫のことです」
「よりにもよって、山城方だと。あの翁はわたしを嫌い抜いている。娘婿とすると思うか」
 口うるさい狸のような男。あれが舅になるというのか。思うだけで、気分が悪くなる。
「山城王とは仲がよろしいのでは?」
 うんざりした思いで、科戸王は首を振った。
「やめてくれ。顔も見たくないというのに」
「仲がいいから、けんかもするのだろう」
 近づく足音がして、稚羽矢が姿を見せた。大王としての装いが板に付いてきたことを、認めずにはいられない。落ち着いた振る舞いで、さりげなく狭也をかばうように立つのも腹立たしい。己の肩にかけていた襲で狭也の身を包んでやるところなど、わがことすら省みなかった無知な者とも思えない。稚羽矢がしめすのは、たしかに思いやりや慈しみといったものなのだった。
「山城王がそなたを気に入っているのは事実だろう。一の姫は賢い姫だ。国づくりのためにも、ここは一肌脱ぐのが男子の・・・・・・あれだ。なんだったか」
「知るか」
「そうだ、本懐というものではないのか」
 稚羽矢のくせにもっともらしいことを言う。いつぞや、裳をはかせたことを、いまだに恨みに思っているのだ。神のくせに、懐が狭い。
 科戸王は鼻を鳴らした。
「その気はない」
「子孫はどうする」
 まったく、気に障るやつだ。その気はないと言ったばかりだろうに。いつか考えなければならないことだとわかっている。しかし、時の果てるまで決断を先送りしたいのもたしかだ。
「そうか。こわい顔をしているから、逃げられるのだな。もっと笑えばいい」
「無理だな」
 王は冷たく言い捨てた。
「器用なたちではない」
 狭也の首に掛かった御統の、ほのかに輝く翠色を王はみつめた。
「わたしのことはよい。案じるな」
 闇の五氏族にとって、勾玉は特別な宝だった。科戸王が受け継いだ勾玉は、本来ならば妻となる人の首元に手ずからかけてやるべきものだ。
 新枕の床に、灯ではなく淡くかがやく勾玉をおき、夫婦の契りを交わすのがならわしというもので、闇の女神に見守られた婚いはあらたな命を言祝ぐとも、初産を助けるとも言い伝えられていた。
 思う人を妻にすることは叶わないが、勾玉が狭也の首もとにあって輝くのなら、それもいい。
「これからも、わたしの勾玉はそなたが持っているといい。安産の守りでもあるからな」
 稚羽矢はほほえんだ。
「ありがとう」
「そなたのためではない・・・・・・国のためだ」
「ありがとうございます、王」
 狭也は頭を下げた。再びこちらを見たとき、その目がいたずらっぽく踊っているのに気づいて、科戸王は少々ひるんだ。
「先の世をみたいわ。あたしたちの子孫は、どんな風に暮らしているのかしら。笑っているかしら、それとも泣いているかしら」
「狭也」
 稚羽矢がいつになく堅くこわばった声で、狭也の腕をひいた。穏やかに輝いていた御統が、ふと狂ったように明滅しはじめたのだ。
「まだ来ない時をみたいと望むのは、巫女の仕業だよ。いけない」
「大げさね。まあ、時の神も闇の女神と近しいのかしら。なにかが見えそうな気がするわ」
 突然吹き寄せてきた風が雲を呼び、満月を隠した。池がさざ波立ち、若葉の萌え出た木の枝が揺すられた。科戸王は狭也に近づくと、何かをつかもうとするようにのべられた手をつかんだ。
「稚羽矢、なんとかしろ。また、いずこに駆けられてはかなわん」
 便利な宝だが、力を扱うのはむずかしい。それに、狭也は身重だ。
「御統を取れ」
 言われる前に稚羽矢はそうしようとしていたが、結い上げた髪に綾のひもが絡まり、なかなかとれない。そうこうしているうちに、うつくしいが強靱さには欠けるひもが、ぷつりと切れた。するりと落ちた勾玉は地に落ちながらも、輝きを失わなかった。いっそう強く輝きながら、狭也の驚いた顔つきを照らし出し、光の衣で彼女を包み込もうとするかのようだった。
 引きずられるような感覚があった。誰かが呼んでいる。
 ずっと遠くの方で、ちいさな呼び声がたしかに聞こえたと思ったとき、すでに宮の庭は、はるかかなたとなったのだった。
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