一品妃(おうひ)のお茶

2013.01.31.Thu.05:00

 ちょうど里の入り口にたどりついたとき、風が強く吹いた。
 思わず編み笠をおさえたほどの強風だ。
 都から七日の道のりをゆき、船に乗り込み、凪海を揺られること丸一日。切り立った山が間近に迫ってくるようだ。港を離れると、あとは埃のまう道がどこまでも続くばかりだ。
(なんと寂しいところだ)
ひとつ、嘆息する。足下に何かが落ちているのにホバクは気づいた。かがんで手に取ったそれは、娘の髪を飾る細い布だった。
 羽ばたく鳥と、まさに咲き出したばかりといった可憐な花が、赤い布地に黄色い糸で縫い込まれている。若い男が手にするのが戸惑われるような、作り手の思いがこもってみえる品だ。ホバクは埃をそっとたたき、ていねいに畳んだ。
 人も物も雑多とあふれた都から、遠く離れた山里のここゴヒャンで、良家の子女の結い髪を飾るような布を見たことで、なぜかホバクは胸がうずくように痛むのを感じた。
「おじさん、それ返しておくれ」 
 かわいい声がした。泥でうすよごれた頬をぬぐいもせずに、くたびれた茶色い衣を身につけ、どうも身の丈に合っていない、だぶだぶの袴をはいたやせた子は、ぐっと顔を上げてホバクをにらんでいた。
 顔だちは悪くない。潤んで見える目は、はっとするほど強く輝いている。
「おじさんってば、耳遠いのかな」
 ホバクは咳払いをした。
「こちらの里の子は、目上への礼儀というものを知らないのか、そうか。知らないのか」
 頬をふくらませた子は、顔を背けた。
「泥棒に身を伏せて挨拶などしませんよ。それ、さっさと返してください」
 小憎らしい口をきく。
「そなたの持ち物には見えぬが」
 細い眉がきっとつりあがった。背筋をぴんと伸ばし、見上げてくる瞳の力は、たいそう強い。
「おじさんは目も悪いの?」
 かん高い声で叫ぶと、ホバクの手から布をひったくるようにして奪った。
「あたしは、娘だってば」
 そう言われてみれば、娘に見えないこともない、かもしれない。ちらりと頭によぎったしとやかな娘の姿と、目の前にいる子が、あまりにちがうので、たいそうおかしかった。
 大事そうに懐に髪飾りをしまい込むと、娘はホバクを横目でにらんだ。
「こんな山奥まで、誰かを訪ねてきたの?」
 ホバクはうなずいた。
「茶園はどこかな。ちょうどいい、リ・ジャンイン殿のもとに案内してはくれないか」
「茶園に、何のご用です」
「王様のご命令だ。よいから案内しなさい」
 振り返った娘は、恨めしいまなざしをしていた。
(たしかに、娘だ)
 男なら、こんなふうに人をにらむまい。
「道を教えてくれれば、礼をしよう」
 懐の財布をならしてみせると、銭の鳴る音を聞きとめたか、娘の耳がぴくんと動いた。
「名は?」「・・・・・・ビチュイ」
 ふてくされたような声で言う。
「翡翠か。いい名だね」
 たちまち耳が真っ赤にそまった。ホバクは急いでよそを向き、なんとかふきだすのをこらえたのだった。

「男の子と間違えなさるなんて」
 乳母のハニョンがあきれたようにそうつぶやいた。
何も言い返せない。客人と出会ったとき、ビチュイは汚れてもかまわない男物を身につけていたし、畑仕事のあとだったので、顔にも泥がこびりついていた。
客人の笑顔を思い出すと、なぜかへんに胸がくすぐったい。
背の高い、細身の男。笑い声をきくと、見た目ほど年を取っていないことがわかった。編み笠のへりをあげてほほえむその面は、整っていて涼しげで、見つめられると気後れしてしまうくらいだった。
「王様の命って、なんだろ」
ぬらした手布で顔をぬぐい、衣を着替えると、ようやくほっと息がつけた。
「茶園に甕を買いに来る人がありますか?」
 ハニョンは笑った。
「都では、近々、競茶が催されるそうですよ。
国中から集めた茶を飲み比べ、どれが一番おいしいか決めるのです」
「ふうん」
「ゴヒャンの一品茶なくして、なにが競茶ですか。王様がお求めになられるのも当然です。ヘンウン様のお茶ですもの」
