鳥があちこちでさえずり鳴く声がする。
 その下に、静かに流れる川があった。
 懐かしい。どこかで見た覚えがある。
(小白川・・・・・・)
 もしかして、千尋が幼い頃に失われたある川の、かつての姿なのかもしれなかった。
 名も知らない草花がしげり、風に揺れている。虫たちの羽音が聞こえる。流れの中にすむ魚の姿が岩の陰に見え隠れする。
 川面は日差しを照り返してきらめいている。千尋はそっと水の中に手を差し入れた。日の光を照り返したのとは違う、別の輝きを水底にみつけたのだ。
 冷たく凍えるような水にひじまでつかりながら、手を伸ばすが届かない。水をかき回していると、何かにふれた。
 胸が鳴った。それは冷え切った誰かの指先かもしれなかった。
 わずかのためらいのあと、息を止めて川に飛び込むと、千尋は泡立ち逆巻く水のなかに横たわる人をみつけた。

 ハク

 口を開くと、水が流れ込んできた。それでも、少しも苦しくはなかった。

 ハク!

 手を取ると、しなやかな指がほんのすこしだけ動いたような気がした。大きな手だ。やわらかな子どもの手ではない。
 水に乱される髪は、もしかして千尋のものより長いかもしれない。すっきりとしたひたいや頬に幼さはなく、知らない人のようだった。
 目をうっすらとあけたハクは、ふしぎそうに千尋をみつめた。その瞳は川面からのぞいた時に見えた水底の色と、よく似ていた。
「ハク。わたしよ、わかる?」
「夢・・・・・・本当にあきらめが悪いね、わたしは」
 心を込めて千尋は言った。
「あなたに言いたいことがあって、ここにきたの」
 ハクは悲しげに顔を曇らせた。千尋は、ひるみそうになりながらも、思い切って打ち明けた。
「お嫁さんにしてください」
「・・・・・・だれの?」
 ハクは怪訝な顔でたずね返した。
「あなたのほかに、誰かいるの」
「やっぱり、夢だ。そなたがここまでこられるはずがないもの」
 ほっとしたようにハクは笑い、千尋を抱きしめた。強くきつく背に回る腕の確かさが、千尋を泣きたくさせた。
「そなたに打ち明けたかったよ。でも、言えなかった。そなたと同じ年頃の大勢の子どもたちを見て、わたしがどんなに浅ましく身勝手なお願いをしようとしていたか、わかったんだ」
 深いため息がきれいな泡になって揺れた。ハクは、かみしめるようにゆっくりと続けた。
「千尋はどんなものも選びとれる。どんな未来も、望めるんだ。・・・・・・わたしが頼めば、きっと、やさしいそなたはうなずいてくれるだろう。でも、だからこそ願ってはいけないことだと、そう気づいたんだよ」
 肩のあたりに顔をうずめていた千尋は、ハクを見上げた。
「わたしは、嫉妬深い。手に入れれば、二度と離せない。誰かと分け合うこともできない。千尋を縛ってしまうのがこわい」
 背中に腕を回そうとしたのに、抱きしめられているせいでうまくできない。
「ハクがそうしたいなら」
 身をよじりながら、千尋は言った。
 見下ろしてくるハクの目は、怒ったように細められていた。
 千尋のあごを指でついとあげ、ハクは口づけをした。心地よい息吹が流れ込んで、それだけで満たされる気持ちがした。ずっとこうしていたい。水が彼の住みかなら、それもいいと思ったときだった。
「千尋?」
 唇を離すと、ハクは怖れと悲しみがあわさったような、青ざめた顔でうめいた。
「これはうつつのことなのか」
 千尋は早口で言い立てた。
「わたしを、お嫁さんにしてください」
「・・・・・・おろかなことを」
 ハクが手を振ると、水辺の景色はかき消えた。
「そなたは、どうやって暮らすつもりできたの。こんなわたしの連れ合いになるということの意味が、わかっているの? そなたにあげられるものなんて、わたしはなにひとつ持っていないのに」
