岩姫異聞4

2012.07.13.Fri.05:03
 蛇神はそれから姿を現すことはなく、岩長王はその野を耕し、田とした。すぐそばの小高い丘に吾多という村ができ、土地神をまつった社は数年もたたないうちに大きく建て替えられた。
 秋の実りを祝う祭りは鎮守の森のそばの吾田野で盛大に催されるようになった。
 岩長王は吾田の村に長をおこうとしなかった。王は頻繁に孫の伊吹をともなって村を訪れたが、かの人が思う以上に伊吹は吾多野で過ごすことを好んだのだった。
「振りが甘い」
 やかましく蝉が鳴く鎮守の森のそばで、木刀をふりあげた青田彦は声を上げた。
「もうおしまいですか」
 木刀を取り落とした弟子が手を押さえているのを見て、一瞬だけ厳しい顔がゆがんだが、すぐに唇を引き結び、青田彦は続けた。
「お立ちなさい、若君。おれはほかの者のように甘い顔はしませんよ。そうでなければ、剣の師匠を仰せつかったのが無駄になるというものです」
「剣などいつ振るう?」
 ふてくされたような声で伊吹は言った。師に対する態度ではない。
「おじいが日向を統べてから戦は一度も起こっていないのだろう」
 うんざりした顔つきで伊吹は言った。今までこの上ない遊び相手だった青田彦が、伊吹が十歳になった年のはじめに、見たことのないこわい顔で木刀を手渡した日のことが忘れられないのだろう。
 半年以上もたつのにいっこうに上達しないのも、いやいや手ほどきをうけているからに違いはなかった。
 伊吹の供が一族の中でもかなり腕の立つ使い手であることは、国びとも意外に思うだろう。いつもの彼は穏やかに笑んでいて、声を荒くすることなどないのだ。
「振るうときなど来ない方がいいのです。だからといって備えなくてもよいということにはなりませんよ。若君も十になられた。もう子どもではありません。立派な将はよい戦士でもあるのです」
 青田彦は木刀を腕にたばさみ、息を吐いた。
「わたしが将に?」
 伊吹はつぶやいた。
「ありえないよ。稽古などいらない。わたしには素質がないと言われた。やるだけ無駄だと」
 無言で歩み寄る青田彦を、伊吹はにらみ上げた。
「・・・・・・戦ごとなどきらいだ」
「あなたの叔父上がおっしゃることを、真に受けないように。すべて自分の頭で考えるのです。あなたはほんとうに素質がないのでしょうか」
 日に焼けた手を差し出して、青田彦は伊吹を立たせた。そのまま、伊吹のきゃしゃな腕をひねりあげ、苦痛にうめく伊吹に厳しく言った。
「いまのあなたには、確かに素質も何もあったものじゃない。自らあきらめてすべてを投げ出す者には、だれがどのように教えても身につかぬということです」
 伊吹は伸び盛りで、これから鍛えるかいが十分にありそうだった。まだ力の使い方も振る舞い方もわかっていないが、あと五年もたてばかなり動きもよくなるだろう。
「ほれ、ごらんなさい。いましめられても、力がなければあらがえないのですよ」
 伊吹はおどろいたように顔をあげた。
「手弱女でも無理強いされるとあれば、悲鳴のひとつもあげるでしょう?」
 その面があっと言う間に朱で染まった。
 青田彦は数歩飛ぶように後ろへ下がった。
 伊吹は木刀を掴み振りあげると、叫びながら大振りをしたのだ。これこそ青田彦の望むところで、内心快く思いながら、荒い太刀すじをかわした。
 岩長王の孫を面と向かってこのように侮る者はそうはいない。青田彦だからこそ、言わねばならないこともあるのだった。
「勝長彦どのが若君を軽んじるのは、あなたをおそれているからです」
「おそれる? なぜ」
「末子が岩長王の名を継ぐことはご存じですね」
 息をきらしながら伊吹はうなずいた。
「おじいの末の子は、勝長叔父だろう」
「はい、今までは。しかし、国長どのは、あなたを息子の一人として迎えようと考えておいでだ。後継者として」
 横に払おうとした木刀がぴたりと止まった
。伊吹は信じられないことを聞いたように、目を見開いた。
「いかなるときも心を乱さぬように」
 払われた木刀は乾いた音を立て、弧をえがき宙を飛んだ。