 この国の世継ぎの王子の母であるヘンウン様は、ここゴヒャンでお生まれになった。かの方は、大勢の侍女の中から王様に見いだされ、身分から言えば望みうる最高の地位、一品妃にまでのぼりつめた。
 王様はヘンウン様と同じくらい、ゴヒャンの茶を愛した。いつしか茶は一品茶と呼ばれるようになったのだ。
 ビチュイはためいきをこぼした。
 それならどうして、一品茶はいま「毒茶」と呼ばれるのだろう。茶園は荒れ果て、ビチュイの父は多くのものを失った。この地を訪ねてくるものなど、いまはめったにない。父とビチュイ、そして数人の使用人には、この家は広すぎる。
ハニョンは、ビチュイに青い上着をきせかけながら、こう言った。
「まあ、よくおうつりになる」
 うかない顔のビチュイをせっつくように、ハニョンは言った。 
「さあ、おもてなしをしてきてくださいね」

 父の居室の前でビチュイはそっと呼吸を整えた。
「まさか、あなた様がお越しになられるとは」
 父の抑えた声が聞こえた。いつもより早口で、聞き咎められるのをおそれているかのようだった。ビチュイは戸にかけた手をとめ、そっと聞き耳をたてた。
「遅すぎたほどです。私に力がないばかりに、苦労をおかけしました」
「なんというもったいないお言葉でしょう」
 父のむせび泣く声に、ビチュイは息をのむ。
「あのとき、あなた様は八つでいらした。ご立派になられて・・・・・・」
「受けたご恩は、忘れたことはありません」
 客人は低くささやいた。
「競茶のことはご存じでしょう」
 ビチュイはつばを飲み込んだ。
「もっとも優れているものを決め、褒美をも与えようと王様はお考えです」
客人は、はつらつとした声で続けた。
「国一番を決めるなら、あまねく国中の茶葉を集めねばなりません」
 我慢できずに、戸をすぱーんと開けたビチュイは、客人に詰め寄った。
「うちのお茶を、一品茶を、王様がお飲みになられるんですか」
「これ! 不作法な」
父の声も、耳には入らなかった。
 客人は眉をひそめてビチュイをにらんだ。
「なるほど、そういう格好をすると、いよいよ娘に見えてきた」
「泥は拭いました」
 顔を高く上げると、吹き出す声がした。客人の肩が揺れている。
「衣は美しいが、あまりになまめかしいな」
 そう言いながら、笑いをかみ殺している。視線を感じて足下に目を向けると、裳のすそから素足がのぞいていた。
 夫にしか見せないようなものをさらすのは、大変はずかしいことだ。
 とっさに伏礼をして足を隠すと、それっきり顔があげられなくなってしまった。
「伏して礼などしないのではなかったか」
 追いつめるように客人はからかった。
「いたらぬ娘でございまして」
 ホバクという人は、何者なんだろう。父の様子からすると、ただの使者というわけでもなさそうだ。
「どうか、私を信じて一品茶をわけてはくださいませんか」
 へりくだりながらも、否とは言わせぬ力がある声で、ホバクはそう言ったのだった。

 笹藪がざわざわと音を立てる、曲がりくねった山道を、黙々とのぼっていく。
着替えずについてきたことを、ビチュイは後悔していた。日陰の道はぬかるんでいて、どんなに注意しても泥はねがついてしまう。
 狭く急な道をのぼりきると、ふいに視界がひらけた。丘にはりつくように、畑があった。茶は青あおとしげり、柔らかな新芽をのぞかせている。つみ取られるのを待ちわびているかのようだ。
「亡きお方の・・・・・・ヘンウン様の願いを賜り、こうしてわずかながら残して参りました。しかし、王様に献上することだけは、ご容赦ください」
「財と名誉を取り戻す好機なのですよ」
「ないならないで、気楽なものです」
「しかし」
「あなた様がこの茶葉を持ち帰られたなら、王宮に波が立ちます。お命すら、あやうくなりかねないのですよ」
 ビチュイは目をみはった。
「どういうことです」
 命が危ないのなんのと、ぶっそうな話だ。
 父は険しい顔で言い出した。
「十年前のことだ。ヘンウン様は、王様のお茶に毒をいれた疑いで、王宮を追われなさった。そのことは、おまえも知っているだろう」
