新枕6

2011.07.31.Sun.12:40
「何かおかしなことを言ったか」
 からになった杯をなめながら、稚羽矢はあっけにとられたような顔をした人々をながめた。郷長も加わったにわか仕立ての宴は盛り上がり、声を上げてもすぐにかき消されてしまうくらいの騒がしさだったが、何気なくつぶやいた一言に郷長が悲鳴のような素っ頓狂な声をあげたので、座は斎の社よりもしんと静まり返ったのだった。
「土地神を、再び招くですと」
 郷長の梓彦は杯をすでに取り落としていた。目をみはり、口をあんぐりとあけた表情のまま首を巡らせて、長は稚羽矢のとなりにいた狭也にたずねた。
「御方のおっしゃるのは、まほろば流の冗談なのか」
「いいえ」
 狭也は吹き出すのをこらえるかのように、頬をふくらませた。
「この人は冗談など言っていません」
 狭也は稚羽矢をちらりと見た。
「しかし、輝の御鏡を奉る前のことは、伝説に聞くかぎりでも大昔のできごとだ。古い古い神を、また再び井築の御山に招くなど。いったい、いかようにして?」
 稚羽矢はほほえんだ。
「ねぎらい、和らげるのだ」
 狭也が耳元に顔を寄せ、ささやいた。
「どうする気なの?」
「言葉のままだよ」
「わかっているでしょう、神がみは、そうやさしくはないと思うわ」
 不安げな顔の狭也は、稚羽矢の杯に酒を注ぎながらなおもささやいた。
「忘れないで。変若を手放したとはいえ、あなたは輝の御子であることに変わりはないのよ。輝の支配のうちにあったものが、いまさら手のひらを返して招いたとして、機嫌よくきてくださるとは限らないわ」
「心配しているの」
 みつめると、狭也はそっぽを向いた。
「あたりまえでしょう。それに山を知らない人が、どうやって神の住まいを探し出すというの」
「里を流れる川の上流に、神の臥所があるときいたことがありますぞ。古い神はかつて、川の流れをくだって、あるいは大きな足で山々を踏み越えてやってきたのだという」
 耳をそばだてていたらしい梓彦は、酒で赤らんだ頬に笑いを浮かべた。
「神を招くすべをご存じとは、まこと心強く、ありがたいことでございます。さっそく、明日は山を知るものに案内させましょう」

「悪いお方ではないのだけれどね」
 ちいさな背中を丸めて、人々が帰っていったあとを片づけていた老女は、ぽつりとつぶやいた。
「だれのことを?」
「郷長どののなさりようのことでございます。あれ、御方にお聞かせするつもりでは」
 狭也の母はあわてたように言い繕った。
「本当ならば、もっとはやく挨拶をするのだった」
 稚羽矢は立ち上がって、恐縮したように平伏した八田女の顔をのぞき込んだ。
「どうやら、迷惑をかけたようだ」
「おそれ多いことで」
 しわの刻まれた面は、驚きと、隠しようのないおそれで満たされていた。早く嵐が立ち去ればいいと身を縮める人のようにも見えた。
「あなたさまは、輝の大御神さまに近しくあられる、まこと尊いお方でございます」
 八田女のそばに、乙彦がひざをついた。
「おそれながら、申し上げます。この家にはもう娘はおりません」
 土器がぶつかり合う音がした。
「とうさん」
 狭也が驚きと、わずかの怒りをにじませて立っていた。老いた男の土気色の手にすがりついた狭也は、うなるように言った。
「なぜそんなことを言うの」
 父が娘を見るまなざしというのは、こんなにも懐かしげで、かなしいものなのだろうか。狭也を見つめるちいさな目が光ったような気がした。それを確かめるすべがなかったのは、乙彦が顔をうつむけて、深く平伏したためだった。
「宮に采女として召し出された娘がおりました。そのときに、あの子はわたしどもの手の届かない遠いお方になられたのです。いま、わたしどもにできるのは、あの子がそばにいて、楽しげに笑ったりそこいらを転げ回ったりしていた頃を、なつかしむことだけでございます。ただ、それは、けっして寂しいことではございません」
「いやよ」
 狭也は暗い声で言った。
「ずっとうちの子だと言ってくれたじゃない。羽柴の子であることを誇りにしろと。あたしはずっと忘れなかったわ。ずっと心は帰りたがっていたのよ」
 八田女はなだめるように言った。
「夫婦二人で死ぬまで安楽に暮らせるようにしてくれたのは、娘のおかげ。これ以上、なにを望みましょう」
 乙彦がくぐもった声で続けた。
「たよるものもない幼子が、帰る場所をみつけたならば、飛び立っていくのを見送るのは道理なのです。どうか、わたしどものことはお気にかけず、御在所にお戻りください」
 平伏した二人を、稚羽矢は途方にくれて見つめていた。狭也は耐えられなくなったのか、そっと立ち上がり、外へ駆けだしていった。
 すぐに追おうと腰を浮かせかけた稚羽矢は、しかしうつむく人が嗚咽をこらえているのに気づいて、乙彦のやせた背中をなでた。
 何を言えばいいのか、言葉が思いつかなかった。ただ、胸にある思いを正直に話すしかないのかもしれない。
「おそれるなとは言わない。でも、わかってほしいのだ」
 稚羽矢はしずかにつぶやいた。
「わたしは、情けというものを知りたいと望んでいる。狭也が大事に思う人々や事柄を、同じようにいつくしみたいと願っているのだ」
「なぜ、そのようにお心を砕いてくださるのです。欠けるところのない輝の御子であらせられるお方が」
 乙彦は苦しそうにつぶやいた。
「砕いているつもりはない。ただ、心を狭く閉じこめるのではなく、広がるようにありたいとは思う。狭也が喜ぶとわたしもうれしいし、皆が笑うとわたしも楽しくなる。それだけのことなのだ」
 ゆっくりと顔をあげた乙彦は、涙をぬぐわないまま、きまじめな顔で稚羽矢を見た。
「わたしの望みは、狭也とともにあること。そして、狭也の慈しむものを大切に守ることだ。すべて取りこぼさずにはいられないかもしれない。しかし、努力はしよう。約束する」
 鼻をかむ音がした。八田女が目元を拭っている。乙彦は妻の肩を抱くと、震える声で言った。
「あなたさまを、なんとお呼びすれば」
「稚羽矢と。もしくは、婿と」
 再び平伏した二人をみつめて、稚羽矢はほほえんだ。
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