 岩長王には三人の息子と二人の娘がある。上の二人の息子は家を出て、双子の姉妹はまほろばへ采女として召し抱えられた。
 末子はいずれ長となり、祭祀を引き受けるのがならわしだ。勝長彦はいずれは己が一族を率いることを疑っていなかったが、双子の姉のうちひとりが五年前に日向に戻ってきたことで思惑は大きくはずれ始めたのだった。
「今日をもって、岩長王の末子として、わが娘呼日の子、伊吹を迎える」
 父の口からその言葉を聞いたときには、耳を疑った。なにひとつ知らされず、父が決めた変えようのない事実を、ほかの村長と同様に呆然と聞いていることしかできなかったのだ。
 驚きの後には怒りがわいてきた。それは野分がみさかいなしに吹き荒れるような手のつけられない激しい憤りで、平静な顔など保てようはずがなかった。
「勝長。そなたには伊吹の補佐を頼む」
「・・・・・・理由を、お聞かせください」
 おそらく激しい目でにらみつけているだろう。しかし、それでかまわないと思った。
 あんな子どもに国長がつとまるわけがない。せっかくまとまった国が、また糸がほどけるように分かれてしまうかもしれない。それをめざとく狙っている近隣の国々に付け入る隙を与えることになりかねないではないか。
「まほろばの動きに関わることだ」
 ざわめきが急に静まった。
(またその話か)
 うんざりした気分で勝長彦は言った。
「身内同士で争い、国を乱している者たちがなんだというのです。豊葦原を果てまで統べる力など、大王にはないではありませんか」
 岩長王は静かな目でみつめてきた。その目が幼い頃からどうにも好きになれなかった。愚かな者になんとか教え諭そうとするようなまなざしは、いつまでも己が未熟者であると無言のうちに告げられているようで落ち着かないのだ。
「乱れている。しかし、遠き東の地でおさまるような出来事でもないのだ。まほろばには、剣がある」
 不吉な響きは胸を騒がせる。伝承でしか聞いたことがないが、神代のすさまじい力をひめた大蛇の剣がまほろばの大王のもとにはあり、それは一瞬にして国をひとつ焼き滅ぼせるほどの途方もない力を持つものなのだという。
 剣を振るえるのは限られた者だけだという話だ。かつて風の若子はその身に剣の力を鎮めた。水の乙女の勾玉がそれを助けたというが。
「剣など、あるかなきかのもの。風の若子と水の乙女の御代から百年は経とうという今、一度も剣は現れたことがないのですよ」
「これからも現れず、剣は振るわれることがないと、わしとて信じたい。しかし、岩姫在りし頃に予言された剣たる御子が生まれてはや十年。しかも、その子は鎮めの勾玉も導くものも持たず、おそろしいまでに何も知らぬまま育っている」
 岩長王はどこか痛むかのような沈んだ顔で言った。
「剣の父たる今上は、いずれその子を遠ざけるだろう。いまのまほろばには、剣を鎮めるすべがないのだ。ならば、その子をどこにつかわすか?」
 それはぞっとするような話には違いなかった。彼らが手に負えない者をよそに押しつけるのは、いかにもありえることだった。
「それとて、我らはまほろばにこの上ない恭順をしめしている。伊吹を末子とすることとは話が違います」
 食い下がったのは、黙っているとしじまのなかに飲み込まれそうだったからかもしれない。
「吾多を開墾できたのはあの子の手柄だ。蛇神から許しを得たあの子には、巫の素質がある。そして、いずれ剣を鎮めまつる者として、あの子ほどふさわしい者もいるまい」
「父上は、なにをお考えなのです」
「剣をこの地に迎えるときがくる。それほど遠い日の話ではない。そのときに伊吹はおそらく、大いなる魂鎮めをやりとげるだろう。わしらも変わらねばならん。伊吹一人に担わせるには重すぎる荷だ。神代からの荒ぶる力を、この地に根付かせ和らげようとするならば、それ相応の痛みを引き受けなければ」

