「ルーンったら、せっかちね」
 重たい扉を閉めたあと、フィリエルはじろりとルーンをにらんだ。
 外に比べると、部屋の中はほっこりとあたたかい。
「生まれたての赤ちゃんのお世話、少しはしたかったのに」
「きみがいたら、おばさんがゆっくり休めないだろ」
 外套を脱いだフィリエルは、ルーンの背中に呼びかけた。
「ねえ、だんなさま」
 動きを止めたルーンは、固い声で聞き返した。
「ふざけてるの」
「ふざけてなんかいないわ。ルーン、あなたって、あたしをどうするつもりなの?」
「どうって・・・・・・」
 じれたフィリエルは、椅子に腰かけてブーツを脱いでいる彼の背中を、こぶしでかるく小突いた。
「あたしのこと、恋人にしたいの、奥さんにしたいの、母親にしたいの」
「待って、質問の意味が分からない」
 ルーンの声はうわずっていた。
「きみには役目があって、ぼくにもするべきことがある。だから、世間一般の・・・・・・その、ええと、ふ、夫婦のようには過ごせないかもしれない。それは、前にも話しあったよね」
「そういうことじゃなくて」
 フィリエルは身をかわそうとするルーンの態度が気にくわなくて、彼の両肩をつかんでぐっとその顔をのぞきこんだ。
「キスをしたいの、したくないの?」
 ルーンはむっとしたようだった。無愛想な表情は、とりつくしまもないものだ。
「したくない」
 つんと横を向いたルーンは、鼻をならした。
「キスをちらつかせれば、ぼくが折れると思うのは見当違いだよ、フィリエル。ぼくらは、もっと話し合うべきだと思う。なのにきみは、ぼくをさけてばかりだね」
 言い返すこともできず、フィリエルは唇をかんだ。
「時間はたくさんあったはずだけど。肝心なことはひとつも話してない」
 そのとおりだ。
 ルーンはひもでくくられた手紙の束でフィリエルの手をつついた。
(いつの間に!)
 これは今もっともフィリエルが見たくないもので、押し入れの奥の奥にしまいこんでいたはずのものだった。
「ルーン、あたしの下着入れをあさったのね」
「人聞きの悪いことを言わないでくれる。はみ出て落ちてたんだから。おそまつな隠し方だよ」
 振り返ったルーンは、ほほをひくつかせた。
「この手紙の中身。読まないでも、わかる」
「なら、おいておきましょ」
「忘れてはいないと思うけど、きみには役目がある。ここでは果たせない役目が」
 ルーンの目をまっすぐにみつめると、彼はため息をはいた。
「ねえ、フィリエル。きみこそ、どうしたいの?」
 ルーンはささやいた。
「もうじき春になる。そうしたら、きっと手紙じゃなくて使者がくるよ」
 二人きりの塔での暮らしは、もうすぐ終わる。それははじめからわかっていたことだ。
 冬のセラフィールドは外界からとり残されたように静かで、平穏だった。今までの何もかもが遠くに感じられた。それが心地よかった。
 ここにいれば、ただのフィリエルでいられる。ルーンと一緒に、とりとめのない話をしながら、笑いながら、時々けんかもしながら過ごす毎日は、夢見ていたよりもずっとずっと、楽しかった。
(ルーンがいればいいと思える)
 けれど、もうすぐ春がくる。雪は溶け、眠った木々は芽吹き始めるだろう。
(春が来ないでほしいと、こんなに願ったことはないわ)
 気まずい静けさが部屋にみちた。こうしたとき、フィリエルはたいていルーンのそばから退散するようにしていたが、今日こそは逃げられそうになかった。
 心配そうなまなざしを見つめ返すと、胸が鳴る。真正面から彼をみつめるのは、とても久しぶりのような気がした。
「ルーン」
 手紙の束を胸に抱きしめたフィリエルは、一歩踏み出して、彼の肩に顔をうずめた。それはずいぶん勇気がいることだった。言葉ではなく、態度で好意をしめすのは、気恥ずかしいことだ。
「昔へは戻れないね」
 ルーンはそっと腕をまわし、フィリエルを抱きしめた。
「やっぱり・・・・・・きみにどうしてもキスしたい」
 うながされて顔を上げると、あたたかな息が通った。ルーンの瞳はただまっすぐにフィリエルだけをうつしている。ふと、今までどれだけの時間をむだに過ごしたのかに気づいて、思わずフィリエルはため息をもらした。
 口づけはていねいで、息切れがするほど執拗だった。
「ずっとこうしていられたらいい。きみと二人きりでいられたら。ほかには何もいらない」
 髪をなでる手が、頬に添えられた。
「そう思ってた。でも、お産の手伝いに出かけていったきみを待ってる間、色々考えたんだ。ちっとも眠れなかったよ。ぼくらは色んな未来を望めるのに、もしかしたら、ずいぶんもったいない時間の使い方をしてきたのかもしれないって」
 ルーンはまじめな顔でつぶやいた。
「きみを恋人にして、奥さんにして、その、いつかはきみが母親になったところも見てみたいと、想像するのは楽しかったよ。夢をみているみたいで」
 フィリエルはいくらか腹を立てて言った。
「現実にしようとは思わないの」
「……わかった、わかったよ。そうしよう」
 いささか情緒にかける同意だった。
 ささやくようなかすれ声で、ルーンは言った。
「もっとこっちにおいでよ」
 煙った水晶のような瞳が揺れている。フィリエルを射抜く真剣なまなざしは、熱を帯びて見えた。
「ユーナ」
 どんな詩的な求愛よりも胸に刺さる、必殺の一撃だ。
 フィリエルは手紙の束を足下に落としたのに気づいたが、知らぬふりをした。いつか、封を切らなければいけないということは、わかっている。待つ人や役目があるということも。
 けれど、今だけは。
 この世には二人しかいないという顔をして、冬ごもりの寝床にもぐりこんでいたかった。
  

