名を呼ぶ声がした~菅流

2011.11.16.Wed.04:07
 風が吹きすぎる音の中に、呼び声がひびいたような気がして、菅流は振り返った。ちょうど一仕事を終えたところだ。
 考えごとをしていたこともあり、「なんだ、遠子」と肩を回しながら返事をすると、小屋のかげからむさくるしい武彦の顔がのぞいて、菅流はぎょっとした。
「遠子殿でなくて悪かったな」
 菅流は首をひねった。
「空耳かな。あいつの声が聞こえたような気がしたんだが」
「恋しい人の声を風の音にも聞きたいと。その気持ち、よくわかるぞ」
「ふざけるなよ、まったく。おれが恋しいのは、あいつ以外で、寒い夜に独り寝をしているきれいな女だ」
 菅流はこのさい、はっきりさせておくべきだと考えた。
「おれは遠子など趣味じゃない。だいたい、おまえらの軽口が、小倶那を意固地にしているのがわからないのか? 小倶那がおれに引け目など感じる必要はないのに」
 まだ二人は夫婦になっていない。
 はたでみていると、本当にいらいらさせられる。
 武彦はいぶかるように言った。
「おぬしは、気づいておらんようだな」
「なに?」
 そのとき、小倶那が外へかけだしてきた。沓もはかずにはだしで、雪のとけかけた泥土をはねちらかす。それでも小倶那の顔は晴れやかで、面いっぱいに喜びを弾けさせているようだった。足を滑らせ転びかけたが、小倶那はあやういところで足を踏ん張ると、こらえきれないように笑い声をあげた。
「ああしてお笑いになるのを見ると、こちらもうれしくなるな」
 武彦は感慨深げに言ったが、すぐに吹き出した。小倶那を追って走ってきた遠子は、長い髪を角髪にされたうえに、前髪を童女のように一本に結われている。逆立った髪はススキの房そのものだった。
「おやおや。幼なじみのいたずらは、本当に容赦がないな」
 菅流はあきれながら、小倶那がこんなに楽しげに、屈託なく笑うのを初めてきいたような気がしていた。
「小倶那! ゆるさないんだから」
「遠子が居眠りするのがわるい」
 じゃれあう姿を見ていると、彼らが今まで苦しみながら通ってきた道のりのことはすべて夢だったのではないかと思えてくる。
 しかし、小倶那の身には将として負った傷があるし、遠子もかつての無鉄砲さをくるむような、思いがけない思慮深さをいつのまにか身につけていた。
 手加減なしの体当たりを受けた小倶那は、泥水のなかに尻もちをついた。遠子はいつしか笑いだし、集まった人々も半分あきれながらも、あたたかく見つめている。
「そういえば、おれが何に気づいていないって?」
 菅流がたずねると、いくらかばつが悪そうに、武彦はつぶやいた。
「おぬしが遠子どのを呼ぶのは、なにも昼間だけではないということだ。うつぶせに寝たまま、のろうように呼ぶ声を聞かされるほうはたまらん」
 菅流はうんざりして首を振った。
「ごめんだぞ、おれは。冗談じゃない」
 泥まみれで笑いあう二人を、菅流は目を細めてながめた。
「寝言で遠子を呼ぶほど、おれは不自由してはいないぞ」
「横恋慕をどうあっても認めぬつもりか」
 菅流は髪をかきむしった。
「認められるか。まったく、ひとごとだと思って」
 遠子がちらりとこちらを見た。笑顔のおこぼれをもらって、うれしいはずもないのに。
 武彦は苦笑いをした。
「なんという。口では憎まれ口をたたくくせに、笑顔をふりむけられればそれだ。おぬしもたいがい、素直ではないな」
「・・・・・・うるさい」
 
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