岩姫異聞3

2012.04.25.Wed.04:35
館の近くまでくると、王と伊吹は明星の背から降り、静かに、かつすばやく馬屋へとむかった。
「あら、お早いお帰りですこと。お父さま、伊吹」
 声を聞いたとたん孫の背がぴんと伸びたのをみて、王は吹き出しそうになったが、なんとかこらえた。
 馬屋の入り口のところで、両手を腰に当て、雄々しく立っているのは王の娘、呼日だった。母となっても体の線が細く、おだやかで優しげな顔立ちをしているなかなかの美人だ。しかしこの笑顔の下に、どんな苦労を刻んできたのか、父である岩長王も計り知れないものがある。
「お父さま。伊吹は昨日の晩にようやく熱がさがったばかりなのですよ」
 泥だらけの二人の様子に細い眉をつりあげながら、呼日は続けた。
「寝床をのぞいたら、もぬけのから。青田彦が明星で出かけるところを見たというので、こちらで待っていたのです」
「寝床で粥などすすっていては、よくなるものもよくならん。伊吹に見せたいものがあってな。恐ろしい思いもしたが、それ以上に収穫があったぞ」
 あきれたような娘の視線をまったく気にせず、上機嫌で王は伊吹のちいさな肩をたたいた。すこしよろけながら、伊吹はおそるおそるといった風に母の元へいくと、頭を下げた。
「こんなに泥だらけになって」
 息子のうつむいた様子をみると、呼日は目を細めた。
「その泥を落としてしまわなくてはね。おじいさまと相撲でもとってきたのですか?」
「いいえ、蛇神と」
 はっきりと伊吹が答えたときの呼日の驚きようといったら、なかった。
「ごめんなさい」
「まあ、伊吹。まあ!」
 産声すらあげなかった子が、急にはきはきとしゃべり始めたのだ。これを驚かないでいられるはずもないと思いながら、ひどくおかしくて王は声を上げて笑った。
「何事ですか、これはこれは」
 ひょいと顔を出したのは青田彦という側近で、伊吹もなついている気のよい男だった。青田彦は泥だらけの郷長とその孫の様子に驚き、さらにちいさな子の手を握りしめて土の上に座り込み、泣き笑いをしている呼日を見て、やや度肝をぬかれたように声を上げた。
「喜び事でございますか」
「青田彦、今日はなにをして遊ぶ?」
「そうですね、御子の風邪も治ったご様子ですから、剣の池に魚釣りにでも参りますか」
「あそこに魚はいない」
 ごくふつうに受け答えをしていることの奇妙さにようやく気がついたか、青田彦はたちまち青ざめて、伊吹の前に膝をついた。乾きかけた泥のこびりついた頬のまま笑った伊吹は、楽しそうに言った。
「おもしろい顔をしている。真っ赤だ。猿はこんな風?」
「猿にでもなんにでもなりましょう。伊吹さまのお笑いになる声が聞けるのでしたら」