 ビチュイは大きくうなずいた。
「ある日、王様の毒味役が茶を飲んで倒れた。疑われたのは、ヘンウン様だった。侍女をつかわず、茶の用意をすべてご自分でなさっていたので、申し開きはできなかったのだ」
 冷たい声で、ホバクはあとを続けた。
「そのとき、そなたの父上が、ヘンウン様をかばって王様にこう申し上げた。供されたのは王様のお好みであられた一品茶だ。非は茶にこそあると。葉についた虫を取り除くために使った薬が、残って湯に溶けだしたせいだと。ジャンイン殿が、ああ申し上げなければ、ヘンウン様には謀反の汚名がきせられていたことだろう」
 父の青ざめた顔をビチュイはみつめた。
 茶についた虫も、雑草も、すべて人の手が取り除く。茶葉に触れる手は、赤子を揺するようなやさしいものだ。
 ヘンウン様を守るためとはいえ、一品茶にまとわりついた悪名は、父にとって不本意なもの。誰より胸を痛めているに違いなかった。
 父の声はただ苦い。
「王子様をお生みあそばし、王様からの寵愛も篤かったヘンウン様が、毒など盛る必要はない。少し考えれば誰にでもわかること。それなのに、ろくな取り調べもないまま、次の日にかの方は王宮を追われ、戻ること叶わぬままお亡くなりになった」
 あまりに慌しい。寵妃であれば、なおさら妙だ。この事件そのものが、芝居めいて見えるのは、その性急さのためだ。
 ホバクは鼻を鳴らした。何かを嘲弄するような面もちになると、別の人のように見えた。
「悪者は大胆で、ずるがしこい。反論を封じ、力を誇示し、周りを従えるのさ。ときには、王様すらも召し使う」
 信じられない。それが王宮なのだろうか。
 だとしたら、なんておそろしい所なのか。 
 ホバクは深く息を吐き、空を仰いだ。
「母の故郷をずっと見たかった。このようにさびしいところだったとは」
 ホバクは笑ったが、それはどこかひきつっていた。ビチュイは裳をぎゅっと握りしめた。
 父の態度、そして、話の成り行き。ビチュイは目の前に立っている人を、信じられない思いでみつめた。
「王子、様・・・・・・?」
 ヘンウン様の産み参らせた、国でただ一人の男の御子。世継ぎの王子様だ。
 肝が冷えるようだった。ここが王宮なら、すぐさま首をはねられるような暴言を吐いた気がするが、こわくて思い返すことなどできそうにない。
 ホバクは、うなるように言った。
「いかにも。私を世継ぎと認めたくない人も、星の数ほどいるがね」
 そう言う人と、目があった。おかしな顔をしていただろうか。たえかねたように彼は吹き出した。物憂い表情は消え、ビチュイをからかうように目を細めた。
「気楽にしておくれ。ただ、私はまだ十八歳だ。おじさんと呼ぶのはよしてくれないか」
「あ、あれは、その」
「ビチュイ!」
 父の叱責に身を縮めると、ビチュイはホバクを盗み見た。
(ヘンウン様の子ども。この人が)
 ビチュイが六歳の頃、かの方にお茶を差し上げたことがある。
 茶碗からこぼれた滴を白い指でぬぐい、おいしそうにヘンウン様は飲み干してくださった。やさしい笑顔は、今でもはっきりと思い出せるのだ。

 夜のとばりのおりた頃。客人の寝床を整えていたビチュイは、部屋に入ってきた足音に気づいて声をかけた。
「ハニョン、あの方の着替えは大丈夫かな。背が高いから、父様の着物だとすねまで出るかも」
「いかにも、すねがでるな」
 小さな部屋に、若い男の声が響き、床板がきしむ音がする。
「すねが、で、で、でますか?」
「ああ、見てごらん」
 ひざまづいたビチュイの目のはしに、大きな足がつきだされた。
 悲鳴をあげそうになって、それでもなんとか飲み込んだ。
 くつろいだ格好で寝床に横たわったホバクは、濡れた髪を肩に流し、眠そうにあくびをした。
「狭い部屋ですが、どうぞごゆっくり」
 気まずい思いで、ビチュイは目をそらした。
「ご用がなければ、これで」
 小さな含み笑いをきくと、背筋に鳥肌が立った。
「気楽にせよと言ったのに」
