ヤマタノオロチ(3)

2010.06.14.Mon.16:13
あたりは静まり返っていた。ただ、櫛名田の嗚咽だけがむなしくひびいているばかりだった。須佐ノ男はひとこともものを言わない。二人は身を寄せ合って棒のようにつっ立っていた。

「大蛇神は、勘違いをしたまま、鎮まってしまったわよ」

 須佐ノ男はしゃくりあげる櫛名田の背中を、剣をもたないほうの手で幼子をあやすように軽くなでた。

「勘違いではないよ、きっと。あなたは山祇だ。大蛇神のいとしい娘だったんだ」

「でもわたくしは巫女さまではないもの」

 彼は低い声で言い継いだ。

「大蛇神は言っていたじゃないか、あなたが巫女であろうとなかろうと、あなたの存在がいとしいと。大蛇神はたくさんのことを知っていた。わたしが高天原びとだということ、それに・・・それにたくさんのことを。彼の神は、山祇という巫女がもう甦りを果たしたはずだと言っていたな、それはおそらくあなたのことにちがいない。年も合うのではないだろうか」

「たしかにそうかもしれないわ、けど」

 彼女はちいさなこえでつぶやいた。山祇さまが亡くなられたのはちょうど十七年前、櫛名田が生まれた年だ。

「大蛇神と目交いあっても平気でいただろう? それが証拠だ。ただびとだったなら、目を合わせた一瞬に魂が呑まれてしまっていただろう。あなたはきっと、山祇のうまれかわりだったのだ」

「わからないわ」

 櫛名田はかぶりを振った。しかしそう言いながらも、もしかしたら彼の言うとおりかもしれないと櫛名田はおもいはじめていた。なぜなら櫛名田はたしかに大蛇神と痛みを分け合っていたのだから。須佐ノ男の剣が大蛇神の首のひとつをおとしたとき、櫛名田のからだは引き裂かれんばかりに痛んだ。いまも体の奥がぐずぐずとして、何かがよどんでいるように感じているし、頭の中で鐘を打ち鳴らされているようにひどい頭痛がする。それは大蛇神と櫛名田が絆でつながっていたせいではないのか? 朽ちてはよみがえる、転生の輪というきずなで。

「どちらにしろ」

 須佐ノ男は言った。それからいきなり大きなくしゃみをした。櫛名田はそのくしゃみで、濡れそぼった我が身をおもいだした。冷えきった体は氷よりもまだつめたく感じられ、櫛名田も鼻をすすった。

「大蛇神は鎮まった。これであなたたちを脅かすものは何もなくなったのだ」

「あなたは六つ里の英雄よ」

 櫛名田はしいて明るく言った。大蛇神が死んで悲しいなんて、口にできるはずがなかった。それに死んでしまったのは大蛇神の現身だけであり、魂は須佐ノ男が持っていることに櫛名田は思い当たった。大蛇神は死んではいない、櫛名田はそうじぶんに言い聞かせると、ふしぎなくらい心が穏やかになった。

(これからすべてが変わっていくんだわ)

 櫛名田はそう思った。何物にもおびえずにすむ未来があるということは、なんてすばらしいことなのだろうか。須佐ノ男が鳥髪のむすめたちを大蛇神の呪縛から解き放ってくれたのは、まごいようのない事実。けれど、その解放は遅すぎた。もっとはやく須佐ノ男が現れていれば。どうしても櫛名田はそう思わずにはいられなかったのだ。

 それに、櫛名田がまことに山祇だったとしたら。知らなかったとはいえ、大蛇神を鎮める義務を怠っていたせいで何人ものむすめたちが犠牲になったのだ。・・・櫛名田は大蛇神をにくめずにいた。憎みたいのに、哀れを覚えてからは、もう怒りすらも湧くことは望めなかった。その事実が櫛名田をおいつめていた。

「あなたが悪いのではないよ」

 須佐ノ男はまるで櫛名田のこころを見透かすように、そう言った。

「生きてゆくには、どうにもならないことがある。いくら足掻いても、変えられない流れというのがある。わたしたちはさしずめ、荒川のながれのなかに揉まれる木の葉だ。木の葉はただ流されていくことしかできない」

