祝言の日まで2

2011.03.02.Wed.07:58




 月が出た。
 鳥たちから異常なしとの報告を受けた鳥彦は、みずからも羽を休めようと闇の者が焚いた篝火をめざしていた。 こんな時刻にぶらついていたのが稚羽矢だと気づき、声をかけようとして、これはただごとではないとくちばしをつぐんだ。
 どこか痛むように顔をしかめている。面が整っているだけにその不興な様子はいっそう近寄りがたかった。
(こんなところで何をしてるんだ)
 今夜はけんかなどできないはずだ。それに、二人をさいなむものなど何もないのだから。
 輝の御子と闇の巫女は、父神と母神に言祝ぎされて、これからの豊芦原を統べる大王になるのだ。
 それは胸のすくようなことだった。しかし、二人が共にいるところを見たくはないような気がするのも本当のことだった。鳥彦も自分の心を持て余すことがある。
「鳥彦、いるのか」
 できればくちばしを突っ込みたくないと思いながら、しぶしぶ鳥彦は稚羽矢の差し出した腕にとまった。大カラスの重みにもびくともしない腕にいつのまになったのだろう。
「狭也とけんかした?」
「わからない」
「追い出されたとか」
 稚羽矢はちがうと言った。
「一緒にいたら狭也はわたしを嫌うだろう」
「そんなことあるもんか」
 鳥彦は思わず笑いそうになったが、稚羽矢があまりに思い詰めた様子だったのでちゃかすのはやめにした。月を見つめる稚羽矢に、何か言ってやれることはないかと鳥彦は考えた。
「狭也が月を見ていた」
「狭也の気持ちはわかってるだろ」
 こんなことは言いたくない。稚羽矢のやきもちなんかにつきあっていたらばからしい。しかし、今狭也がどんな気持ちで一人きりの幕屋にいるかと思うと、黙っていられないのだった。
「わたしは狭也に月を見ないでほしい」
「そう言えばいいんだ。今すぐ戻りなよ」
 稚羽矢は情けない顔で言った。
「わたしは狭也を傷つけるかもしれない」
「輝の御子がやきもちをやくなんて、はじめて聞いた」
「なんだそれは? はじめてきく」
 鳥彦は伏せられた稚羽矢のまつげを引っ張ってやりたい気分になった。ままならぬは綾なる心だ。

 その夜、稚羽矢は戻らなかった。
 一人きりで目覚めると、隣に敷いた毛皮に寝跡もないのが恨めしくて、ため息がこぼれた。彼はどこで眠ったのだろう?
 身支度を整えると、狭也は外へ出た。いいお天気で、雲の切れ間から日がさしている。残った雪も今日には溶けてしまうだろう。
「稚羽矢の、ばか」
 月を見たかったのは、いまこうしてここにいられることが夢ではないのだと確かめたかったからなのかもしれない。月はやはり遠く、すぐそばにあって触れられるのは稚羽矢なのだと確かめたかったのだ。なのに怒らせてしまうとは思わなかった。
 ゆううつな気持ちのまま外へ出ると、鳥彦がやってくるのが見えた。
「狭也」
「稚羽矢はどこ」
「科戸王が稽古をつけている」
「なぜ」
「暁の頃までおれといて、それをみつけた王が朝の修練につきあえと言ったのさ」
「どうして鳥彦が稚羽矢と一緒にいたの」
 やつあたりとわかっているのに、言わずにはいられなかった。
「あの人は夕べ怒って出て行ったわ」
「怒ってるわけじゃないと思うけどね」

 雪の溶けた石畳の上で、左手を腰にそえ、片手で軽々と木刀を振るう科戸王の姿があった。果敢に向かっていく稚羽矢の姿は勇ましかったが、どこか投げやりにも見えた。なんとなく見ていられなくて、鳥彦は狭也の肩にとまっていることをいいことに、彼女の解いたままの髪に顔をつっこんだ。
 稚羽矢は何度身をかわされても、あきらめずに向かっていくのだった。
「甘い。踏み込みが弱いのだ」
 厳しい科戸王の叱責が終わらぬうちに、稚羽矢は木刀をかまえて飛びかかった。脇をねらったのはいいが、すぐさまよけられて、肘でしたたかに胸を突かれた。
「稚羽矢!」
 王はしりもちをついた稚羽矢の喉元に、木刀のささくれだった切っ先を突きつけた。
「覇気がない。どうした? 妹の腕をかいまきにしても眠れなんだか」
 科戸王らしくないどこか意地の悪い皮肉に、稚羽矢は唇を噛んだ。切っ先を手で払うと、彼は立ち上がり、取り落とした木刀を拾おうとした。
「刀を落とすとは何事だ。戦場ならそなたは死んでいるぞ、稚羽矢。命を落としたなら、二度と拾うことはできぬのだ。その意味が、いまのそなたにならわかるだろう」
 科戸王は狭也をちらりと見やった。
「迷う者は太刀筋もにぶるな。大王になろうというそなたがそんなことでどうする」
 振り返りもせずに立ち去る後ろ姿は、冷たくさえ見えた。しかし、稚羽矢を案じているのだということはわかっていた。
「稚羽矢、どこで眠ったの?」
 狭也は彼に手を貸して立たせると、さえない横顔を見つめた。
「眠れなくて、歩き回っていた」
「あなたって人は」
 狭也は鳥彦に目配せをした。すぐに察した鳥彦は、狭也の肩から飛び立って行った。
「あたしに腹を立てているの?」
 うつむいた稚羽矢の腕に触れ、狭也は思い切って彼の頬に唇を当てた。朝の冷気でひんやりとした頬のしたには熱い血が通っている。
「わたしもよくわからないんだ」
 狭也は目をそらそうとする稚羽矢の頬を両手ではさんで、むりやりこちらを向かせた。
「稚羽矢、あの」
 彼の瞳に狭也のかげがうつっている。稚羽矢は狭也をどう見ているのだろう。
「今夜はあたしと一緒にいてね」
「狭也」
 気乗りしない返事だった。
「あなたはあたしの夫になるのではないの」
 目を閉じて、一息に言った狭也の耳に、稚羽矢の困ったような声が響いた。
「・・・・・・わからない」
(わからないですって)
 頬に触れた手をおろして、狭也は彼に背を向けた。涙が出そうだった。泣いても稚羽矢はもっと困るだけだと、とっさに思った。
「狭也さま、稚羽矢どの。ここにおられましたか」
 稚羽矢が何か言おうとしたとき、二人を呼ぶ声が響いた。

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