 灯台にともした火がゆらめくと、横たわる男の姿が現実のものではなく、ゴヒャンの山からときおり這い寄ってくる霧が作り出す、幻のようにも思えてくる。
 疲れをためた黒い目が、じっとビチュイをみつめている。呼吸のたびに上下する肩が、ゆるんだ襟もとが、見てはならぬと思うのに気になって、気になるという自分が恥ずかしくて、とても平気な顔をしてはいられない。
「お待ち」
 呼び止められただけなのに、顔がほてり、胸が鳴る。これはどう考えても、悪い病気ではなかろうか。
「あの髪留めを、なぜつけない?」
 風にとばされ、ホバクに拾われた赤い髪留め。ビチュイは深く息を吸いこんだ。
「汚すといけませんので」
 ホバクは不思議そうに目をしばたいた。
「それほど大切なものか」
「お慕いする方がくださいました」
「相手は誰だ。ゴヒャンの山にすむ精霊か?」
 ビチュイは唇をひん曲げた。
「冗談だよ。そんな顔をするものではない。嫁に行けなくなるよ」
「行けなくったって、かまいません」
「ふうん。ずっと独りでいるつもりか」
「いつか、山の精とでも結婚します。精霊は山の気を食べるんです。米が減らなくていい」
 ホバクは声を上げて笑った。
「私はどうだ? 独り身だし、まあ、今のところ食うには困らないが」
 困らないどころの話ではない。頬をふくらませたビチュイは、黒い瞳に射抜かれて、はっとした。
「まっすぐな目をしているな。そこがいい」
 顔がほてる。たまらずビチュイは立ち上がった。言い含められた礼儀も何もかもがすべて吹き飛び、ただこの人のまなざしから逃げられるのなら、はだしをさらして笑われてもいいとさえ思った。
「気がのらぬか。それは残念」
 ホバクはほほえんだ。あくびをかみ殺し、目を閉じた。
 
満月がほのじろい輪っかをともなって、雲もない夜空にうかんでいた。
 床をのべ、横になってはみたものの、ちっとも眠れずにビチュイは庭におりた。すこやかに寝息をたてるハニョンがうらやましい。
 庭を照らす月明かりのした、きざはしに座り込んだホバクをみつけた。
 眠れないのだろう。
 月が明るすぎるせいか、それとも、ビチュイと同じように、押し寄せてくるとりとめのない思いが眠らせてくれないのか。
 ビチュイは寝間着であることもわすれて、しばらくの間、月を見上げる彼の姿を、息を潜めてみつめ続けたのだった。

 長い夜が明けた。
 空が白み、鳥がさえずり飛ぶさまを、こんなにもほっとして眺めたことなどない。
片づいた部屋には誰もおらず、父の姿も見えない。
 思いつく場所と言えば、茶畑しかなかった。
 ビチュイは、まだ薄やみのなかに眠っているような里内をぬけて、なれた山の道を上っていった。
 枯れた笹群のむこうに畑が見えたとき、もうもうと白い煙が立っているのに気づいて、ビチュイは思わず声を上げた。
 山を降りてくる霧などではない。
 燃えているのだ。父が、心をこめてひっそりと作り続けた一品茶が、煙に包まれている。
 ビチュイは駆け出した。畑に放たれた火は、吹き寄せてきた風をうけて、勢いよく燃え上がった。
 なめるように火が茶畑をのみこんでいく。脱いだ上着を両手で振り上げ、ビチュイは火をたたき消しにかかった。煙が目にしみて、涙がにじんだ。
 新芽が焼け焦げる音が聞こえてくる。ぱちぱちと、やわらかい葉が燃えていく。
 煙の向こうに、父が立っているのが見えた。手には、火のついた松明を持っている。なぜ。どうして。
 父は、自らの手で大切な茶畑に火をかけたのだ。今年初めての茶、甘くてみずみずしい、やわらかな茶葉だったのに。
 ヘンウン様は、茶を守ってほしいと言い残された。父はその約束を、一日たりとも忘れることはなかったはずだ。それなのに、なぜ。疑問が頭を埋め尽くした。

 やがて、火は消えた。
すべてを焦がし、台無しにして。
「どういうつもりです」
 いつのまにそこにいたのだろう。ぼうっと立ち尽くしていたホバクは、固いしわがれ声で言った。