 青田彦が召し替えのために伊吹を連れていくと、ふたたびこみ上げてきた涙で目の前がにじんだ。
「何があったのです? あの子はこれまでどんなことがあろうと、一言もしゃべりはしなかったのですよ」
 父を見上げると、老いというものすら打ち負かすに違いない、大きな手のひらを見せられた。若かりし頃、いくつもの戦をくぐりぬけて日向をたばねた岩長王は、その剛胆さと懐の広さから大山神とも呼ばれ、国びとの尊敬をあつめている。
 そんな父の手がふるえている。何かにおびえ、身を震わせるものにあらがえないままでいるのだ。呼日は涙を拭くと、切り込むようにたずねた。
「蛇神のおわすところへ行かれたのですね」
 答えがないというのが、まさしく答えだった。
「岩姫さまがかたく禁じられたことですのに。あの地は、のちのちの子孫がため、名も付けず、耕さずそのままに保つべしとおっしゃったではありませんか」
「わかっている。ただ、見せたかったのだ。地を這う虫を一心にみつめるあの子が、広々としたあの原と青空を見て喜べばよいと」
 手のひらを握ると、王はうなった。
「この地がほしいかと、伊吹が言った。おばばどのと同じ表情でな。似ているとも思えぬのに、そうとしか見えなかった」
 胸が痛み、呼日は思わず両手をもみしぼった。
「岩姫さまの生まれ変わりではないかと、まだ信じていらっしゃるのですか?」
 王は困ったように唇を曲げた。
「あの土地におわす神が、こう言ったのだ。この子は輝の血が濃いと。大王家の始祖に連なる者だと聞くと、まこと、あっさり身を引いたぞ」
「・・・・・・神も恩というものを感じるのでしょうか。輝の鏡を壊し土地神を再び自由にしたのは、風の若子だと聞いています」
 十のころから斎の社で修行をし、十五のときにまほろばに采女として召し上げられた呼日にとって、大王家の始祖である風の若子と水の乙女はたんなる歴史上の人物ではなく、いまだその存在が鮮やかに感じられるひとびとなのだった。
「岩姫さまはまだ女神さまの御元にいらっしゃるのでは? 幼くとも、言葉を操れるようになったときには、すでに岩姫さまは岩姫さまであられるというではありませんか。それに、生の勾玉はまだ失われたままです」
 王は声を潜めた。
「勾玉を持たぬからといって、使命を持たぬということにはなるまい。伊吹にすぐれた素質があるのはあきらかだ。あの場で、わしには見えなんだ大蛇を伊吹はみたという」
 呼日の不満げな顔を見て、王は頬をかいた。
「異論はあろうが、まず聞きなさい。おばばどのの禁止はすでに解かれたのだぞ」
「本気ですの」
 にらむと、王は大きな肩をすくめた。
「大蛇があらわれ許したとき、その地を拓き神田とするべし、とな。子孫とは、伊吹のことに違いない。あの子が大人になる頃には、あの地は豊かな瑞穂が揺れる、日向いちのうつくしい場所になるぞ」
「お父さま、それは都合のよい解釈というものですわ」
「なになに。考えてもごらん。あの地で神にまみえて五体満足で帰ってこられたのは、おばばどのが訪ねたときと、今日だけだ」
 呼日は顔をそむけた。
「お父さまは思いこみが激しいのです。予言をなさりたいのなら、いっそ、巫女になられればいいんだわ」
 娘のような物言いがおかしかったのか、岩長王は笑った。
「いかなる巫女装束もこの身にはあわん。神のほうがいぶかしむだろうて」
 こうなると、思わず吹き出してしまった呼日の負けというものだった。