 

 

 

 
 雪のちらつく早朝。
 外套をまとい厚ぼったいフードを目深にかぶったルーンは、足早に小道を下りおりた。
 やぶの茂った見通しの悪い曲がり道をぬけると、ふもとの村にでる。
 もうすぐ雪はやむだろう。
 吐く息は白い。
 たちこめた雲のすきまから、日の光が射している。溶け残ってかたく凍った地面も、帰る頃にはぬかるみに変わっているかもしれない。
 昨晩は一睡もできなかった。へんに落ち着かなくて、ひとりきりの部屋が寒々しく思えて。
 無事に大仕事がすんだのかどうか、気になってたまらなかった。
 まだ眠ったように静かな村の道を抜け、くもった窓から灯りがもれる一件のちいさな家にたどりついた。こぶしに握った手は、冷え切っていた。たたこうとする前に、扉が開いた。
「まあ、あなたでしたか」
 小柄な女性に会釈をすると、ルーンは挨拶をするのももどかしく、口早に言った。
「どうですか」
「母子ともに健康ですよ。いくらか難しいお産だったけれど」
「フィリエルは、どうしています」
「休んでいます。よっぽど疲れたんでしょうね」
 ほっとして息を吐き出す。あたたかな家に招かれると、フードをとった。質素な食卓につっぷして眠る人を、ルーンは見下ろしたのだった。
「助かりましたよ。女手があると、なにかと心強いものですもの」
 ウールの上掛けを肩にかけてもらったフィリエルは、穏やかに寝息をたてている。起こしてせき立てるのも気が引けた。昨日の朝から彼女は付きっきりでお産につきあっていたのだ。年の近い若い産婦をフィリエルはとても気にかけて、臨月にはいると毎日のようにこの家を訪ねていたのだった。
「・・・・・・おたくも、きっともうすぐね」
 目尻のしわが笑うといっそう深くなる。ルーンはぎこちなく笑い返した。
 もうすぐ。何がもうすぐなのだろうと考えて、その意味に思い当たったとき、ルーンは内心うろたえて、振る舞われたお茶をこぼしてしまった。
「まあまあ、大丈夫?」
「すみません」
 身じろぎをしたフィリエルは、ゆっくりと顔を上げて、目をぱちぱちさせた。
「・・・・・・おばさん、赤ちゃんは?」
「眠ってるわよ。フィリエル、さあ、だんなさまが迎えに来てくれたわよ」
「だんなさま・・・・・・」
 ぽつんとつぶやいたフィリエルと、目があった。ルーンはとっさに顔を背けると、彼女の外套をとってきて腕にかけた。
「そろそろおいとまします」
 腕を引っ張り立たせると、フィリエルは不満そうに頬をふくらませた。
「赤ちゃんの顔を見てからいきたいわ。ねえ、ルーンものぞかせてもらいなさいよ」
「ぼくは、いい」
 夫でもないのに、産後の女性に近づくのはためらわれた。
「おいで、うちに帰ろう」
 

