恋の奴4

2011.11.06.Sun.08:23
「あの方の様子を見張っていろとおっしゃったのはあなたさまです」
 稚羽矢の様子を見に行くといわれれば、そう強くも出られない。

 狭也の在所へ足を向けたものの、侍女の姿はなかった。引き返そうとしたが、それでは花がむだにしおれるばかりだと思うと、なんとなく気が引ける。困っていると、近づいてくる足音があることに気づいた。
 考えるまもなく仮小屋に入り込むと、話し声がごく近くで聞こえた。
「狭也はまだ目を覚まさないのだって」
 鳥彦だ。
「熱はだいぶ引いたと聞いた。近いうちに目を覚ますだろう」
 この地にひびくような太い声は、伊吹王だ。小屋の前にいるところを見られずによかった。花を捧げにきたところを見られたら、のちのちまでしつこくからかわれるだろうことは、目に見えていた。
 小屋の前で立ち止まり、彼らが顔をのぞかせたときには、よく整えられたこざっぱりした中の様子と、狭也の寝床とをしきる垂れ布のほかはなにも見えなかったはずだ。
「侍女どのはどうした。だれもおらん」
「水でも汲みにいったんじゃない」
「なら、仕方ない。出直すか」
 垂れ布ごしに立ち去る足音を聞いた王は、息を吐いた。
 氏族の若い巫女姫は、しろいひたいに玉の汗を浮かべ、きつく目を閉じていた。
 眠っていると狭也はいっそう幼く、あどけなくさえ見える。
 竜胆を枕元に置くと王はひざまづき、おけに浸してある手布をしぼってひたいに乗せてやった。かわいた唇がひらき、かすれた声が漏れてきた。
「かあさん」
 その一言がどうしてこれほど胸を痛ませるのか、ふしぎなほどだった。
 甘えるような、子どもが膝に乗せてほしいとねだるような無邪気な声だ。伸ばされた手をおそるおそる取ると、ぎゅうと握ってくるのも不憫で、振り払おうなどとはつゆほども思えなかった。
 熱がさがりかけているというのは、本当だろうか。狭也の手はひどく熱く、頬は赤く火照っていた。
「だめ、逃げて」
 うなされて、どんな夢を見ているのだろう。王はむなしさとともに、そう考えた。おそらく、あの晩の出来事を繰りかえし繰りかえし、夢に見るのに違いない。
 避けようがなかった出来事、変えることなどできない事実を、こうして何度も夢に見て、何度も絶望するのか。
 王は狭也の手をきつく握りしめた。
「稚羽矢?」
 はっとして、王は身を引いた。
 腹の底でくすぶっていた怒りがふいに大きくなり、その激しさに王は驚いたのだった。
(やつの名など聞きたくない)
 狂おしいほどの怒りは狭也のそばにいると、いやがおうにも高まるようだった。
 立ち上がり垂れ布を払うと、ちょうど小屋へ入ってきた侍女と目があった。
 侍女は泣きはらしたような赤い目をしていたが、すぐにそれを隠すようにうつむいた。
「科戸王様。姫様はまだお目を覚まされないのです」
 ふと、先頃死んだ開都王の近衛は、この人を妻にしていたのだと思いだした。ふくらんできた腹をいとおしげに撫でる手は、永久に失われたのだ。
「・・・・・・辛かろう」
 科戸王は抑えた声で言った。侍女はひどく驚いたようだったが、かすかに笑って見せた。
「闇の女人は強い。そなたは特にな。しかし、くれぐれも無理はするな」
 それ以上何もいえなかった。誰かを失う痛みを前にして、どんな言葉をかけられようと、苦しさはやわらぐことはない。それは時が癒すものだとわかっている。
「王様はご存じでしょうか、あの方について」
 真剣なまなざしで、侍女は言った。
 稚羽矢のことだとはすぐに察しがついた。
「国つ神が牙をむいたのは、あの方が輝の御子だったからだと、皆がさわいでおります。あたしは信じられないのです、あのお方はどこか超然としておられましたが、まさか」
 王は息を吐いた。
「その通りだ」
 怒りと悔しさ、失望が面に浮かぶのを、王はみつめていた。
「そなたの夫を殺したのは国つ神だが、神を恨んでくれるな。稚羽矢を軍に引き入れたのはわたしを含めて五氏族の長が決めたこと。あさはかさを呪うなら、わたしを恨め」
 卑怯なことだと、王は目を伏せた。恨めといわれて目上の者に怒りをぶつけられるはずもないのだから。
 黙り込み、やがてすすり泣きをはじめた女を残して王は小屋を出た。
 許せと、その一言ですら口に出すのははばかられた。
 許しなど、こうてはならないのだ。
 
 
関連記事
コメント

管理者のみに表示