あんな奴には、渡さない~科戸王

2011.11.19.Sat.04:07
「なぜこんなところにいる」
 馬をあずけて館に戻る途中で、里の道をぶらついている狭也をみつけた。
 思わずとがめるような声で言ったことを、科戸王はすぐに後悔した。まもなく暮れようという西の空を見上げていた人は、いまにも泣き出しそうに顔をゆがめていたのだ。
 まもなく春とはいえ、まだまだ寒さはきびしい。とくに宮からはなれた山里では、吹きおろす風にも粉雪がまじるときがある。上衣のうえに何も羽織らない肩がひどく寒そうで、王は顔をしかめた。
「お帰りが遅いものですから」
 狭也は顔をそむけたが、いくらかこの人の扱いにも慣れた王は、すぐそばに立って顔をのぞき込むようにした。
「かなわんな。これでも急いだのだが」
 狭也は何か言いかけたが、目が合うとひるんだように口をつぐんだ。
「そなたは、まだ慣れぬか。女主人として、振るまえぬわけでもなかろう」
「・・・・・・みなが、なんと言っているのか知っています」
 狭也は小さな声で言った。
「口さがないものがいたか」
「本当のことです。あたしは、つとめを放り出して、あなたのお気持ちに図々しく甘えたのです。本当は、頼ってはいけなかったのに」
 王は腕組みをした。狭也の細い体はよるべなく見えて、うっかりすると腕の中に引き寄せてしまいたくなるのだった。
「あなたはいらぬ謗りをうけてまで、あたしをかばってくれたのに。なにもお返しできないことが苦しいのです」
 強く手を引いて、王は歩きだした。狭也はしぶしぶといったようについてくる。
「大王の妃でありたかったか?」
 人気のない裏庭を通って、狭也が寝起きする離れについたころ、王は静かに言った。
「稚羽矢のそばに、いたかったか」
 答えは聞かずとも分かっていた。狭也は望んでここにいるわけではないのだ。
 祝言から四年がたった。稚羽矢との間に、まだ子はない。そしてついこの間、娶ったべつの妃とのあいだに姫が生まれたのだ。
「あたしがいては、あの人も気を使うわ」
「そんなわけがない。あれは、わたしをくびり殺さんばかりににらんでいたぞ」
 狭也はかすかにほほえんだ。
「にくいのはあたしでしょう。二度と離れないと言ったのに、もうこうして逃げ出している」
 伏した目をあげた狭也は、今にも泣き出しそうだった。
「本当だったら、この手に抱けたかもしれないと・・・・・・そう思うと、悔しいのです」
 二度授かって、二度も命は指のすきまからこぼれていった。狭也は気丈に振る舞ってはいたが、稚羽矢を遠ざけるようになった。狭也の悲しみは、稚羽矢にとってよく理解できないものらしかった。
 その間に、輝の人々が立てた新たな妃は大王を心を尽くしてもてなし、大王もそれにいつしかこたえたのだった。
「あたしは、少しだけほっとしているのです。子が産まれた今、あの人に非はないと明らかになりました。あとはあたしが身を引くだけでよいのです」
「稚羽矢は今夜、ここへ来る」
 狭也は目をみはった。おびえた顔からむりやり顔をそむけ、王はかすれた声で言った。
「そなたは水の乙女だ。闇の高貴な巫女姫なのだ。稚羽矢をまことに鎮めえるのは、そなたのほかにはいない」
「ここへきたのは、戻らない覚悟があったからです」
 狭也は冷たい声で吐き捨てるように言った。なじるような激しい声だった。
「あの人が来る前に出ていきます。ご迷惑をおかけしました」
 狭也は泣き顔を隠さずに、まっすぐに王をにらんだ。自分の言葉で自分が傷ついているようにしか見えない。
「稚羽矢を許してやれ」
 こんなことを、言いたくはなかった。
 稚羽矢など捨ててしまえと、そう言えればいいのに。宮での立場は、ときに身を縛るお荷物になる。自分の心のままに振る舞うことを、ひどく難しくするのだ。
 かなうことなら、稚羽矢の手の届かない場所にこの人を連れ去りたい。心ない宮の人々の中傷にさらされて、笑うこともなくなった狭也を、広い野にときはなってやりたい。
 少し手を伸ばせば、すぐに触れられるところに恋しい人がいる。ためらいがちにでも狭也が見返してくれるようになったのは、いつからだろう。
 男には知り得ない悲しみを飲んで、伏した顔を上げたとき、狭也は子を抱いていなくても母に見えた。生まれ落ちることのなかった子を思って泣く人は、すでに母なのだ。
 科戸王は狭也をみつめた。そらさずに、挑むように狭也は見返してくる。言葉のほかに、なにかを語ろうとするように。
 目が語ることを、聞けるものならば。
(氏族も何もかもを裏切って、おれはこの人の手を取るだろう)
 胸の震えを押さえるように、王は衣の胸元をつかんだ。
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