 須佐ノ男はあきらめろと言っている。過ぎてしまったことは、すべてをあきらめとともに受け入れるがいいと。しかし櫛名田は、どうしてもそうは思えなかった。

「わたくしは木の葉ではないわ。流されるだけなのはいや」

 櫛名田はゆるぎない口調で言った。

「荒川があるのなら、わたくしはそこに橋をかけるわ。それができなければ、せめて流れのなかにじぶんを見失ってしまわないように、足を踏ん張る。・・・あなたはそうではないの、須佐ノ男?」

 それが櫛名田のまことだった。心からの言葉だった。たしかに、佐里の生命はもう取り戻せない。けれど、佐里がただ運命に流されて死んでしまったとは思いたくなかった。佐里のぶんまで生きるなんて薄っぺらい約束はできなかった。なぜなら櫛名田はひとりぶんを生きるだけで精一杯だから。そんな約束は彼女に失礼だ。

 では、櫛名田にできることはなんだろう。櫛名田のこれから、櫛名田の未来。櫛名田ができることは、きっと運命をしんじることだろうと思えた。さだめというのは、あらかじめ整えられた道のことを言うのではない、足跡の一つもないまっさらな雪を踏み固め、心定めて進むことをさだめというのだ。

 須佐ノ男は暗闇のむこうで黙っていた。しかし、すこしの沈黙のあと、須佐ノ男は神妙につぶやいた。

「橋をかけるか。おもしろいことを言うな、あなたは」

 それから須佐ノ男は少しだけ笑った。

「もう」

「もう、なんなの?」

 櫛名田が問うと、須佐ノ男は笑いをやめた。そしてふいに力強い調子で、こうつづけた。

「きりのない鬼ごっこはやめだ」

  *

 里に帰りついたあとの騒ぎといったら、ものすごいものがあった。櫛名田と須佐ノ男はそれぞれの住居からまろびでて来た大勢の里人たちに囲まれ、足名椎の御館の前の広場で真昼のうたげに興じることになった。彼らの表情ははじめのころこそは半信半疑だったものの、須佐ノ男が里人たちの前で大蛇神の御魂の籠められた剣をふりかざすと、耳を覆うまでの歓声をあげた。

 足名椎はすぐさま倉に蓄えていた酒をみなにふるまい、櫛名田も須佐ノ男のとなりで当然のようにお相伴にあずかった。もともと堤の修繕などで六つ里のあちこちから手伝いに来てくれていたひとびともいたから、鳥髪の里はしごく陽気なまひるの酔っ払いたちで溢れかえったのだった。「信じられぬよ、まさかほんとうに大蛇神を鎮めたとは」

 足名椎は黙って里から消えて、大蛇神のもとに行った櫛名田のむぼうを怒ることも忘れ、ただ櫛名田の手を取って恐いくらいの真剣さで言うのだ。

「あの方は、まことにまことの英雄だ。櫛名田よ、おまえはこれから、心を尽くしてあの方にお仕えするのだぞ。あの方はわれらの英雄だ。そのことをゆめゆめわすれるな」

 里に帰り着いた安堵と身によどみのようにたまった疲れで、櫛名田はどうしようもなく眠かった。しかし父がそれを許してくれるはずがなく、櫛名田はあくびを交えながら須佐ノ男のとなりに座っていた。

「鳥髪は、すずしろの草醤がおいしいのよ」

 櫛名田は半分寝ていた。しかし須佐ノ男は鳥髪の英雄であり、櫛名田を救ってくれたひとでもあるのだ。いくら眠いからといって、彼をねぎらうこともせずにいるのは失礼にあたるとの足名椎の言葉である。

 だが、眠いものはねむい。高志までの長い道程を歩いたり、大蛇神と出会ったり、一日のうちにたくさんのことがありすぎた。今朝だってずっと鳥髪まで川をくだってきたせいで、疲れは限界にまできているのだ。 須佐ノ男はそれに気づいたうえで、櫛名田をからかうように言った。「草醤にされたすずしろもうまいが、わたしがいま食べたいのは、柔衾のしたに隠れているやさしいすずしろだ。だれもまだ手を触れていない、眠そうなすずしろだよ」