 朝の日差しが、たなびく雲の切れ間からのぞき、彼の顔をてらした。途方にくれた子どものように、ホバクの顔はくしゃくしゃだった。
「なぜです」
 父は草の上に座り込み、頭を地にこすりつけて平伏した。
「ヘンウン様とお約束いたしました。この茶は、決して、政治の道具にはしないと」
 解き髪を汗で頬にはりつかせ、手も衣の袖口も真っ黒にしたホバクは、顔をゆがませた。
「なぜだ」
 悲鳴のような叫びだった。泣き濡れた頬のまま、空をあおぐように彼は顔を上向けた。開かれた口から、声にならない嗚咽が漏れ出てくるようだ。
「十年前の事件・・・・・・」
 伏したまま、父は言った。
「あの日の毒味役は王后様の息のかかった者。証拠もございましょう。それをうやむやにできるほど、かつては王后様のお力が強かった」
 ビチュイはホバクから目を離せなかった。
「でも、今はちがいます。流れは変わりました。王后様に御子はいらっしゃらない。ホバク様をもり立てる勢力が大きくなってきている。そんな中、あなた様ご自身が、母たる一品妃、ヘンウン様ゆかりの地にお越しになられた。この意味を、問うまでもございません」
 父はつっかえながら、早口に言った。
「事実を今こそ、明らかになさろうと、王様はお考えなのですね」
 ホバクはうめいた。
「このホバクの願いでもある」
 抑えた声に、怒りが滲んでいた。
 父は頭を地にこすりつけた。
「事件の真相を明らかにすれば、必ずや王宮が血で染まります。憎むものと同じところに、大切な王子様が立たれることを、ヘンウン様は何よりおそれておいでだったのです」
 ホバクはかすれた声でささやいた。
「母上は、亡くなったのだ。この寂しい土地で、夫にも子にも看取られぬまま。その無念を、はらしたとて、お喜びにはならないと?」
 どれくらいの時がたったのだろう。
 肩を落とし、山の道を降りていったホバクを、ビチュイは追えなかった。追っていったとして、何が言えるだろう。
 権力を得るために、毒を茶に仕込ませた人。そして、茶をつかい、恨みを晴らさんとする人。
 この地で、ヘンウン様はいったい何を思ったのだろう。
「都に残した、泣き虫の男の子が心配なのよ。気がかりは、それだけ。元気が出るビチュイのお茶を、あの子にも飲ませてあげられたらいいのに」
 おいしいお茶だ。飲む人を幸せにする、一品茶はそんなお茶なのだ。
 ビチュイは顔を上げた。火と煙にあてられて、ぴりぴりする頬をゆがめて、足をもつらせながら、屋敷にむけてビチュイは走り出したのだった。

 屋敷の表門のところに、所在なさげに立っていたホバクの腕を、ものも言わずにビチュイは引っぱった。
 台所のそまつないすに彼を座らせ、ビチュイは腕まくりをした。
 茶をいれる。十年前、ヘンウン様にそうしたように、ただ、おいしい茶をいれることだけを考えて。
 ほつれた髪が目にかかった。頬がしみると思えば、ビチュイはしらぬ間に泣いていたのだった。
 小さないすがきしんだ。座り込んだホバクは、疲れ切ったようにうなだれ、顔を両手で覆っていた。茶碗を置くと、ビチュイは静かに言った。
「どうぞ」
「欲しいのは、一品茶だ」
 低い声でホバクはうなった。
「つみ取られたばかりの若い芽だ。王様の競茶に、味の劣るものを出すわけにはいかない」
「いいから、飲んでください」
 のろのろと顔を上げたホバクは、憤りと落胆に青ざめていた。しばしの無言のにらみ合いの後、しぶしぶといった風に彼は茶碗を手に取った。
 一口含むと、ホバクはかるく目をみはった。
 あっという間に飲み干すと、問うように見つめてきた。そらさぬ視線にほほえみを返すと、ビチュイは薬缶をかたむけ、ふたたび茶をそそぎ入れた。ふうと息を吐きかけながら、ゆっくりと飲み干したホバクは、やがてかすかに笑った。
「一杯目で、渇きが癒えた。二杯目は、ほどよく熱い。味が濃く、深いな。香りもいい」
「ヘンウン様に教わったんです。飲む人のことを考えるのが、おいしいお茶をいれるコツだと」