岩姫異聞2

2012.04.10.Tue.03:56
 伊吹の笑みは五つの童男のものではなかった。肩までの髪が風に吹かれて、一瞬その表情を隠した。再びその目を見たとき、王はすでにわき起こるおそれにどんな言葉も出てこなかった。しかし、心のどこかでそれを静かに受け止めてもいるのだった。
(伊吹は、やはり・・・・・・)
 顔を高く上げたその姿は、伸びやかだった。人々の中でどこか居心地悪そうに背中を丸め、いつも目を伏せている伊吹は、五つという齢よりずっといとけなく見えていたのだった。
 地を何かが引きずられるような音を聞きとめた王は、落ち着かなくなった明星の首を強くなでた。己の手もふるえている。
 風が変わった。どこか生々しい、腐肉のにおいがする。
 おぼえがある。身をさすようなおそれは、口で言い表せるたぐいのものではない。
 怒れる土地神のお出ましだ。
「伊吹、戻るのだ」
 振り返った伊吹の目はまっすぐに岩長王をみつめた。もともと整った顔立ちをしている子だが、表情のいっさい消えた面は神懸かりしているとしか思えない不気味さだった。
 唇が動く。この地が欲しいか、と。
 おそれが腹の底からわきあがってきた。戦場で向き合うのとは、まったく別のたぐいのおそろしさは、まさに畏怖とよぶべきものだろう。岩姫亡きあとどこか遠くなり、隔たれていた神の存在をこれほど近くに、肌が泡立つほど危ういものと感じたのは久しぶりだった。
(愚かだった。連れてくるのではなかった)
 後悔が胸をかき乱した。神に目を付けられてただで帰れるわけもない。
 禁忌を破るおそろしさを知らないわけではなかったというのに。
 何の理由もなく、祖母が何かを禁じたことは一度もなかったことを今更のように思い出しても、自分のうかつさがいっそう呪わしくなるばかりだ。
 一歩後ずさったとき、右の足が深みにはまって王はよろけた。明星がいなないた。四足に小さな白い蛇が巻き付いている。
 その無数の蛇はどこから這いでたのか、湿地を埋め尽くさんばかりにうごめき、不用意に神の領域に入り込んだ愚か者を湿った地の底に引きずり込もうとしているかのようだった。
「伊吹!」
 小さな孫はあっけなく飲み込まれ、倒れ伏したのか姿も見えない。身に巻き付けていた浅葱色の襲だけが、水面に浮かぶ木の葉のように蛇たちのぬらぬらと光る背のうえに現れたかと思うと、また飲み込まれていった。
 岩長王は叫んだ。
「神よ、その子は我が孫にして、一族の宝」
 小蛇を払い、身を振り絞るようにして王は続けた。
「おいそだてば、いずれは日向う国を導く王となりましょう。怒りをお鎮めください、地にある生きとし生ける者を愛おしむ、女神をあがめる末裔に、ご容赦を、どうか」
 王の声が原に響き、消えるころにようやく、こたえが返ってきた。

 「闇の末裔よ。そなたの孫は、なんと輝の血が濃いことか」

 割れ鐘のようなおぞましい笑い声が聞こえた。どこから聞こえてくるものか、よくはわからなかった。地を埋め尽くしのたつ蛇の腹の擦れ合う音が、そのまま音をなして声となったようだった。
 王の腕に巻きついた白い蛇が、鎌首をもたげて赤い目で王をにらみつけた。

 「岩長彦、日向びとの長よ。遠い昔、我は輝の御子により長の間、鏡に封じられた。だが、眠りを覚ましたのもまた輝の御子だった。輝でありながら闇の道を知る、変わった御子だ。この童男からは、それと同じにおいがする」

 神の前では、真実を言うしかなかった。
「いかにも、その子は前の大王の御子。大王家の始祖たる風の若子と水の乙女の三代のちの、直系の子孫だ」
 本来なら伊吹は日嗣の御子として、まほろばで大勢にかしずかれていたはずだ。それが無惨にも父たる前の大王を、叔父にあたる人に殺された。
 伊吹の身に障りがなければ、伊吹の命は摘まれていたかもしれない。
(おろかなことだ)
 前の大王とそれを殺した人は、双子の兄と弟。
 もっとも近しい者同士が、御座をめぐって争うなど。和やかに結びあった風の若子と水の乙女の思いは、反故にされたに等しいではないか。
 
 「なるほど、なるほど。では、そのときがようやく来たのか」

 にわかに声は穏やかになり、いつしか小蛇どもは草陰めざして四方に散り、波が引くようにいなくなった。
(助かったのか)
 すぐそばで泥にまみれて倒れていた孫を抱きかかえると、青ざめてはいるが息はしている。ただ気を失っているだけのようだ。
「伊吹。伊吹よ!」
 体をゆすると、童男はひどくおっくうそうに目を開けた。そうして、王をいつものまん丸まなこで見つめると、泥によごれた顔のまま、にっこりと笑った。
「・・・・・・わたし、大きなしろい蛇、みた」
 唇の形を読むまでもなく、伊吹は澄んだ声でそう言った。
「おじい?」
 孫の声を聞くことを、ほとんどあきらめていた。
 しかし、耳に届いた子どもっぽい、どこか甘えた声を聞くと、あふれるような喜びがこみ上げてきて、目の前がにじんだ。
「わしは、ちいさな蛇をたくさんみたぞ。しかも、まっしろな奴を。なあ、明星」
 ひたいの星をこすりつけるように馬面をよせてくる黒鹿毛を、まだ震えのおさまらぬ手で撫でると、王は鼻をすすって目元を腕で拭った。
「おじいが明星になった」
 泥が顔についたのを見て、伊吹は声を上げて笑った。

