桃のちりしく

2011.11.26.Sat.05:58
「まったく、おまえときたら、本当にろくでなしもいいところだ」
 母親の小言はいつも同じだ。
「正月からこっち、長どののお顔を申し訳なくて見られないよ。だれあろう、真刀野さまの養い子に手を出すなんて」
 怒りがこみ上げてきて、繕いものをする母に背をむけたまま、押熊はうなるように言った。
「あんな、どこの生まれとも知らない奴が、どうしてお屋敷で大切にされているんだ」
 母はあきれたように言った。
「おやめ。本家筋の方のなさりように、口出しなどしてはいけないよ。きっと何かお考えがあるのだろうから」
 何でもないことのように、母は続けた。
「真刀野さまはよい拾いものをしたことだ。小倶那は賢いお子だもの。物静かで、自分から声を上げることがない。それは、美徳というものだよ。身の程をさとったような大人びたお子だ。遠子さまとも気が合うようじゃないか。おまえも見習うのだね」
 遠子姫。いっそう不快になった押熊は、起きあがって外へでた。
「昨日もどこに行っていたんだい。夜遅くまで帰らないで」
 その後に、何かを言いつける声が聞こえたが、押熊は知らぬ振りをした。

(くだらねえ)
 母はつまらぬことばかり、くどくどとうるさい。父が若くして死んでから、母は一族の末端ではしためのように働いている。
 橘は、血を重んずる。よそ者に越えられない見えない一線が、三野にはたしかにあるのだった。
(なら、なぜあいつだけが)
 優遇されない者の恨みだけではないと、押熊は苦々しく考えた。正月に長の館の林で見た、遠子姫の目が忘れられないことに、押熊はとうに気づいていたのだった。 
「あんたたち四人! 顔も名前もおぼえたわよ」
 あのとき、酒に濁った目が、たちまちのうちにさめるような心地がした。遠子姫は細身で小柄だったが、まっすぐですくやかな声は、耳を貸さずにはいられない威厳さえ感じられたのだった。
 長の娘であれば、もちろん名も顔も知らないはずがない。姫とも思えないやんちゃぶりを、里人に苦笑とともに見守られている。明姫のように高貴な三野の姫君という感じでもない。
 あるときは人々に混じり栗拾いなどしたりして、いがを踏んで泣きべそをかいていた。あるときは洗濯のまねごとをして、かえって泥だらけにして女たちに笑われていた。
 まだある。年頃の娘たちが帯や髪に花を挿すのをみて、小さな頭にどっさりと色とりどりの花をのっけていたこともあった。
 明姫が玉のごとき乙女なら、遠子姫はむじゃきな妹だ。
 だからこそ、強い目でにらまれたとき、ひどく驚いたのだ。大人でさえ、一族の末端のひねくれ者よと、まともに目を合わせようともしないのに。
「一族から追い出されると思いなさい」
 傲慢ささえ、まぶしいものだった。ひかれずにはいられない。気づくと、姿をさがしている。ののしりでも、憎しみでも、また再びあの唇がものを言うのを聞きたいと願う気持ちに気づいてからは、いっそう、姫のそばに影のようによりそう奴のことを憎んだ。
 同じ乳を飲んだというだけで大切にされて。「姫と枕を並べて眠っているらしい、仲のよいこと」 そんな話も穏やかには聞いていられない。
 押熊は、野でけものの子のように、姫と転げ回って遊ぶことなどできない。小さな手を取って、笑いながら駆けることも。ましてや、寝顔をみることなど一生ありえない。
 ぶらぶらと堤のほうへ足をのばすと、笑い声が聞こえてきて押熊はぎくりとした。
 都人たちが水をせき止め造り上げた池は、鏡のように澄んでいた。土を盛り、仕上げた島には橋が造られたところで、目を楽しませるような花や、常に葉を茂らせる低木などが植え込まれていた。ひときわ目を引くのが桃で、山から植えかえられたにもかかわらず、薄い紅色の花をいっぱいにつけている。風に乗ってかぐわしい甘い香りがただようようだった。