 

 

 

 
 頼りになると思ったことは一度もない。
 実の父だろうがなんだろうが、あんなやつ、絶対に認めたくない。
 殴られても蹴られても、向かっていく気持ちだけはなくしたことがなかった。それを失ったが最後、自分というものはこっぱみじんに砕け散り、あの男の命令を諾々と聞く操り人形にまでおちてしまうことだろう。

「わからないだろうね」
 ばかにするように、あいつは言った。
「この大役を、できることならわたしが仰せつかりたいものだよ。深行がうらやましいね」
 よく言う。どの口がそんな言葉を吐けるのだろう?
 今まで忘れ去っていた息子のことを呼び寄せて、さえない女子の下僕になれと言ってのける顔つきは、この上なく真剣だった。
「あんな女、殺してやる」
「深行、取り消しなさい」
 泉水子のこととなると、たやすく顔色を変えるあの男を、少し滑稽だと思った。腹立ちまぎれに言いたいことをぶちまけてやったことを、後悔はしていない。
 右肩をこっぴどく痛めつけられ、痛む頬を床にぎりぎり押しつけられたとき、気が遠くなりそうだった。深行は踏みとどまってのどがやけるほどの大声で叫んだ。
「殺してやる!」
「やってごらん。できるのならね」
 失笑が返ってくるだけだ。悔しさで頭がいっぱいになる。その反面、冷静な自分がどこかであざわらっている。

 殺せもしない奴がそんなことを言う。
 何を期待しているんだ?
 この男にとって、おまえなんてただの間に合わせ。
 ちょうどいいのがいたから、空白にあてがうというだけの存在なんだ。

 情けなんてない。親しみもない。
 憎まれているほうがまだましだ。それだけの執着すら、あの男は息子に対して持ち合わせていないだろう。
 いっさいの期待を捨て去ったと思っていたはずなのに、いまだにむなしさがこみあげて、鼻をつんとさした。女々しいと思った。こんな気持ちは髪の毛一筋ものこさず、捨てさらなくてはこっちがつぶれてしまう。
(・・・・・・今はかなわない。けど、いつかは)
 あの男は、山だ。遠くから眺めてみると、やさしげでゆったりと薄雲などはべらせて、さも取り付きやすそうに見える。しかし、一歩足を踏み入れると途端に厳しく荒れた山肌をのぞかせ、踏破しようとする者を迷わせる。花園をうちに秘めたかのような顔をして、じっさいは冷たく凍った枯れ山と、吹雪をつれてくる灰色の空をつねにまとわせたような男なのだ。
 どこまでもよそよそしい自分勝手な男。それなのに、鈴原泉水子のこととなると、どうしてあれほど御身大事に扱えるのだろう。命すら捧げてもかまわないという忠信を、注ぐほどの価値があの子にあるのか? まったくもって、深行には理解できない。
 すべてを人任せにして、何一つ自分で考えようとしない。困難は避けるためにあるとでも思っているような、気弱げな顔。
 あんな女は、絶対に、どうやったって好きにはなれない。