岩姫異聞1

2012.04.03.Tue.14:21
今年五つになったばかりの孫の姿を探して、館のはずれの垣根のそばまでやってきたのは日向の郷長だった。
 大山神との呼び名にたがわず、岩長王はただびと離れした長身に肩幅は並の男の二倍はあり、腕も足も館に立てる真木柱のように太かった。
 そんな巨体を小さく縮め、垣根にあいた不自然な穴をのぞき込んでいた王は、花橘の白い花が咲くあたりにしゃがみこんだ小さな背中をみつけてほほえんだ。
 垣根を迂回するのが面倒で穴をくぐろうと体を縮めたが、いささか押し広げたせいで垣はむざんに壊れ、その音を聞きつけて孫の伊吹がぱっと顔を上げた。
 白いものがわずかに混じった頭に葉っぱをくっつけた祖父の姿を見て、伊吹は笑顔になったものの、壊れて曲がった垣をみて、少し心配そうに眉をさげた。
「またそなたの母に叱られるな」
 何度もうなずく伊吹をうながして、王は歩きだした。
「伊吹よ、何を見つけたのだ?」
 衣をひかれて白い花びらの落ちる地面をながめると、小さな蟻の行列が黒い糸のように茂みの方へ続いているのだった。
「蟻か。そなたはこの小さき虫の、一体何がおもしろいのだね」
 伊吹が細い首をかしげると、肩あたりで切りそろえられた髪が白い頬にかかった。大きな目に薄い唇をして、髪も結わないせいか伊吹は童女そのものだった。五つともなれば生意気な口の一つや二つ飛び出して来るものだが、この子は何があろうと巌のように押し黙っている。
 両手を大きく広げ、伊吹は空を仰いだ。かと思うと、急に我が身を抱きしめるように体を小さくし、しゃがみ込んだ。
「それでは、わからん」
 岩長王は苦笑いをした。口のきけない孫は、豊かな表情や仕草で色々と伝えようとするのだが、これの母のようにはうまく読みとれない。
 伊吹は困りきった祖父をみて、にっこりと笑った。何か通じないことがあったとしても、伊吹はかんしゃくを起こすということがない。この邪気のない笑顔をみていると、里の誰しもが難しい顔をしてはいられなくなることを王は承知していた。
「そなた、体の調子はもうよいのか?」
 三日も風邪で寝込んだとは思えないすっきりした横顔をみつめながらたずねると、伊吹はうなずいた。ひたいには髪が張りついている。夏を迎えた今頃は、早朝でも少し動けば汗ばむほどだ。ひたいに浮き出た汗も拭わずに蟻の行列を再び注視しはじめた孫を、王は急に抱き上げて、やや乱暴に肩に乗せた。
 突然のことに驚いたように、伊吹は頭にぎゅうとしがみついてきた。いとこの生玉姫なら、肩に乗せれば大はしゃぎする。まるで山の上から国見をしているみたい、空に手が届くかもしれないと、無邪気に笑うのだ。
 しかし、伊吹の笑い声は一度も聞いたことがない。泣くときも、笑うときも、伊吹はただしじまの中におり、それを不満にも思わないのが哀れだった。
 生まれつきの障りだろうというのが周囲の人々の見解であり、それでもさとく穏やかな伊吹の気性は愛すべきものとして見守られてはいる。
「そなたに見せたいものがあったのだ。顔を貸せ」
 垣根の向こうにつないでいた黒馬に伊吹を乗せると、戸惑ったように揺れていた瞳が輝いた。
「そなたはわしの肩より馬の背が好きか」
 大きくうなずく孫の頭をなでながら、岩長王はこっそりとため息をはいた。
 声をあげられないということは、しぜんと忘れ去られるということでもある。伊吹のいとこにあたる三つ年上の姫は、じつにやんちゃに館じゅうをはねまわる。人々は姫に気を取られ、しばしば伊吹のことをあとまわしにしてしまうのだった。