 ハクの頬には赤みがさしているようだ。さっきよりずっと、いきいきとしてみえる。千尋はまなざしの強さに気圧されるものを感じながら、なんとか笑って見せた。
「あきらめて、あきらめつくして。もう、そのあきらめすらも捨てようと思っていたのに」
「とにかく、あのね。またあえれば、なんとかなると思ったの」
「なんとか」
 顔をひきつらせてハクはうめいた。
「なると・・・・・・?」
 それから、苦笑いをした。
「そなたにはかなわない。わたしが死ぬほどの思いで悩んでいたことを、こうも簡単にいうんだから。いや、もうよそう。そなたがきてくれて、わたしは本当にうれしいんだよ。本当に、本当に」
 どこか見覚えのある野原だった。くもりのない青空に、白い雲が流れている。緑の草原の起伏は、ゆるやかにどこまでも続いている。
 丘のむこうに、ちらりと家らしきものが見える。
「あ、リンさんどうしてるかな。少し前まで一緒にいたのよ。おじいさんも。ねえ、あの人はハクの知り合いなんでしょう?」
 ハクははっきりと顔をしかめた。
「そなたをたきつけたのは、あの人たちだね」
 思い出した。ここは、ハクと別れた、あの丘だ。
 トンネルを越えたところ、ふしぎな町に続く緑の丘に二人は立っていたのだ。
「ねえ、千尋」
 手をつないだまま、ハクは静かに言い出した。
「もうもとの世界には返せないのだよ。そなたが後悔しても」
「後悔するのはハクかもね」
 ハクは目をみはった。
「わたしが?」
「お嫁さんって、何をすればいいのかわからないんだもの。うまくできるとも思えないし・・・・・・食事のしたく? 洗濯? 掃除?」
 顔をうつむけたハクは、どうやら笑いをこらえているようだった。
「なに? 変なことを言った?」
 千尋を見つめる目は、ひどくやさしかった。
「ぜんぶ教えてあげる」
 きゅうにまごついて、千尋は顔を背けた。
「そういえば、どうしてハクはその……大きくなったの?」
「ずいぶん前からこの姿だよ。そなたには童に見えていたようだけど」
 顔を近づけて、ハクはほほえんだ。
「なぜ目をそらすの。お嫁さんになろうという人が」
「そらしてない」
「いいや、そらしているよ」
「あのときの姿に、戻ってくれない」
 ハクはからかうように首を傾げた。
「どうして?」
「ハクはかわいかったし、とっても」
「かわいい、か。これでも男神のはしくれだよ」
 ほほえみに顔が熱くなる。千尋はあとずさりした。
「そなたに頭をなでられて、どれだけわたしが情けない思いをしたか」
「わあ! ご、ごめんなさい!」
 ハクは吹きだした。
「この姿にも、はやく慣れておくれ。そなたのひざの上であやされるのもいいけれどね。これからは、いくらか骨折りをしなければならないだろうから」
「骨、折り?」
「どこの世界だろうと、住みなすにはそれ相応のしたくがいる。そなたを娶るなら、野のもののようにさすらうわけにもいかないだろう」
 いくらかすまなそうに、ハクは千尋を見つめた。もう引き返す道はないのだと。本当によいのかと、その目は語っているようだった。
 千尋はほほえんだ。後悔なんて、していない。
 選び、選ばれるのがこの人なら、行く先がどんな道でもかまわない。
 顔を見合わせると、ハクは清流に洗われた宝石のような瞳を揺らして、笑った。物思いやわずらわしさを振り捨てた、聞いていて胸がすく気持ちのよい声だった。
 光は、この人の瞳の中にある。
 千尋はうれしくなって、同じように声を上げて笑った。
「行こう、ハク」
 ハクは目を細め、まばゆそうに天を見上げてうなずいた。
「うん。行こう」
 つないだ手をそのままに、二人は野の草を踏みしめて走り出した。
 笑い声を、吹く風がさらっていく。
 じきに、青空をぬうように稚いりゅうが天をめざして駆けあがっていった。

