山の神11

2011.10.28.Fri.23:36
 ことの成り行きを説明すると、梓彦はたいそう喜んだ。
「なんと、明日にはご在所にお戻りになられると。それは大変急なことでございますな」
 どことなくほっとした風でもある。羽柴の郷長はずいぶん正直なものだと、科戸王はおかしく思った。
(引きとめられるよりはよいか)
 稚羽矢の言うとおり、里娘のかっこうをした狭也は宮で見るより朗らかだ。仲間たちと声を上げて笑いあう姿などを見ると、こちらも難しい顔はしていられなくなる。
 用もすんだなら、すぐにでも宮に戻らなければならないところだが、許されるならあと少しだけ、狭也をここに置いておきたかった。宮に戻れば、祝言を待たずして大王の妃としての役割を担うことになるだろう。それはけっして軽いものではないのだ。
「よくご無事で」
 小さな家に戻ると、狭也の両親が出迎えてくれた。誰かが迎えてくれるということが、これほどうれしいとは。物静かな狭也の両親をみて亡き肉親を思い出すのは、この戦火に汚されていない里の風景が、あまりにのどかでやさしいものに見えるからだと、科戸王は気づいた。
 幼い頃の記憶と、羽柴の人々の様子は似通うところがあった。輝だとて闇だとて、人の生活に大きな違いがあるわけではないのだ。
「王、お疲れになったでしょう」
 気づくと、狭也が足下にかがみ込んで案ずるようにこちらを見上げていた。
「いや、少し考えごとをしていただけだ」
「やさしいお顔をなさっていたわ」
 顔をしかめると、稚羽矢の声が飛んできた。山踏みの装いをといた稚羽矢は、足を組んでくつろぎ、おかしそうにたずねてきた。
「すぐおそろしい顔になるな。なぜだ?」
「憎たらしいやつがそばにいるからだ」
「まあ。それは、あたしのことですか」
 王は言い紛らそうとするのを思い直して、狭也の顔をのぞきこんだ。
「憎いと思えるほどに、そばにいられるものならな」
 からかわれたと思ったか、狭也は顔を赤くして、声を上げた。
「さあ、脱いで。そんな冷たいくつをはいていたら、こごえてしまうわ」
 足を引かれて、王はあわてて身を引いた。
「わたしはよいから、稚羽矢の世話をするといい。そなたの手をわずらわせることはない」
「乙彦の家の客人に、自分で足を洗わせるなんて。父に叱られます。ましてや、郷のために働いてくださったんですもの」
 こうなると狭也は強情で、一歩もひかなかった。科戸王は覚悟をして桶に足をひたした。ぬるい湯が冷たく凍えた足をあたためた。やわらかい手が汚れをぬぐいとっていく。もみほぐす手つきはいたわりに満ちていて、百の感謝を言われるよりも胸にせまるものがあった。
「王のおみ足には、傷がついているのですね」
「ああ。幼い頃のな」
 輝に里を焼かれ、野山を逃げまどい、くつもはかないやわな足は傷だらけになった。
「お体にもあるのでしょうね。将軍ですもの」
 深い意味はないとわかっていても、王は狭也の浅はかさを呪いたくなる。これでは、責め苦だ。
 心から欲しいと思うものは、いままで生きてきてほとんどみつけられなかった。復讐を果たすことと輝への怒り憎しみだけが心を支えていたし、闇の将という地位にあれば、望むまでもなく、身を投げかけてくる者もあったのだ。
 ほんの一時のかりそめの共寝は、熱が去れば情も薄れる、そんなあってもなくても同じようなものだった。軍を率いる将として、勝ち取るべきは戦果であり、乙女の心ではなかった。
 初めて心から欲しいと思った人が、とうてい手に入らないとわかっているのに、あきらめるすべも、憤りを受け流すすべもわからない。
 触れられると、あきらめかけたものに、もしかしたら手が届くのではないかと、うかつにもそう思えてしまう。
 宮へ戻れば、狭也にやすやすと近づくことは難しくなるだろう。
(帰りたくないのは、わたしだ)
 湯桶を下げに出ていった狭也の背を見送ると、深いため息をついて、王は言った。
「稚羽矢、そなたがゆずるといったものを、わたしに今すぐよこせ」
 急に言いかけられて、驚いたように稚羽矢は見返してきた。
「急ぐことか? 明日にでも少し手折ってもらおうと思ったのだが」
 のんきな稚羽矢は、そんなことを言った。
「王も梅の香が好きなのだな。この家には早咲きの白梅がある。宮ではまだ咲いていない。春のにおいだ」
 そんなところだろうと思った。王は畳みかけるように言った。
「梅も好きだが、もっと欲しいのは若草の妻だ」
 稚羽矢は一瞬押し黙り、目を大きくして王をみつめた。
「狭也を?」
 それから、ふと笑みをこぼした。
「王も冗談を言うのだな」
「冗談は言わん。とくにこの手のはな」
 稚羽矢は王にまっすぐ体をむけ、どこか威張ったように言った。
「あの人がいなくなったら、わたしはどこに行けばいい。どうやって生きればいいのだ。豊葦原の美しさを教えてくれた人がいなくなったら、わたしは誰と、何を語り合えばいいのだ?」
「知るか」
 少々あきれて、王はつぶやいた。稚羽矢と話すと、毒気を抜かれる心地がする。
 稚羽矢は己の情けなさを堂々と自慢したあとで、不敵ともいえる面構えで、ほほえんだ。
「これだけは誰とも分け合えない。知っていたか? 大蛇はたいそう嫉妬ぶかいのだ」
 科戸王は腹立ちのままに言い捨てた。
「愛想をつかされないようにするのだな。大蛇とて、去るものを這いずり回って追いかけるのは難儀なことだろうから」
 風の吹く音が外から聞こえてきた。
 木々をゆらし、山の間を吹きすぎる強い風だ。山の神の息吹とも思えるその音に耳をすまそうと、王はしばし目を閉じた。
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