「相楽くん、ねえ、聞いてる」
 窓の外をぼんやりと眺めていると、ふいに視界がかげった。
 頬をあからめた小柄な女子に、深行は笑いかけた。
「あ、ごめん。ぼんやりしてた」
「鈴原さんのことだけど」
 ひそめた声で、いい話題でないことはすぐにわかった。
 深行は内心うんざりした。
 気に入られたい、好きになって欲しい。うぬぼれでもなく、そういうときの女の子の顔は、いやというほど知っている。
「鈴原さんってね・・・・・・」
 泉水子という子が、いかにどんくさいか。
 いかにさえないか。いかに時代遅れか。いかに他力本願か。
 聞いてもいないのに、泉水子が弁当をひっくり返して泣きべそをかいていたことまで教えてくれた。
(ほんと、どんくさいやつ)
 深行は思わず吹きだした。
 人を利用するとか、陥れるとか、そういったこととは縁遠い人間だということだけはよくわかった。でも、それだって、わざわざ教えてもらわずとも知っていることだ。
(そんなこと、とっくの昔に知ってる)
 泣きべそをかいた顔をみると、もっといじめてやりたくなった。
 もっと泣け、泣け。泣けば泣くほど、追いつめてやりたくなる。
 思うさま泣ける泉水子が憎らしかった。べそべそしていれば、助けの手が伸びて、よしよしとあやしてくれる人たちがいた泉水子が、心底うらやましくて、ねたましくて。
 深行はほほに手を当てた。切れた頬と痛めつけられた腕を思うと、自分の弱さに吐き気がする。
(あいつは、無頓着だ。どんなに自分が守られているか、気づいてもいない)
「鈴原さんって、サイアクでしょ」
 無知は罪だ。
 こうして泉水子の悪口を言って、深行が賛同するとはかぎらないのに。誰かをだしにして仲良くなる、そんな関係は薄っぺらくていやしくて、価値などみつけられようはずがない。
泉水子から迷惑を被っている深行だからこそ、泉水子を思う存分いじめることができるのだ。
 ひとしきり笑ってから、深行は彼女をみつめてとびきりの笑顔を見せた。
「そうだね、サイアク」
 あの男から盗んだもの。人をそらさぬ笑みは、どこでもたいそう役に立った。
 侮蔑と嘲笑がひそんでいることに、誰も気づかない。
 泉水子は、たしかに特別だ。
 あの男がそう言うからだけではない。
 深行くん!
 そう呼ばれるたび、胸がかきむしられるようにいらだちがこみ上げてくる。そのくせ、無視されるとどうにかして泣き顔をみたいと思ってしまう。
(まじで、サイアクだ)
 深行はクラスメイトに愛想良く手をふると、また窓の外を眺めはじめた。
 

 

 

 

