恋の奴6

2011.11.13.Sun.04:08
「我らは、もはや送り出すことしかできないのだ。女神の御手に、ゆだねるしかない」
 開都王のこわばった声を聞きながら、科戸王はほんの短い眠りについた伊吹王をみつめた。他を圧し、ゆるぎなかった巨体は、まるで赤くなるまで焼いた大岩と組み合いをしたかのように焼け爛れ、肉の焦げたすえたにおいをさせていた。両目はつぶれ、もう物を見ることはない。
 雷につらぬかれ、傷ついた内腑には手の施しようもなかったのだ。



 まもなく夜明けだ。
 伊吹王のなきがらを安置した垣のそばで、科戸王はしばし立ち尽くしていた。
 あまりにも多くのものがうしなわれた。
 垣の内で目を閉じた人は、もっと長く生きなければならなかったのだと、王は奥歯をかみしめた。
(大蛇となるのは、稚羽矢だったのだ)
 剣はたんなる呪われた武器ではない。
 稚羽矢こそが、剣そのものなのだ。
「あんなものが、この世にあってよいものか」
 かすれた声は、自分のものとも思えないくらい弱々しかった。
 黒雲の間に閃く雷光と轟き。
 荒ぶる神の雷に打ちすえられて、こげた炭のようになった人々。雨風はごうごうと耳もとで鳴り響いた。近くの河をあふれさせ窪地に流れ込んだ水は、雷に焼かれて動けない人々を容赦なく飲み込んだ。
 剣のすさまじさは、今思い出しても震えが来るほどだ。
 だからこそ、狭也が稚羽矢を探しに行きたいと言ったことが信じられなかった。
(取り戻せるわけがない。取り戻して、どうなる? 剣の巫女たる狭也でさえ、鎮めることを投げ出したのではないか)
 稚羽矢は、触れてはならない禁忌だ。
 押さえきれない怒りは、まだ胸にくすぶっている。命を落とした者の中には、王の直臣もいた。死に顔は決して穏やかとは言えなかった。
(酷い。神とは、なんと)
 七日の猶予を取り付けて、狭也は今日から本陣を出ていく。鳥彦がついていくとはいえ、危険が減るわけではない。輝の伏兵がいたるところにいるというのに、燃える火の中に飛び込むようなものだ。
 軽やかな足音を聞きつけて、王は振り返った。すでに身支度を整えた狭也が、わずかにこわばった顔をしてこちらをみつめていたのだった。
「どなたかと思いました」
「きっと出かける前にここへ寄るだろうと思ってな。鳥彦はどうした」
 王は顔をそむけながら言った。狭也はすぐとなりに立つと、遠慮がちに言った。
「鳥の指令官は、夜明けとともに偵察隊を編成するのですって。張り切っていました」
「便利なことだ。羽があるということは」
 王は息を吐いた。
「気をつけて行け。危険なようなら、すぐに戻るのだぞ。そなたの身をみな案じている」
 返事がないので見返すと、狭也はひどく驚いたように口を開けていた。そんなにおかしなことを言ったつもりもない。王は眉間にしわをよせた。
「お怒りではないのですか」
「わたしが怒ったとて、止めたとて、そなたは行くのだろう」
 狭也はうなずいた。瞳には、一切の迷いがない。少しでも揺れていたら、絶対に行かせたりしないというのに。
「稚羽矢に謝りたいのです」
 狭也はつぶやくように言った。
「きっと会ってみせます。七日をむだにはしません」
 空手で戻ってくればいい。王は狭也をまっすぐにみつめた。狭也が再び稚羽矢と会ったなら、何かが変わるような気がしてならなかった。狭也のなかでもまだ形をなしていないもの。それが、しっかりとした姿をもって現れるのではないか。
 つき動かされるように、王は狭也の背に腕を回した。
「剣の巫女か」
 王は冷たい声でささやいた。
 驚いて体を引こうとする狭也の髪を、ぐっとこぶしの中に絡めとるように強く引き、顔を上げさせた。
「ふざけた戒めとしか思えぬな。あれに真向かい、命を落とした人のことを忘れたか。目も耳もない大蛇に、どう許しをこうのだ」
 王は狭也の目をみつめた。
「そなたを役目から解いてやる。そうすれば、そなたもあれを追うのをやめるか?」
「解く?」
 狭也は気圧されたようにあえいだ。
「こうしてだ」
 口元からこぼれたしろい歯が見えた。せわしない呼吸を聞いて、少しの躊躇は消え失せた。
 お互いの唇が触れたのはほんの一瞬だった。狭也は怒りで体をふるわせ、平手で王の頬を張った。
 音ばかりが大きく響き、狭也は少しひるんだようだった。
「なにをするの」
 科戸王は、目を細めてささやいた。
「憎しみでも、哀れみでもよい。そなたがわたしを見るのであれば」
 狭也は自分がぶたれたかのように、泣きそうな顔をした。
「そなたの心が輝に、あやつに向くのを、見ているままでなどいられぬのだ」
 身をひるがえし、走り去る人の後ろ姿を、王は苦い思いで見送った。
 なんという愚かで無様な告白だろうか。
 狭也を思いやる余裕などかけらもない。これでは身勝手な押しつけだ。
(それでも)
 言わずにいられなかったのは、予感のせいだ。狭也は剣の巫女のつとめを果たすだろう。そのときがきたら、想いは一生出口をなくしてしまう。
 思慕というものは、身にこびりついた垢のようにこすり落とせるものなのか。報われないからと、潔く捨てられるのだろうか。
 それなら、あの人を無用に苦しめたりしないですむものを。
 王は明けかけた藍色の空をにらむように見上げた。

 
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