「どれでも、めしあがれ」

 まったくの生返事をかえす櫛名田に、須佐ノ男はほほえんだ。ふたりのやりとりを聞いていた人々は、色気のかけらもない櫛名田をおかしがって笑った。ふだんの眠くない櫛名田であったなら、すぐさま彼の言葉のなかに籠められた意味を理解し、顔を赤くでもしていたことだろう。須佐ノ男はふざけて共寝のさそいをしたのだった。

「須佐ノ男どの。さまざまな味に慣れた高天原びとには、すこしばかり甘すぎるすずしろではないかな。ほれ、あなたの頬がぽとりとおちてしまいそうな」

「甘いものを食べたら辛いもの、それじゃああんまり、姫さんがかわいそうだ」

 里の男たちが、口々にからかいを飛ばした。けれど櫛名田はまるきり聞いてはいないのだった。

「あなたたちは知らないのだな。鳥髪のすずしろは、甘いばかりではないようだよ」

 須佐ノ男ははたで見ていても気持ちのいい笑顔をしながら、土器にみたされた酒を一息のうちに呷った。なにくれと話をしているあいだに、だんだん宴の輪がくずれてきた。もともと囲いのない外での宴だから、闇が落ちるのもやけにはやく思われる。薄闇を打ち払うようにして篝火がところどころに焚かれはじめた。須佐ノ男は酒をいくつも呷りながら、しかしまったく酔えないじぶんをみつけていたのだった。何げなくまなざしをさげると、櫛名田はうつむいて、やけにゆっくりと呼吸をしていた。名前を呼んでもさっぱり返事がない。彼女は寝息をたてて眠っていたのだった。

「だれか、このひとに寝床を」

 須佐ノ男がそう言っても、だれも立ち上がる者はいなかった。聴こえているはずなのに応えがないのは、わざとなのだろうか。

「ここで席を立つ無粋ものは、わたしぐらいだろうな」

 須佐ノ男はごく低いその声を耳に聞いた。声のした方に目を向けると、ぬり壁のようにがっしりとした男のすがたがあった。まなざしは穏やかで、しかし物言いは明快。須佐ノ男はその男におぼえがあった。

「ええと・・・」

「八耳だ」

 八耳はかるがると櫛名田を横抱きにし、須佐ノ男をうながした。

「なぜわたしがついて行くことがある」

 須佐ノ男がたずねると、八耳は笑った。

「なにをとぼけておられるのか。大蛇神の嫁をかっさらったのはあなただぞ。あなたは嬢を妻求ぎするのではないのか」

「いずれ」

 須佐ノ男はきっぱりと言い切った。けれどそうは言ったものの、須佐ノ男は櫛名田をだきかかえて目の前を歩いてゆく男の背をみつめているうちに、なにやらすこしのいらだちが胸に生まれたことをみとめた。

「八耳。あなたはすずしろの味を知っているか」

 八耳がおどろいたように立ち止まり、須佐ノ男をふりかえった。こちらを凝視してくる男の瞳のなかに、一瞬だけとはいえあきらかな怒りがあらわれたのを須佐ノ男はみつけていた。

「ああ、すずしろか」

 しかし八耳はすぐさま怒りを表情から打ち消し、大声をあげて笑った。心底からの気持ちいい笑いであったことに、須佐ノ男のほうがおどろいた。すずしろとは櫛名田のこと。須佐ノ男は無粋とおもいながらも、八耳と櫛名田の仲を疑うようなことを言ったのだった。

「たとえ土から抜き取ったばかりの泥まみれのすずしろだろうと、わたしにはうつくしく思える。高天原びとは磨かれたすずしろしか知らぬだろうが、泥を落とすからこそ、その下にかくれていた見ほれるほどのうつくしさが引き立つのだ。・・・どうしても触れてみたくなる。草醤にでもすれば、いかにうまいだろうと考える」

 八耳は言いながら、ふたたび歩きだした。

「しかし、わたしはどうしても食べる気がおきぬのだ。触れれば壊れそうで、ともすれば手ひどい失敗をして泣かせてしまいそうでな。わたしは無骨者だから、すずしろなどというたおやかなものは扱いかねる」