 王は襲で伊吹の小さな体を包むと、手綱をあやつりたちまちに黒馬を風のように走らせた。王の巨体を支えられるのは国広しといえども、この明星だけだろう。
 夏の香りが混じった風が頬をなでていく。
馬のたてがみにしがみついていた伊吹は、ふと顔を上げて見えたものに驚いたように、体をひねって王をみつめた。
 「や、ち、ま、た」と動いた唇に、王はうなずいてみせた。道がいくつにも分かれる辻は、国の境目でもあった。ひときわ広く整えられた道は、はるか遠くまほろばへと続く貢ぎ物が通る道だ。馬足をとめて、王はたずねた。
「まほろばにいたときのことを覚えているか」
 すると、伊吹は自信がなさそうに首を傾げた。ややあって、振り向いた顔は嬉しそうに笑んでいた。「あ、り」と動いた唇をみて王はこらえきれずに笑いだした。
「どこでもそなたは変わらんな」
 目をまんまるに大きくした伊吹は、それでも体に響くような笑い声を聞くと楽しげに目を細めた。
「さあ、寄り道をすると朝飯に間に合わぬ。そなたを案内したいのはこちらの道だ」
 明星の鼻先を木々の茂る細く暗い道に向けて、揚々と岩長王は言った。道とはいえど、ほとんど誰も通らないけもの道だった。木の枝を払い、崩れてでこぼこになったところをまたぎながら進んできたところで、きゅうに視界がひらけて青空が広がった。遠くには青く美しい山々が見える。
 明星のひづめが、やわらかな草のしとねにじゅう、と沈んだ。馬上からおりると、足跡がくっきりとついて水がしみだしてくる。そこは、広々としたすばらしい土地なのだった。
「どうだ、こんな場所を見たことがあるか」
 かがみこんで顔をのぞき込むと、伊吹は頬を赤くして、目を輝かせていた。
「そうか、そうか。気に入ったか」
 伊吹は足跡をつけるのに夢中になったようで、ゆっくりと歩きだした。
「ここには古くから住まう神がいらっしゃる。ゆえに耕せぬのだ。すぐそばには水源もある。どうにかして神のゆるしを得て、ここを田にしたいものだと思っておるのだ」
 大勢の郷びとをかり出して水を引き、あぜ道をつくる。田をおこせば豊かな実りが得られるだろう。あのけもの道を整備し、近くに村をたてたいと、常々考えていたのだ。
 「ほしいか」耳の奥に、色あせない巫女の声がよみがえった。岩長王は幼い頃、祖母にここを教えられたのだった。彼女は一族を導く大巫女であり、王にとっては師でもあった。多くのことを知り、動じない心で皆の尊敬を集めていた祖母を思うと、身が縮んでいきそうな不安にかられるときがある。
 岩姫という指導者を失ってからまもなく、まほろばでは大王の御座を奪い合う戦がおこった。その動乱のさなかに生まれた伊吹は、母とわずかな供とともに、遠く日向に逃れてきたのだった。
 ふと、遊びやめて振り返った伊吹は、王が驚くくらいの真剣な顔をしていた。唇がこう動いた。

「ほ、し、い、か」

 奇妙な寒気を感じて、王は目をみはった。
孫が時々何かをその身に降ろすことを、王は知っていた。だからこそ、この湿地を見せようと思ったのか。いや、伊吹がただ喜ぶところを見たかったのか。
「ほしい」
 王ははっきりと告げた。すると、伊吹はうなずいて、片頬だけをゆがめるようにして笑った。
 それは、たしかに五年前に亡くなった一族の大巫女、岩姫の笑みだったのだ。
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