 
 蛇神はそれから姿を現すことはなく、岩長王はその野を耕し、田とした。すぐそばの小高い丘に吾多という村ができ、土地神をまつった社は数年もたたないうちに大きく建て替えられた。
 秋の実りを祝う祭りは鎮守の森のそばの吾田野で盛大に催されるようになった。
 岩長王は吾田の村に長をおこうとしなかった。王は頻繁に孫の伊吹をともなって村を訪れたが、かの人が思う以上に伊吹は吾多野で過ごすことを好んだのだった。
「振りが甘い」
 やかましく蝉が鳴く鎮守の森のそばで、木刀をふりあげた青田彦は声を上げた。
「もうおしまいですか」
 木刀を取り落とした弟子が手を押さえているのを見て、一瞬だけ厳しい顔がゆがんだが、すぐに唇を引き結び、青田彦は続けた。
「お立ちなさい、若君。おれはほかの者のように甘い顔はしませんよ。そうでなければ、剣の師匠を仰せつかったのが無駄になるというものです」
「剣などいつ振るう?」
 ふてくされたような声で伊吹は言った。師に対する態度ではない。
「おじいが日向を統べてから戦は一度も起こっていないのだろう」
 うんざりした顔つきで伊吹は言った。今までこの上ない遊び相手だった青田彦が、伊吹が十歳になった年のはじめに、見たことのないこわい顔で木刀を手渡した日のことが忘れられないのだろう。
 半年以上もたつのにいっこうに上達しないのも、いやいや手ほどきをうけているからに違いはなかった。
 伊吹の供が一族の中でもかなり腕の立つ使い手であることは、国びとも意外に思うだろう。いつもの彼は穏やかに笑んでいて、声を荒くすることなどないのだ。
「振るうときなど来ない方がいいのです。だからといって備えなくてもよいということにはなりませんよ。若君も十になられた。もう子どもではありません。立派な将はよい戦士でもあるのです」
 青田彦は木刀を腕にたばさみ、息を吐いた。
「わたしが将に?」
 伊吹はつぶやいた。
「ありえないよ。稽古などいらない。わたしには素質がないと言われた。やるだけ無駄だと」
 無言で歩み寄る青田彦を、伊吹はにらみ上げた。
「・・・・・・戦ごとなどきらいだ」
「あなたの叔父上がおっしゃることを、真に受けないように。すべて自分の頭で考えるのです。あなたはほんとうに素質がないのでしょうか」
 日に焼けた手を差し出して、青田彦は伊吹を立たせた。そのまま、伊吹のきゃしゃな腕をひねりあげ、苦痛にうめく伊吹に厳しく言った。
「いまのあなたには、確かに素質も何もあったものじゃない。自らあきらめてすべてを投げ出す者には、だれがどのように教えても身につかぬということです」
 伊吹は伸び盛りで、これから鍛えるかいが十分にありそうだった。まだ力の使い方も振る舞い方もわかっていないが、あと五年もたてばかなり動きもよくなるだろう。
「ほれ、ごらんなさい。いましめられても、力がなければあらがえないのですよ」
 伊吹はおどろいたように顔をあげた。
「手弱女でも無理強いされるとあれば、悲鳴のひとつもあげるでしょう?」
 その面があっと言う間に朱で染まった。
 青田彦は数歩飛ぶように後ろへ下がった。
 伊吹は木刀を掴み振りあげると、叫びながら大振りをしたのだ。これこそ青田彦の望むところで、内心快く思いながら、荒い太刀すじをかわした。
 岩長王の孫を面と向かってこのように侮る者はそうはいない。青田彦だからこそ、言わねばならないこともあるのだった。
「勝長彦どのが若君を軽んじるのは、あなたをおそれているからです」
「おそれる? なぜ」
「末子が岩長王の名を継ぐことはご存じですね」
 息をきらしながら伊吹はうなずいた。
「おじいの末の子は、勝長叔父だろう」
「はい、今までは。しかし、国長どのは、あなたを息子の一人として迎えようと考えておいでだ。後継者として」
 横に払おうとした木刀がぴたりと止まった
。伊吹は信じられないことを聞いたように、目を見開いた。
「いかなるときも心を乱さぬように」
 払われた木刀は乾いた音を立て、弧をえがき宙を飛んだ。



