名を呼ぶ声がした~科戸王

2011.11.17.Thu.04:07
「どうなさったの? うなされて」
 何か、ひどく長く苦しい夢を見ていたようだ。体をそっとゆすられ、目を開けると、見慣れた笑顔があった。
「姫か」
「まあ。懐かしいこと」
 照れたように目を伏せると、妻は手に手をかさねた。
「あなたにそう呼ばれていた頃を思い出したわ」
「そなたはわたしから逃げ回っていた」
「ええ。それは、あなたがこわいお顔をなさっていたからよ」
 まばゆい思いで、妻をみつめた。
 まほろばを離れ、うつくしい浜を有する伊津母に館を構えて、もう二年目の春を迎えようとしている。
「ほら、いまも。難しいお顔を」
 耳もとで、からかうようなやさしい声がした。
 新たな土地に伴ってきた妻は、若いのに細かなことによく気がつき、領人からあつい信頼をえている。長にもの申すのが気が引ける人々は、まずその奥方に相談をするのがいつものことなのだった。
 それでもいいと、今では思う。長の妻であろうとも、人々と隔てなくつき合うのは彼女にとって何の苦もないことらしく、楽しげに女たちと笑いあう姿を見るのも楽しいことだ。
 ただ、さすがに宮に勤めた者はちがうと、おせじでもなしにそう言われるたびに、彼女はひどく居心地が悪そうに身をすくめたものだった。
「夢を見たのだ」
「よい夢ではなさそうね」
 すぐさま悪夢を払うまじないを口にした人を見て、おかしくなった。
「なぜお笑いになるの」
「そなたらしいと思ったからだ」
 じきに夜になる。いつもならうたたねなどしないが、今日はこれといって立て込んだ仕事もなく、ぽっかりと暇ができたのだった。
 縫い物をする妻を横になって眺めているうちに、眠ってしまったのだろう。
 体をおこして、まっすぐにみつめると、落ち着かない様子で妻は目をそらした。
「そなたはいつまでも娘のようだな。わたしの妻になろうと、これから母になろうと。おそらくそなたは変わらん」
「変わらないなんて、うれしくないわ」
 不満そうにふくれるとやけに幼く見える。しかし、それを言ったら機嫌をそこねるのはたしかだ。
「本当に、ちっとも変わらない?」
 詰め寄られて、困ったのはこちらのほうだった。
「ほめたのだぞ。まあ、外見は美しい奥方と呼ばれるだけのことはあるが、人の本性はそうやすやすとは変わらん」
「美しい奥方だと、あなたもそう思う?」
「狭也」
 ため息がでる。こうして無遠慮に煽りたてようとするところは、まったく変わらない。
王ではなく科戸彦と、なつかしい名で呼ばれるようになったのは、この地に移り住んでからだ。
「科戸彦どの」
 とくに妻からそう呼ばれると、胸の底が熱くなる。
 望んで、得られるとは思っていなかった。
 狭也は大王の妃となり、いずれは国母ともなろうことは、誰しも疑っていなかったのだから。
「わからないひとね。口にしてほしいこともあるのです」
 これも、夢ではあるまいかと、ふと思われた。狭也と稚羽矢は分かちがたい一対であり、その間には何人も入り込めないと、そう思い知らされていたのだから。
 手を引いて胸に抱き寄せると、狭也は素直に身をゆだねてきた。
「そばにいろと、命じてください」
 小さな声は、吐息のなかにまぎれてしまいそうだった。
 ここでこうしていられるのは、たぐいまれな、ありがたいことなのだ。
 そんな思いがこみ上げて、子どもが宝物を奪われまいとするように、がむしゃらに柔らかな体をかき抱いた。
「どこにも行かず、わたしのそばに。女神の国に行くときが来ても、そなたの手だけは離したくない」
 きつく妻を抱きしめたまま、祈るようにかつての闇の将軍は目を閉じた。
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