 桃のそばに、遠子姫の姿があった。木のかげに隠れると、押熊は息を吐いた。姫は花を手に取り、鼻をもぐらせるようにして匂いを楽しんでいる。
「いい香りね。胸がすっとする」
 その笑顔は、そばに立つ同じような背丈の小倶那に向けられている。
(なぜ、おまえがそこにいる)
 何度呪ったかわからない。
 なぜ、これほど憎いのかもわからない。
 遠子姫が小倶那の耳元に何かをささやいた。小倶那は笑いながら、じっとみつめる。ためらいもなく、まっすぐに。
(なぜおまえなんだ)
 姫のまなざしには、親しみ、からかいがあふれていた。少しの隙間もないように二人は寄り添っている。一つの影が二つに別れることがあるとしても、姫がきっと許さないだろう。「小倶那」と呼んで、抱きしめる。頬をふれあわせて、ほほえみあうのだろう。 
(同じ乳を飲めば、同母とおなじだ)
 内心で毒づいて、押熊は拳を握った。
 小倶那が憎いのは、不当な幸運を受けているからではない。それだけではないのだ。
 ふと、小倶那が首をめぐらしてこちらを見た。風景をながめるように視線を投げかけていたが、ぴたりと見据えるように押熊に顔を向けたのだった。島とこちらの岸とでは、それほど離れていない。小倶那がどんな表情をしているのかは、よく見えた。
 整った面立ちは表情を浮かべないせいかひどく寒々しく、初めてみる者のようだった。
 小倶那は、いやなやつだ。
 眠った蛇を苦労して探したのは、暴力にも蔑みにも動じない小倶那が、ただひたすらにおそれるものを持たなければ、相対することもできないからかもしれなかった。小倶那にとって、押熊は道に落ちる石ほどにも注意をひかないのだ。
 小倶那は確かに押熊を見た。
 遠子の耳元に唇を寄せて、何かをささやく。すると、遠子姫もこちらを見た。
「何がいたの」
 よく通る声が、風に乗って聞こえた。
 胸が鳴った。隠れて見ていることに気づいたら、姫はどんな表情をするだろう。
「鹿が見ていたかも」
 小倶那は笑いながら言うと、姫の髪にくっついた桃の花を手に取った。
「食べるかしら。こんないい匂いがするんですもの。鹿もきっと食べるわ」
「鹿は萩が好きなんだって。萩を折りしいて寝ていた鹿を、猟師がこっそり射殺してしまうんだ」
「ふうん。萩をしくといい夢がみられるのかしら。目を覚ましたくなくなるくらい」
 姫は目をしばたいた。
「小倶那はどっちが好き?」
 ほほえみながら、小倶那は桃の花びらに唇をつけた。そのまま、ちらりと押熊のほうを見た。
「桃だな。ぼくはきれいな桃をしいたのに寝てみたい」
 遠子姫ははしゃいだ声をあげた。
「そうしましょうよ。小倶那ったら、いいことを言うわね。すこしぐらいなら、花をもらっていっても皇子さまは怒らないわよ」
 落ちた花びらをせっせと集めながら、姫は上機嫌で言った。
「寝床にたくさんまくのよ。そうしたら、春の匂いがするわ。ほら、小倶那も手伝って。二人分ですからね」
「はいはい」
 衣の袖にいっぱいの花びらを集めおえて、二人が橋を渡って行ってしまって、ようやく押熊は我に返った。なにも考えられなかった。ぽっかりとあいた空白に、そそぎ込まれるものがある。それは、あまりにはっきりとした欲望だったので、押熊は自分のことながら、どこかおかしく思うほどだった。
 弱虫のくせに、一人前に牽制めいたことをしたことに腹が立つのではない。小倶那は、笑ったのだった。遠子姫に決して近づけない押熊を笑い、不遇を笑ったのだ。
(射るだと)
 憎むよりむごいのは、そこにいないものとして扱われることだ。小倶那は、それをしたのだ。
 拳で木の幹を殴りつけると、押熊は歯をかみしめた。 
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