美し旨しや、豊葦原の御酒1

2011.10.25.Tue.03:18
 杯にそそがれた酒からは、ひどくいい匂いがした。口に含むと、苦みはすっと抜け、舌に甘さだけが残る。
 狭也は一息に飲み干すと、ほほえんだ。
「おいしい」
「天の宮に捧げようと思う」
「きっとお喜びになるわ」
 稚羽矢は狭也の手から杯を取り上げると、並々と注いで、こぼさずにきれいに呷った。
「葛木の領も田畑の実りが戻ってきたわ。あれから、もう四回目の収穫の時がきただなんて、信じられない」
「そうか?」
 稚羽矢は笑いながら言った。
「わたしもあなたも少しは年をとったろう」
「ほんの少しね」
 狭也は稚羽矢の腕に触れた。
「これ以上飲んだら、味見ではすまなくなるわ。葛木の人たちにお礼を言わなくてはならないのに」
 鏡に封じられていた国つ神が解放されると、その土地は力を取り戻した。舌をしびれさせるような旨酒も、その賜物なのだ。
「あなたと明るいうちからこうしてゆっくり過ごせるのも、久しぶりだね」
 稚羽矢はほんの少し朱が上った頬をして、狭也をにらんだ。
「あなたはずいぶん忙しそうだ。やっと王子があなたのひざから離れたと思ったら、こんどは多くの人に囲まれて、わたしのことなど忘れてしまったみたいだね」
 泣き出そうとする子そのものに見えて、狭也は夫の頬をなでた。
「あら、そんな顔をされると困るわ。あたしが泣かせたと思われる」
「困る? ならば、なぐさめてくれるか」
「時々、忘れてしまうみたいだけど、あなたは大王なのですからね」
 近づいてくる足音が聞こえた。そろそろいい頃合いだろうと立ち上がりかけた狭也の腕を、稚羽矢はつよく引いて胸に抱き寄せた。
 深くため息をはいた稚羽矢は、抑えた声でささやいた。
「返事をしてはいけないよ。身動きもだめだ。あなたもわたしも、今から草か木になるんだ」
「むりよ。わかってしまうわ」
 衝立のかげに引き込む手際は、見事なものだった。口元を押さえられ、腕が体に巻き付いてくる。立っているのがやっとだった。
 輝の神殿で出会った可憐な姿は、今の稚羽矢からは、かけらも見いだせない。彼はこの数年で、ぐんと背も伸び、力も強くなった。抱きしめる腕はたくましく、こうなると跳ね返すこともできないのだった。
(あとでおぼえていらっしゃい)
 にらみつけると、稚羽矢はどこか物憂いような、いたずらを面白がるような顔をした。はやく離れないとまずいことになる。
 足音が、室の前で止まった。
「御方。あら、いらっしゃらないわ」
 ふと手の力がゆるんだ。思い切り息を吸う間もなく口づけされて、狭也は目を見開いた。熱い舌が触れると、めまいににたしびれとうずきがおそってきて、狭也は目を閉じた。
 稚羽矢がようやく唇を離したころには、あらがう力は残っていなかった。
「行ってしまったよ」
 衝立のかげは狭く暗い。腕を放した稚羽矢は、戸惑ったように苦笑をした。
(ほんとうに、ずるい)
 昼間の光をさえぎって、あんな口づけをされたら、たまらない。それでいて、思いもよらないことになったとでも言いたげに、狭也をじっと見下ろしている。
 すきまもなくぴったり触れあっていると、どうしようもなくもどかしい気持ちになる。
 もう一度唇をあわせたら、きっと役割のことなど二の次になってしまう。
「わたしのせいにすればいい。あなたは、役割のことなど忘れて。葛木の人々には、すこしだけ待ってもらうことにしよう」
「だめよ」
「いいから」
 稚羽矢はいたく真剣な瞳で、こうように言った。
「葛木の旨酒のせいだ。身がほてって、焼けるようだよ。あなたにやわしてもらわなければ、死ぬかもしれない。苦しい」
「大げさね」
 狭也はあきれたふりをして、夫の首に腕を巻き付けた。
 

 
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