 須佐ノ男は八耳のさびしげな声を聞きながら何かを言いかけたが、やはり口を閉じ、黙りこんだ。

「いとしいが、わたしには見ているだけで十分なのだ」

 八耳はかさねてつぶやいた。

       *        *       *

 それから二日三日と、まったく何事もなく過ぎていった。目に見えて変わったことと言えば、あかるい笑い声、長らく鳴りを潜めていた娘たちのはじけるばかりの若々しい嬌声が、緑の芽吹きのごとく里内によみがえったことであろうか。足名椎のはからいで、夏至あたりに大掛かりな歌垣が開かれることになったせいもあるだろう、娘たちのなかでその話題を一日たりとも、あかるい含み笑いとともに口の端にのぼらせない者はいなかった。

 しかし櫛名田はといえば、まったく退屈な日々をもぐもぐと噛みしめているだけだった。きのうにも八耳は下流の掛矢の里に帰ってしまったし、歌垣とはいっても、いままで犠牲となっていった娘たちのことを考えると素直に楽しめるはずがなかった。いちばん親しかった佐里が死んでしまってからというもの、櫛名田は里のむすめたちともあまり馴染めずにいたのだ。

 須佐ノ男は父との話し合いでいそがしく、内容はしらないけれどあまりうまく話が運んでいないようなのだ。櫛名田は須佐ノ男が二日三日と里で日を越すごとに、焦りと苛立ちを表情に色濃くしていることがなにやら不安だった。

 須佐ノ男は櫛名田が小さいころみつけた手負いの男鹿のような、おびえた目、疲れをにじませた力無い目でぼんやりと考え事をしていることが多かった。その間は櫛名田のことなんて、見えていなかったにちがいない。五回は呼び続けなくては、須佐ノ男は櫛名田に気づかなかった。 鳥髪に須佐ノ男が暮らしはじめてから、はや七日が経とうとしていた。彼はあくまで足名椎の客人として鳥髪におり、いまだ櫛名田の夫でもなかった。もしや足名椎が須佐ノ男に櫛名田をあたえることを渋りはじめたのではあるまいか。櫛名田はそう思わずにはいられなかった。

 櫛名田を得ることは、鳥髪をはじめ肥川につらなる六つ里を得ることだ。足名椎がゆるしても、里人たちの批判はまぬがれまい。須佐ノ男はよそ者、しかも高天原びとなのだ。

「・・・わたしはあなたに言わねばならないことがあった」

 七日めの夜、櫛名田の室を訪うひとがあった。須佐ノ男である。

 彼はふいにそう言い、あかりといえば、ほそぼそしい眉月のひかりばかりのなかでまっすぐに櫛名田をみつめた。櫛名田は大蛇神が退治された日から、母とは別の室で眠ることになっていた。須佐ノ男が櫛名田のもとに訪れやすくするためにちがいない。そう考えれば、櫛名田を須佐ノ男にあたえることを父が渋っているとは思いにくかった。

 櫛名田はこんな時間にふらりとあらわれて、こわいくらいまじめにそう切り出す須佐ノ男のようすにすこしだけ驚いたものの、しとねから起き出してすぐに居住まいをただした。寝床に入ったのはついさっきで、眠気はさっぱりなかった。あったとしても、須佐ノ男の声を聞いたらばすぐにでも吹き飛んでしまっていただろう。

「なに」

「あなたは、わたしと来る覚悟があるかい。父や母のいる里を離れる覚悟があるかい」

 櫛名田は驚かずにはいなかった。

「なぜそんなことをきくの。あなたは鳥髪にとどまるのではないの」

 櫛名田の疑問に須佐ノ男は皮肉に笑いながら言い継いだ。

「わたしは高天原からつけ狙われている」

 須佐ノ男は櫛名田から目をそらさないままに続けるのだ。

「わたしは高天原をすてた。だがそれを許さないひとがいる。わたしの裏切りに目を光らせ、すぐにも矛を向けるだろうひとが。高天原から鳥髪にのがれてはきたが、その道々何人もの追っ手にいのちを狙われた。そのことごとくを退けたつもりだったが、やはり高天原の探男がここまでわたしを執拗につけてきていた。このまま姫の里に居座っては、鳥髪にまで災いがおよぶだろう、かならず」