 岩長王には三人の息子と二人の娘がある。上の二人の息子は家を出て、双子の姉妹はまほろばへ采女として召し抱えられた。
 末子はいずれ長となり、祭祀を引き受けるのがならわしだ。勝長彦はいずれは己が一族を率いることを疑っていなかったが、双子の姉のうちひとりが五年前に日向に戻ってきたことで思惑は大きくはずれ始めたのだった。
「今日をもって、岩長王の末子として、わが娘呼日の子、伊吹を迎える」
 父の口からその言葉を聞いたときには、耳を疑った。なにひとつ知らされず、父が決めた変えようのない事実を、ほかの村長と同様に呆然と聞いていることしかできなかったのだ。
 驚きの後には怒りがわいてきた。それは野分がみさかいなしに吹き荒れるような手のつけられない激しい憤りで、平静な顔など保てようはずがなかった。
「勝長。そなたには伊吹の補佐を頼む」
「・・・・・・理由を、お聞かせください」
 おそらく激しい目でにらみつけているだろう。しかし、それでかまわないと思った。
 あんな子どもに国長がつとまるわけがない。せっかくまとまった国が、また糸がほどけるように分かれてしまうかもしれない。それをめざとく狙っている近隣の国々に付け入る隙を与えることになりかねないではないか。
「まほろばの動きに関わることだ」
 ざわめきが急に静まった。
(またその話か)
 うんざりした気分で勝長彦は言った。
「身内同士で争い、国を乱している者たちがなんだというのです。豊葦原を果てまで統べる力など、大王にはないではありませんか」
 岩長王は静かな目でみつめてきた。その目が幼い頃からどうにも好きになれなかった。愚かな者になんとか教え諭そうとするようなまなざしは、いつまでも己が未熟者であると無言のうちに告げられているようで落ち着かないのだ。
「乱れている。しかし、遠き東の地でおさまるような出来事でもないのだ。まほろばには、剣がある」
 不吉な響きは胸を騒がせる。伝承でしか聞いたことがないが、神代のすさまじい力をひめた大蛇の剣がまほろばの大王のもとにはあり、それは一瞬にして国をひとつ焼き滅ぼせるほどの途方もない力を持つものなのだという。
 剣を振るえるのは限られた者だけだという話だ。かつて風の若子はその身に剣の力を鎮めた。水の乙女の勾玉がそれを助けたというが。
「剣など、あるかなきかのもの。風の若子と水の乙女の御代から百年は経とうという今、一度も剣は現れたことがないのですよ」
「これからも現れず、剣は振るわれることがないと、わしとて信じたい。しかし、岩姫在りし頃に予言された剣たる御子が生まれてはや十年。しかも、その子は鎮めの勾玉も導くものも持たず、おそろしいまでに何も知らぬまま育っている」
 岩長王はどこか痛むかのような沈んだ顔で言った。
「剣の父たる今上は、いずれその子を遠ざけるだろう。いまのまほろばには、剣を鎮めるすべがないのだ。ならば、その子をどこにつかわすか?」
 それはぞっとするような話には違いなかった。彼らが手に負えない者をよそに押しつけるのは、いかにもありえることだった。
「それとて、我らはまほろばにこの上ない恭順をしめしている。伊吹を末子とすることとは話が違います」
 食い下がったのは、黙っているとしじまのなかに飲み込まれそうだったからかもしれない。
「吾多を開墾できたのはあの子の手柄だ。蛇神から許しを得たあの子には、巫の素質がある。そして、いずれ剣を鎮めまつる者として、あの子ほどふさわしい者もいるまい」
「父上は、なにをお考えなのです」
「剣をこの地に迎えるときがくる。それほど遠い日の話ではない。そのときに伊吹はおそらく、大いなる魂鎮めをやりとげるだろう。わしらも変わらねばならん。伊吹一人に担わせるには重すぎる荷だ。神代からの荒ぶる力を、この地に根付かせ和らげようとするならば、それ相応の痛みを引き受けなければ」  

 

 

 

