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初寝1

Category白鳥異伝 二次
 闇の中にふわりと甘い香りが漂ってきた。
 夏の晩はひどく寝苦しい。ときおり吹き込んでくる夜風がなければ、浅い眠りもすぐにさめてしまいそうだ。
 庭に香る花などあっただろうか。小倶那は寝ぼけた頭でそう考えた。頬にすっと吐息がかかった。
(遠子、また)
 寝相のわるい遠子は、いつも自分の布団からはみだして小倶那のそばに転がってくる。それだけならとくに文句もないが、ときにはよだれのついた手で殴ったり、足で顔を蹴飛ばすこともあったので、正直を言って小倶那はうんざりしていた。
「・・・・・・重い」
 今夜はどうだ、腹の上にどっかり座っている。これはもう、寝相がどうとか言う問題ではない。
(遠子?)
 ぼんやりと、小倶那は目を開けた。夢にしては、おかしい。ほんとうに息苦しいのだ。衣擦れの音がやけに耳につく。衣をくつろげられて、やわらかな手が胸を這い、首筋をなでる。
「あら、お目覚めで」
 耳元でささやかれて、肌があわだった。
「なにを」
 声をあげようとすると、唇をふさがれた。舌をいたぶるように吸われて、小倶那はうめいた。
「おしずかになさいませ」
 笑んだような声がした。やわらかな熱い胸をおしつけられて、小倶那はようやく目が覚めた。そうだ、ここは宮の片隅のはなれの部屋だ。
 上に乗っているのが、寝ぼけた遠子のはずがない。ここは三野から遠く離れていたし、なにより、遠子は小倶那にこんなことをするはずがないのだ。いたずらにしてはひどい。
「わるいようにはいたしませぬ」
 十分わるいと、小倶那は身をひこうとした。正直に言うと、おびえていたのだった。
「あの、どうか、こんなことはやめてください」
 女はおかしそうにくすくす笑った。
「夜更けにこうして忍んでくるのです。ここには二人きり。短い仮寝でもいたしましょう。だれも咎めだてはいたしますまい」
 小倶那は息をのんだ。肌をまさぐる手は、じきに自分のほかはだれも触れないようなところにたどりつき、あらがう気すらも崩しにかかった。
「学ぶことは、昼だけではなく、こんな暗闇のなかでもそれはたくさんあるのですよ。さあ、楽になさって。これからお教えすることは、政に全く無関係というわけではないのですから」
 かき立てられる欲望に戸惑いながら、小倶那はかたく目をつぶった。
「ほんとうに、おかわいらしい」
 これが、十六のある夏の晩のことだ。

 相手は皇子の宮付きの侍女のひとりだった。けれど、名をあかさず、夜更けに忍んでくる人のことを口に出してはいけないような気がした。それに、こうしたことを気軽に話し合える人もいなかった。
 脂汗をかきながら書物に向かう数の博士を眺めながら、小倶那はふと考えた。
(皇子ならなんとおっしゃるだろう)
 困りきった小倶那を見て大笑いして、「大いにやれ」とでも言いそうだった。
 これが共寝なのか。それとも、ただの戯れなのか。突っぱねればいいのだろうが、いやではないという事実が小倶那を戸惑わせていた。
 肌を合わせるのは、気持ちがいいことだった。訪ねてくる人へのほのかな慕わしさのようなものも、ふと感じることもあった。恋なのか、そうでないのかすらもわからない。ただ、やさしい腕に抱かれて、ひととき甘やかされるのは、うれしいことだったのだ。
 幼い頃に抱きしめられた、母の腕を思い出すからだと、小倶那はなんとなく気づいてもいた。
 暗闇の中で抱かれる。それは遠いふるさとに抱擁されているような、どこか現実ばなれした逢瀬なのだった。
 そうでなければ、ならなかったのに。
 あの人の囁きをどうしてこの耳は拾ってしまったのだろう。
「皇子様」
 気がゆるんできたのだろう。小倶那も何度めかの逢瀬では、すでに自分のするべきことがすっかりわかっていた。物静かな人が、どうしたら熱い吐息を漏らすのかを、一つ一つ探り当てるのは興味深いことだった。
 一度目は聞き流せた。
「お情けを、どうか。皇子さま」
 しかし二度目は、自分でもいぶかるほどの苛立ちがこみ上げて、無視はできなかった。
「ぼくは皇子じゃない」
 小倶那はかすれた声で言った。
「ぼくは、影だ」
 驚くくらいの冷たい声だった。胸の痛みが、情欲に勝つことがあるのだ。泣きそうになりながら、どうしてこんなに手ひどく裏切られたような気がするのか、小倶那はふしぎだった。体を離し、ゆっくり立ち上がると、戸口に立った。
「どうか、帰ってください」
 あわただしく身支度をして、その人は逃げるように出ていった。
 
 結局、名前も顔立ちもわからないままだった。探したところで、何を言えばいいのかも思いつかない。二人をつないでいたのは、暗闇での夢のような仮寝のひとときだけだったのだ。
 物思いを晴らすように小倶那は勉強にいっそう取り組み、そうしているうちに夏は終わったのだった。
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