 櫛名田はただごとならぬ彼の言葉をきいて、詰め寄った。

「どういうことなの、あなたは天照大巫女王の弟なのでしょう、りっぱな貴人じゃないの。そんな高い身分のあなたをだれがないがしろにするというの」「姉が」

 櫛名田はものも言えなかった。

「高天原は女系の一族が支配する国だ。男の支配者ではどうにも争いばかりが絶えないから、女王をいただく国になったのだ。天照大巫女王はその名のとおり、天を照らし地を清める女王なのさ。姉うえはあらゆるひとの生命を手の中に握っている、同じようにわたしの生命も握られている。あのひとがひとこと殺せと言えば、何百もの人間がわたしを殺しにやってくるだろう、それこそわたしの首を取るそのときまで。・・・あのひとはわたしの裏切りをけしてゆるしはしない」

 高天原とは天照大巫女王に支配された土地。神に居並ぶ霊力を身に持つという女性の支配者を中心におおきな都が成り立つ、輝かしく日の照る土地なのだという。巫女王そのひとはあらゆる風水から占をして、まつりごとの一切の吉凶をうらなう。彼女の発言力は絶対で、むしろ彼女なしには国そのものが動かないのだと。

「でも大巫女王はあなたの同母姉でしょう。なぜ彼女があなたを付け狙う必要があるのよ。それに裏切りとはなに? 鳥髪が高天原にさからうということ? それはありえないわ。高天原の軍はおそろしいもの、とうさまは抗う気なんてないと思う」

 須佐ノ男は首を振った。

「ちがうんだ、姫。あのひとはわたしが高天原をはなれ、どこか鄙の地で安穏に暮らすのをゆるしてくださらない。ただそれだけなんだ。わたしが幸福に暮らすことが、姉にとっては裏切りなんだ」

「おかしいわ、そんなの。それじゃあまるで」

 櫛名田はそれきり口をつぐんだ。それではまるで、ただの弟ばなれできない愚かな姉の姿ではないか。須佐ノ男は櫛名田の言いたいことをとうに知っているかのように、少しだけ笑った。

「・・・決してあのひとがいちがいに悪いのではない。姉をおかしくしたのは、大蛇神の言うとおり纏向は王坐の澱んだ空気なのかもしれない。あそこは裏切りと影の戦が渦を巻くところだ。あのような場所は、ひとの住むところではない。それに、おおきな原因はわたしにもある」

 須佐ノ男は息をひとつついた。

「わたしと天照はそんな場所で身を寄せ合って育ってきた。だがわたしはそこから逃げ出したんだ、あらゆるものが支配を受ける場所から。それこそ負け犬のようにな。・・・天照はとめなかった、わたしも共に行こうとは口が裂けても言えなかった。あのひとは支配者だから。天照大巫女王という輝かしい名を持って生まれたからには、わたしのように逃げることなど選べるはずがなかったんだ」

 須佐ノ男の声の調子は愛しいものをかたるそれだった。櫛名田はすこしだけ胸がちりちりと痛んだ。それがやきもちというものなのかもしれないと、櫛名田はふとおもいあたった。

「わたしは高天原から逃げ果せたのだ、天照を置いたまま。再び会うこともない覚悟で。わたしはだから責められても文句はいえない、裏切り者とののしられようと、たとえ殺されようと」

 彼はうつむいてつぶやいた。いまの須佐ノ男には頼りなげな様子しかない。櫛名田はなにやら腹が立ってきた。大蛇神をまえにして一歩も引きさがらなかった男が、姉のことにずるずると引きずられていることがおもしろくなかったのである。それもやきもちゆえの怒りかもしれなかったが、いまはどうでもよかった。とにかく櫛名田はむかむかしてしようがなかった。

「なんて頼りないの、あなたは」

 櫛名田の憤然とした声音に、彼は驚いたように見つめ返してきた。

「大蛇神の前で言った妻問いの言葉は、なんだったの。あなたはわたくしを護ってくれるといったじゃない。あなたがまじめに言ってくれたから、わたくしはうんといったのよ。なのにあなたはまだぐずぐずしているのね」

 櫛名田は、少しのよどみもなく言い切った。

「わたくしはもう決めたわ、ええ、決めたの。鳥髪をすててもかまわない。高天原の追っ手つきの男の人と一緒に逃げることになってもかまわないわ。・・・どうせあなたのいなくなってしまったあとの里に残っていても、わたくしを欲しがるひとなんてみつかりそうにないもの」