 
 草十郎は海からひときわ強くふきよせた風に、身をなぶられるような心地がした。
 笛を吹きながらふと糸世を見やると、彼女は舞うことだけに心を傾けているようだった。
 湿った風が長い髪を揺らした。草十郎は、笛に気持ちを込めるこめることができず、顔をしかめた。奇妙な衣は彼女のすうっとのばした背中と細い腰、しなやかな両の足をすっかりあらわにしていたのだった。
 まぼろしではない。奇妙な衣を身につけていたとしても、舞はたしかに糸世のものだ。
(糸世)
 草十郎は腕をおろし、手の甲で乱暴に目元をぬぐった。かけるように近づいて、彼女をきつく抱きしめた。糸世は怒った顔で振り返ったが、すぐに驚いたように目をみはった。
「草十郎」
 そう呼ぶ声すらいとおしく、腕の中に取り戻せたことがまだ信じられなくて、草十郎は細い体をかき抱いた。お互いに少し息を乱したまま、ごく近くでみつめあうと、糸世は草十郎の肩におずおずと顔をうめた。
「ありがとう」
 ちいさな声が聞こえた。
「なんのことだ」
「見つけてくれて、ありがとう。あきらめないでいてくれて、うれしいの」
「そんなことか」
 草十郎は笑った。
「糸世をうしなったら、おれはおれでなくなっていたかもしれない。・・・・・・おれでないものになりたいと、そう望んだかもしれない」
「草十郎が、このうえどうなるというの?」
 糸世は人のことをよく朴念仁などと呼べたものだ。
 草十郎はこみあげてきたおかしさをかみ殺した。
「おまえはどうもわかっていないみたいだな」
 どれだけ好きか、言葉では言い表せないほどだ。糸世を思うと、胸が熱くなる。満たされる。
「坂東の男はあきらめがわるいということだ」
 頬を赤らめた糸世に口づけをすると、草十郎はつぶやいた。
「そこいらの男と一緒にするなよ」



 ぼろ布で風よけをつくり、海べりの松の林にたき火の煙が立ったころ。小さな炎のむこうに膝を抱えた糸世の眠そうな顔が見えた。へし折った枝を火の中に放り込むと、草十郎は彼女のそばに腰をおろし、肩を抱き寄せた。うつらうつらしていた糸世は、はっとしたように目をみはった。見つめ合うと、さきにそらしたのは彼女の方だった。
「おれをみないのは、嫌いだからか」
 草十郎はたずねた。寄せては返す波の音が三回は繰り返したあと、ようやく糸世は言った。
「嫌いなはずがないでしょう」
「なら、見ろ」
「・・・・・・あらためて言われると、はずかしいものね」
「まあいいさ」
 草十郎は枯れ枝をくべながら言った。
「おまえの衣をなんとかしないとな。明日は里におりよう。日満を訪ねたら、ひどく驚くだろうな。卒倒するかな」
 口ではそういいながら、べつのことばかり考えてしまう。目のはしにうつる糸世の長い髪と、きゃしゃな手。少し触れるだけではとうてい足りそうにない。
「糸世はどこで暮らしたい」
 夢のようなことを口にしている、草十郎はふとそう思った。
 二人が共にいることをじゃまするものは、もうなかった。権力から、強大な力の及ぶところから離れたところで、穏やかに暮らすことを望んでもいいのだ。
 飢えも渇きも、ひさしく忘れていたような気がする。糸世を探しさまよう間、草十郎はいつのまにか人と神のあわいに立っていたのかもしれなかった。糸世を取り戻したことで、新たな世界が目の前に開けたことを草十郎は知った。今まで見てきたはずの世界が、これほど鮮やかに美しくみえる。それは、きっと糸世がそばにいてくれるからだ。
「どこでも・・・・・・あなたがいれば」
 糸世の消え入りそうな声は、しかし草十郎をひどく満足させたのだった。 

 

 

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りえ

Author:りえ
基礎絵本セラピスト®
妖怪博士(中級)
漢方養生指導士(初級)

養生とは、生命を養うこと。
健康を保ち、その増進につとめること。

絵本セラピーで心をほぐし、ときに妖怪でほんわかし。
漢方の考え方で身体をやしなっていきます。

無理しない、頑張らない「養生」日記です。

古代日本好き。


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シンイ



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