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山の神10

Category空色勾玉 二次
 昼が過ぎた。曇り空のもと、やけに冷たい風が吹き込んでくる。
 待つというのも、なかなか落ち着かないものだ。狭也は乾いた稚羽矢の衣をたたみ、手のひらでそっとなでた。
 衣のしたに息づく肌のことが思いだされる。夫となったばかりのあの人は、今ごろどうしているだろう。危ない目にあっていないだろうか。無事に帰ってくるだろうか。
 御統があれば、きっと大丈夫だ。ただ、心配なのは稚羽矢が山の神をちっとも畏れていないということだ。
(どうか無事に)
 ただの人に等しい身なのだと言うことを思い出してほしい。
 こんな風に稚羽矢のことを気にかけたのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。
 庭先に稚羽矢の後ろ姿を見つけたとき、狭也はほとんどなにも考えずに駆けだして、その背中を抱きしめた。まぼろしではない。それがわかっても、離す気にはなれなかった。
「狭也」
 腹に回した手に、あたたかくて大きな稚羽矢の手が重ねられた。
「おかえりなさい」
 向き直った稚羽矢は、どこか驚いたように目をみはっていた。
「狭也?」
「心配したのよ」
 目を細めて、稚羽矢はつぶやいた。
「もっと心配してほしいな。あなたがそんな顔をしてくれるのなら」
 狭也は腹立たしい思いで彼をにらんだ。
「あなたなんかしらない。もうみんな王に差し上げることにするわ」
 稚羽矢は思いがけないことを聞いたように、悲しそうな顔をした。
「稚羽矢?」
 そんなに魚が気に入ったなら、作り方を教えてもらってよかった。八田女のようにうまくできるとは限らないが、試す価値はある。
「なんだ、魚のことか」
 稚羽矢は笑った。
「そうでないなら、なんだというの?」
「わからないなら、いい」
 はぐらかした稚羽矢は狭也の頬に口づけをした。



 深いため息をよそ事のように感じながら、王は垣根から離れた。走り出てきた狭也が稚羽矢を抱きしめるところから目を離すことができなかった。
 狭也の気持ちなどわかりたくない。稚羽矢を恋うて呼ぶあの人の気持ちなど。
「あんたもあいつが好きか」
 にらみつけても、男は肩をすくめただけだった。
「隠すな。笑ったりしない」
 真人は声を潜めた。
「だから、あんたも笑うなよ。おれは狭也が嫁にくるのを疑っていなかった。去年の歌垣の晩まで」
 王は腕組みをし、続きをうながした。
「子どもに妻問いを邪魔されたことからして、ついていなかった。あのがきがなめた真似をしなかったら、押し切ってやったのに」
 その子どもとやらは、鳥彦にちがいない。子どもが山に登るのは禁じられているものだし、少々短気なこの男の求婚に水を差すなど、いかにも鳥彦のやりそうなことだ。
「ほんとうに、御子さんのことが好きなんだな、狭也は」
「くだらんことを言うな」
「なら、そんな怖い顔をするなよ。男だって、笑っていた方が、ずっと押し出しがいいだろうに」
 王は息を吐いた。
「これは染みついたものでな。いかんともしがたい」
「あんた、もう少しがんばれ。御子さんとあんただったら、あんたのほうがいくらかましだ」
 思わず王は吹き出した。
「ましだとか、そういう問題なのか? そなたは・・・・・・あきらめられるのか」
 独り言のように、真人はつぶやいた。
「あいつが笑っていられればいい。おれはそう思うことにしたんだ。もうしばらくは、忘れられないだろうがね」
 真人のように思えるときがくるのか、それとも、たちきれない未練を抱いて、こうして遠くから見守るしかないのか。
 どちらもうべないたくない気持ちで、科戸王はひととき目を閉じた。
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