 勢い込んで言った後、須佐ノ男はしばらく驚いたように目をしばたいていたが、ややしてきびしい相好をくずした。

「恐ろしくはないのか。わたしといることは死の神と共寝をするようなものだというのに」

「ばかなことをいわないで」

「まじめな話だ。それをばかなことというのかい、あなたは」

 須佐ノ男はやはり驚きをあらわにして言った。その声の調子のなかには呆れた風情もふくまれている。彼は大蛇神を前にしてもたじろがなかった、なにやらただびとばなれした自信をとりもどそうとしているように思えた。そもそも、櫛名田にはどちらが本当の須佐ノ男なのか、まだわからない。何事にも動じない部分か、それとも頼りなげにうつむく部分か。

 わからないのも当然かもしれない、なにしろ出会ったばかりだ。ただ、櫛名田は彼を強く知りたいとおもった。そして、あらゆる禍事から彼をまもりたいとすら思った。何より希望はある。

「あなたには大蛇の剣があるわ。あなたに害をなそうとする相手をはねのけるちからを、あなたは大蛇神から預けられたじゃない。それを信じればいいんだわ」

 櫛名田はつよく言い含めた。

「わたくしはあなたが益荒男だということを知っているわ、なのにお姉さんのことを話す今のあなたは、いつつの女童よりも頼りなげよ。自信を持たなくてはだめ。わたくしをまもると大蛇神に誓約したのだから、胸を張っていてもらわないと、ついて行きようがないじゃないの」

 須佐ノ男はというと、感じ入ったように櫛名田をみつめている。彼女はなにやら落ち着かなくなりながら、須佐ノ男を見返した。

「何か私の顔についているの」

 櫛名田はどぎまぎした。彼女はいままで須佐ノ男ほどのわかい男に、こんなに長いあいだしげしげと見つめられたことなどなかったのである。それに鳥髪の若者と違って、彼ははなやかな高天原びとらしくあか抜けていて、なによりうつくしかった。

 須佐ノ男は笑った。

「何も」

 それから前ぶれなく櫛名田のかたを引き寄せて、そのくちびるについばむようにかるくくちづけをした。突然のことに物も言えない櫛名田をながめながら、須佐ノ男はほほ笑んだ。

「あなたはわたしにはないものを持っている。あなたは泣きごとを言うまえに、前向きに考えるのだな。逃げてしまうのではなくて、立ち向かうのだな。姫、わたしがここで得たものは剣だけではない、どんな強い剣よりもあなたがわたしにくれる力はおおきい」

 櫛名田は顔をあかくした。

「からかわないで。わたくしはじぶんがそんなにたいそうな娘じゃないって知っているんだから」

「皆、気後れしているだけだ」

 櫛名田はびっくりした。そんなふうに言われたことなどはじめてだったから。

「あなたは鏡を見たことがないのかい」

 須佐ノ男が不思議そうにたずねた。

「鏡なんてきらい。人から省みられない容姿を認めてしまうことになるもの」

 そういう櫛名田の耳に、笑い声がひびいた。嫌みに思える笑い方ではなかった。

「面白いな。あなたは自分が醜いと思うのか」

「高天原の男も、嫌いだわ」

 櫛名田は憮然としてこたえた。できれば容姿のことには触れて欲しくなかったのに。十五のときの新嘗祭の歌垣で、ひとりぽっちで祭りの席に座っていたときほどみじめなことはなかった。櫛名田と同じ年頃のむすめたちはみな、目当ての相手をみつけてすばらしい夜を過ごしたというのに。その日のことは櫛名田にとってなき物にしてしまいたい一日である。

 ・・・なにより櫛名田には若者たちからの同情やからかいすらなく、まったく無視するようにだれも声をかけてこなかった。櫛名田はひどくみじめだった。それはひとえに、櫛名田がつまらない容姿の子だからに違いない。気が強いだけでなんの面白みもないむすめだからなのにちがいないのだ。

