美し旨しや、豊葦原の御酒2

2011.10.27.Thu.04:46
「・・・・・・葛木か」
 御座に向かう人々を見かけて、科戸王は足を止めた。
「御酒を納めるのは、今日だったか」
 大王が国を治めるようになって、四年目の秋が巡ってきた。稚羽矢の元に集った人々は、輝も闇も隔てなくとはいかないものの、なんとか手を取り合っている。剣を向けあった者同士が同じ場所で会議できるだけでも信じがたいことなのだ。
「何事か」
 狭也の侍女をみつけて呼び止めると、一礼をして、どこかほっとしたように言いだした。
「大王も狭也様もいらっしゃらないのです」
「室にはおられないか」
「はい。御酒をお持ちしたときには、たしかにいらしたのですが。杯もそのままで、かききえてしまわれました」
「霞でもあるまいに」
 ちらりと御統のことが頭をかすめたが、王は思い直した。闇の宝は剣とともに、神殿にあるはずだ。
「葛木殿を待たせるわけにもいかんな」
 かつての敵であるという思いは、まだ消えない。しかし、気遣いを欠いてよい相手でもないのだ。
「わたしも探そう」
 王子のもとをのぞいてみると、乳母に手をとられて、はしゃいでいる。庭にもいない。心当たりを探し終え、とうとう杯だけが残っていたという室にたどりつくと、王は足を止めた。
(探すなどと、言うのではなかった)
 人の気配はある。衝立のむこうだ。
 おさえた息づかいと衣擦れの音がする。
 昼間の明るさにそぐわない、隠されるべき秘め事だ。
 深いため息がもれた。
(稚羽矢め。御座のそばで不埒なことを)
 祝言からもうずいぶんたつ。その間に、二人の間には王子が産まれ、すくすくと育っている。母親として、大王の妃として、狭也はいっそう美しくなった。
 稚羽矢とて、ずいぶんましにはなった。しかし、時折まわりが見えなくなるときがある。今日のこのときのように。
(大王としてのつとめを忘れおって) 
 科戸王は一足、室に踏み込んだ。
 声をころしていても、さいなまれて苦しげな吐息は漏れ聞こえてくる。
(狭也)
 いまだに胸が痛むことに気づいて、王はうろたえた。
(なんたることだ)
 あきらめを何度も飲み込んで、それは血肉にきざまれたはずだ。手に入らない人を恋して死ぬなど、そんながらでもないのだから。
 それでも、見過ごせるほど心が広いわけでもないのだった。
 衝立を軽く蹴ると、王はしいて落ち着いた声で言った。
「御方、待つ者もおります。どうか、御座においでください」
 返事はない。あればあったで腹が立ったろう。
(余裕がない。これしきのことで、腹が立つなど)
 王は穏やかではない胸をなだめるようにきびすを返すと、衝立に背を向けかけた。空気が動くのを感じてはっとする。衝立がこちらに倒れかかってくるところだった。あやういところでそれをよけると、衝立は大きな音をたてて倒れた。
 まろびでてきた人が王の背にぶつかった。考える間もなく科戸王は腕を差し出した。長い裳に足をとられ、その人ともども床に倒れ込むと、解けほつれた髪の間から見つめてくる目と目があった。
 驚きではない。恥じらいでもない。狭也は抱き止められた腕の中で、けだるいような、寄せくる波を一途に待つような狂おしい目をしていた。
 しかしそれはほんのわずかの間で、狭也は瞬きをすると、あっという間に青ざめた。こぼれた胸乳をかくさずに、顔を両手で覆った。耳まで赤い。
「ごらんに、ならないで」
 漂ってくる旨酒のにおいをかぐなといわれるようなものだ。
 乱れた衣からこぼれる白い肌と、あかく染まった頬。すっかりあらわになった太ももをすべりおちる白濁を見たとき、ようやく王は我に返り、悪びれもしない稚羽矢をにらんだ。
「血迷ったか。昼日中からこのような」
 ゆるんだ衣もそのままに、稚羽矢は狭也の腕をとり、背中にかくまうように王の前に立った。狭也はかきこむように衣をあわせて、うつむいている。いまさら何も見なかったといっても、信じないだろう。
 もっと恥じればいい。心のどこかでは、そんな軽蔑すべき浅ましい思いもあった。おろかな恋にいまだとらわれているあわれな男に、秘め事をのぞかれたことを、ずっとずっと覚えていればいいのだと。
「いたのか」
 稚羽矢は裸同然で、ふしぎそうに見下ろしてくるのだった。恥じろというほうがおこがましいような、おかしな気分になる。
「なんの用だ?」
 稚羽矢があまりにいつものとおりなので、王は気が抜けた。
 物音を聞きつけて、人が集まってくる。舌打ちをしながら衝立を直し、二人をそのかげに押し込んだ。
「雷でも落ちたのでしょうか」
 采女が心配そうな顔で言うのに、王は苦笑いを返した。
「ねぼけた大蛇が雷を落としていったのだ」
 王が言い終わる前に、衝立のむこうでぱちん、と小気味のいい音がした。あわてたように稚羽矢がなだめる声がする。頬を張られでもしたのだろう。
 のんきな稚羽矢をまごつかせることができるのは、国ひろしといえども狭也だけだろう。
「大うそつきだわ。少しだけだと言ったのに」
「うそ? あなただって、いやだとは言わなかった」
「どうしよう、あたしはもう、あのお方の顔を一生見られない」
「見なければいい。王のこわい顔なんて」
「もとはといえば・・・・・・」

 采女は王を見ると、驚いたように目をみはった。
「あの・・・・・・?」
「たわいない痴話ごとだ」
 笑んでみせると、采女は頬をあかくしてうつむいてしまった。どこからかおかしみがわいてきて、王は声を上げて笑った。
「はやく退散したほうがいいな。これから、大王の尊い御身に、山の神のお怒りが落ちるぞ」






山の神には、妻の意味もあります
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