 ビチュイはまっすぐにホバクをみつめた。胸元から赤い髪留めを取り出し、そっと手渡した。そのとき彼のかたい指先に手が触れたが、ビチュイは鳴る胸を押し隠して、口を開いた。
「この髪留めは、母を亡くしたばかりのあたしのために、ヘンウン様が作ってくださったものです。しばらくの間、あの方はこの家で過ごされました。まるで母のように、あたしを膝に乗せ、甘えさせてくださった」
 ホバクの火脹れのある手のなかに、大切な髪留めがある。胸がうずいて、苦しくて、息ができなくなりそうだった。
「あなたは、ここを何もないさびしいところだと言いましたね。でも、ヘンウン様はゴヒャンが一番美しいとおっしゃった。何もなくとも、ただあるべきものがあるように、汚されずに残っている。この場所が、好きだとおっしゃったんです」
 大切な人のためにお茶を入れる。健やかであるように、願いを込めて。
「この世がすべてゴヒャンのようならばいいな。・・・・・・真心など、王宮にはない。まぼろしだ」
 ホバクは厳しい顔で首を横に振った。布を持つ手に、力がこもった。
「すべてが偽りだ。人をあざむき、け落とさねば、自分の身が危うくなる」
 あざわらうように彼は唇をゆがめた。
「ですから、お茶を、いれさせてください」
「もう十分だよ」
「今日、この時だけではなく」
 うわずった声で、ビチュイは言った。
「明日もあさっても、元気の出るお茶をいれてさしあげます。きっとよく眠れるようにもなります。ヘンウン様のお心を教わったあたしを、どうか、連れて行ってください」
 突飛な申し出に聞こえたに違いない。問うようにホバクはビチュイをみつめた。
「ビチュイ」
「聞いてください。ヘンウン様は、どなたも恨んではおられなかった。それがずっと不思議だったんです。でも、今は、ようくわかります」
 物思いから立ち直るとき、苦しみを振り払うとき、一服のお茶が助けになる。そして、心の通い合う誰かがそばにいさえすれば、共に飲む茶はますます美味になり、苦しみを溶かすだろう。
 ヘンウン様は、王宮のだれにもなしえぬ仕事をなさったのだ。激務と心労で眠りの浅い王に茶を差しだし、気をひく昔話を語って聞かせ、安らかな眠りを誘った。
 王后から差し向けられた悪意にも、悪意で返すことはしなかった。
「天が、人々が望むなら、多くの幸福があなたのもとにおとずれるでしょう」
 ホバクの目に、かすかな光がともった。何かに思い当たったように、彼はうなずいた。
「母上の口ぐせだ」
 ホバクはため息を吐いた。
「時機をみろ。焦るな。そういうことか」
 いずれは王位をつぐ人だ。今は多くの反対があるだろうが、きっとこの人は国を率いる王になる。
(大勢のために生きる人なんだ)
「意のままにならぬと、憎しみをつのらせていては、醜い争いになるばかり・・・・・・。あいわかった」
ホバクはため息をつき、苦笑した。
「このようにたしなめられるとは、思ってもみなかったな」
 ホバクはふいに真剣なまなざしをした。
「じっとしてごらん」
おずおずとビチュイの頭をなでたあと、赤い髪飾りをほつれかけたおさげの先に結わえてくれた。
「なかなか似合う」
物もいえず目を丸くするビチュイをよそに、毛先をつまんで、そっとホバクは鼻をよせた。
「いくらか、焦げたな」
「かまいません。髪はまた伸びます」
 ホバクは笑みをこぼした。それは、今までビチュイが目にしてきたのとは違って、どこか傷つきやすい、しかしみずみずしい意気を秘めた、若者らしい笑みだった。
「なんとでもなると、そんな気がしてきた」
 照れくさそうにビチュイをみつめる。
「そなたのおかげだ」
胸がぽっとあたたかくなった。
凍えるほど寒い冬の夜に、茶の満ちたお碗を手のひらにのせたかのようだ。
 この人の手をとるということは、険しい危険な山道をゆくよりも、もしかしてずっと困難なことなのかもしれない。・・・・・・そうだとしても。
 ビチュイはうなずき、ただほほえんだ。
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