 須佐ノ男は、しぶい顔をする櫛名田の思惑など関係なしにつづけた。

「わたしがあなたのことを教えてあげるよ」

 櫛名田は彼をにらんだ。そっぽを向きかけたが、須佐ノ男の手がそれをやさしくさえぎった。

「こっちを向くんだ、あなたの顔をよく見せてほしい」

 しかたなく櫛名田は彼の方を向いた。ひとにもいろいろ好みはあるのだろうと思い直したからだった。腹立たしくて気に食わないが、タデを食らう虫もすきずきなんて言葉もあるくらいだ。腹をきめた櫛名田を、須佐ノ男はなにやら満足そうにみつめている。

「・・・しろい卵をさかさにした面輪に、くちびるは山桜のはなびらのいろをしている。瞳は黒曜石、そうだな、ぬばたまの夜のいろだよ。おだやかな闇のいろだ。まつげは帳のようにながいし、眉もあかるい」

 須佐ノ男は笑った。

「ほら、あなたはこんなに美人じゃないか。鳥髪にもあなたのようなわかい娘が何人かいたが、あなたがいちばんきれいだ。姫、ほんとうにいままであなたに触れようとするおとこはいなかったのかい」

「わたくしを見てにげるのよ」

 櫛名田は須佐ノ男の言葉をまるきり信じたわけではなかった。ただ、からっぽだった自尊心のいれものは、彼の言葉ですこしだけ満たされた。須佐ノ男はわかくてうつくしい。そんなひとに褒められるのはたとえおだてであっても嬉しいのにちがいはなかった。須佐ノ男は照れている櫛名田にまなざしを注いだまま、静かに言った。

「あなたはすこし、わたしの同母姉ににている。容姿ではなくて、その前向きな黒いひとみがにている。白状するが、わたしははじめて姫に会ったとき、あなたのなかに姉をみていた。物おじせずにわたしをみつめる目は、まるきり姉の物だったから、つい足名椎どのにあなたがほしいと申し出てしまったんだ」

 目を見開いて黙っている櫛名田に、須佐ノ男は皮肉にわらいながら言葉をつづけた。

「でも、いまはちがう。あなたはあなたであって、姉ではない。あなたでなくてはならないとさえ、思いはじめている。わたしが大蛇のつるぎをうけとったのは、あなたを護る覚悟があったからだ。大蛇神すら恐れないあなたをみて、その勇ましさに・・・いいや無謀さに、やられた」

「あきれたひとね」

 姉の代わりに櫛名田を妻問いしようとしたのは許せないが、櫛名田はむしろ素直に告げられたことのほうがうれしかった。ひとめ目交いあってますらおと麗し女が恋に落ちるという話はよく聞くし、櫛名田とてあこがれないはずがない。でもそれを地で行くとなると、話は別だった。いままで里の男たちに見向きもされなかった娘が、目も覚めるほどの美男に妻問いをうけるなんて、そもそもがありえない。

 須佐ノ男は櫛名田がそう言い出したのを聞くと、声をあげて笑った。わらうと、がっしりとはしていても丈高いせいか華奢ともいえる彼のからだが揺れた。その笑い声はうらに含むものが何もない。

 彼は楽しいから笑っているのだ、そして悲しいときには泣くのだろう。櫛名田も須佐ノ男につられてわらった。須佐ノ男はたしかにひとなのだ。笑いもすれば、怒りもし、きっと泣きもする。櫛名田はともに笑いながら、彼への気後れがすっかり消し飛んでしまうのを感じていた。

「悲しいことは、笑い飛ばしてしまえばいい。気に食わないことは丸めてどこかへ捨ててしまえばいいのだな。わたしはあなたに会って、久しぶりに笑ったよ。王坐でもながく笑うということを忘れていたが、あなたがそれを思い出させてくれた」

 須佐ノ男は見かけで判断すると二十六、七歳ほどだろうか。眉は娘のもののように細く、わらうとますますそれが彼の顔を柔やわしいものにみせる。目はいのちのかがやきにあふれ、まなじりは消し炭の黒い粉で縁取りしたようにはっきりとしている。鼻先はとおり、くちびるはうすい。麗し女の顔だが、こころは荒ぶる神を恐れない強靭さをもっているのだ。

「ただわたしは、あなたに何もあげられない。高天原を捨てたということは、皇子の地位を捨てることだ。それでもいいかい」

「いいわ。だってわたくしはもう決めてしまったもの」

 やさしくて強いかがやきをする彼の瞳が櫛名田をしっかりと見つめた。彼女は須佐ノ男のこころにふれながら、いままでの高天原への偏見を少しかえることにした。・・・高天びとは、戦を好むというはなしだ。領土をいたづらに広げ、土地の人々を追い出して恥じない。土蜘蛛、すなわち野蛮人どもから守ってやろうといいながら、みずからが侵略者であることに気づいてすらいないような、愚かでこわい人種。櫛名田の父の足名椎も、二年に一度、高天原に朝貢をしていた。好んでやっているわけでないということは、五つの童男でも分かること。媚びへつらわねば、鳥髪のようなちっぽけな里など高天原の軍にあとかたもなく踏み潰されてしまうだろう。

 でも、と櫛名田は思う。須佐ノ男はそんな高天原びととはちがうような気がする。二年に一度、きっちりと日を決めて朝貢の催促にくる高天原びとのように、はなにかかった笑い声もしないし、蛇のように青白く姑息そうな、いやな目で櫛名田をみることもない。言葉遣いも遠回りせずに、じつに明快だ。

 彼の同母姉、天照大巫女王もそんな気性の女性であってほしいと櫛名田は思わずにはいられなかった。高天原はそら恐ろしいところだとはいうけれど、男のように雄々しく、きらめく孔雀鳥のようにかがやかしく着飾ったうつくしい巫女王が統治するところであれば、それはそれでふさわしいように思えたのだ。

 須佐ノ男は彼の同母姉の大巫女王と櫛名田がどこか似ているといった。不服ではあったものの、櫛名田はやっと須佐ノ男の好意を納得とともに受け取ったのである。

「姫」

 櫛名田は首を振った。

「わたくしはただの櫛名田。ただのちっぽけな娘よ」

 櫛名田はつよく言った。姫とよばれても、自分ではないだれかが呼ばれているように感じるだけなのだ。それにそんなたいそうな呼び名は肩がこってしかたがない。そう言うと、須佐ノ男はおかしそうに目をほそめた。

「では、櫛名田」

 須佐ノ男は櫛名田の瞳をまっすぐにのぞきこんだ。櫛名田は今度こそ恥ずかしがって目をそらしたりはしなかった。目を合わせると、須佐ノ男は声もなく満足げに笑った。ひそやかではありながらも強い笑顔に、櫛名田はすこしのあいだみとれた。

 このひとは何を恐れるというのだろう。荒神をも断ち切り櫛名田をすくった英雄。おそろしい大蛇神のまえで一歩もひかなかったひとが、なぜ手負いの鹿のように頼りなげな瞳をすることがあるのだろう。高天原の同母姉がなんだというのか、天照大巫女王のなにが彼をそんなにおびえさせているのだろう。

 笑いながらも、須佐ノ男の瞳にはいつも陰りがある。たのしげに笑いながらも、彼はこころのどこかでは冷ややかにじぶんを嗤っている。なぜだか知らないが、櫛名田はそう思えた。

(さびしい人)

 須佐ノ男が姉の影におびえているというのなら、櫛名田がそれを消すことはできないだろうか。天照らす昼間の太陽を隠すのはむりでも、夜の闇のなかだけでも、おだやかに眠れる場所を彼に与えることはできないだろうか。

 櫛名田はいつのまにかじぶんがそう願っているのに気づいた。かがやきのなかにあって須佐ノ男をはにかませることよりも、闇のなかにあって須佐ノ男をやすませることのほうが櫛名田には合っているのかもしれない。そして、櫛名田はそちらのほうがとうといことに思えた。

 眠りの中までは、天照の影も入りこむ余地がないにちがいない。

「櫛名田?」だまりこんだ櫛名田をながめながら、須佐ノ男は呼んだ。「はい」櫛名田はついかしこまった。

「お願いがあるのだが、聞いてくれるかい」

 うなずいてみせると、須佐ノ男のほほえみがあった。須佐ノ男は顔をよせてふたたび口づけをした。こんどは触れ合うばかりのやさしい口づけではない。

 惜しみがたそうにくちびるを離したあと、

「あなたのその勇ましさを、わたしに分けてほしい」

 須佐ノ男はゆっくりと、しずかに言った。

(終)
 | HOME | Next »