 それを見守るものはなく、さりとてとがめるものもいないのだった。



 橋の中ほどから川を眺めていた水島は、とつとつと、道を駆けてくる足音に気づいた。
 ゆっくりと目をやると、輝く夕日のなか、毛皮をあかがね色に染めた狐が一匹いるのが見て取れた。
「よう、女狐」
 うなるような小声で、水島は言い掛けた。ふさふさの尾をゆらして、狐は首を高くあげた。
「いつもはおれの顔を見るなり逃げるくせに」
 水島は黒いネクタイをゆるめて、川面をみつめた。
「ずいぶん、経ったんだな」
 朱塗りの欄干にきつねが飛び乗った。
「あいつが行っちまったのは、昨日のことみたいに思えるのに」
 水島は鬱陶しそうに顔を背け、息を吐いた。
「あいつの母さん、ようやく元気になってきたんだぞ、そんなこと言えるか。・・・・・・あのな、人間ってのは、おまえらよりずっと繊細なもんなんだよ。わかるか?」
 声を荒くして、水島は狐をにらんだ。
「・・・・・・死んだら、もうおしまいだ。また会えるなんて、そんなの慰めにもならない」
 水島はつぶやいた。
「どんな言葉だって、伝わらない。おれだって、たった一言でいい。あいつの口から聞きたかったのに」
 狐は一声鳴いた。
 その声は高く、夕暮れの空を裂くように響いた。
 空を見上げた水島は、目を見張った。
 一筋の細い雲が、西の空にみえる。飛行機雲かと思ったが、そうではなかった。不自然な曲線を描き、やがてそれが、ややぶかっこうなハートだとわかると、水島は鼻を鳴らした。
「毎年、よくやる・・・・・・」
 空に描かれたハートは、じきに風に流され消えてしまう。
 ある決まった日時に、空に浮かぶ不思議な雲。遠くて近いあちらの世界からの便りだ。
 三年目の今日、空に描かれたのはそれだけではなかった。
 よたよたと、みみずのようにジグザグに空をゆく細い雲がある。
 まっすぐな雲のそばにあると、よけいにその未熟な線がこっけいに思えた。
「なあ、女狐。あの雲は」
 狐は猫が甘えるときのようにのどを鳴らした。
「ふうん、初耳。うるせ、なんだよ。いまさらショックを受けるかって」
 水島はふきげんに言ったあと、吹きだした。
「へたくそだな。あーあ、あれじゃ、ハートじゃなくてチクワだよ」
 笑い出すともう止まらず、水島は体をおるようにして笑った。
「おーい、ちび」
 めいっぱい息を吸い込んで、水島は大声をあげた。
「つぎは、もっとましなのを見せろよ」
 叫び声は空に吸い込まれ、やがて濃い藍色のにじみ始めた空に消えていった。


(終) 

 

 

 

 
 ちょうちんを捧げ持った手をさげて、小柄な老人は手招きした。
 頭を下げてから、何かものを言うひまもなかった。
 老人はひょいひょいと石畳の道をそれ、小道をぬけていく。千尋はリンと顔を見合わせた。神妙な表情をした姉貴分をまえにして、するべきことは明らかだった。
「あの、おじいさん」
 千尋は半分駆け足になりながら、ようやく追いついた。大股で歩いているわけでもないのに、老人はすべるように道をすすんでいくのだ。
「待ってください。ハクは、ここにいるんでしょうか」
「近くまでは行ける。案内しよう」
 重々しい声でそう言ったきり、あとはただもくもくと道を行くばかりだ。
(ここはどこなの)
 めまいににた感覚がおこった。風が吹いているわけでもないのに、あたりの木々はざわざわと揺らめき、色を変えているように見えた。新緑のさざめき、晩夏のくすんだ濃い緑。紅葉に寒々とした雪の白。
「千、じいさんの背中だけみとけ。よそみしないで歩くんだよ」
 気遣うような声にはっとした。
「リンさん」
「こわいか? 引き返すなら今のうちだよ」
 歩みを止めないまま、千尋はふるえる手を胸の前で握りあわせた。
 こわいけれど、前に進むしかない。
 かけだした千尋の背後で、あきれたようなリンの声がした。
「あーあ。・・・・・・転ぶなよ」

 ついたところは、見渡す限りの野っ原だった。どこからか、水の流れる音が聞こえてくる。けれど、せせらぎを抱くような川はみつけられなかった。足下に、ひしゃげた空き缶がひとつ落ちている。
 灰色の雲が幾重にも重なり合ったような暗い空に、押しつぶされそうな陰気な場所だった。立ち尽くしているだけで息苦しくなってくる。
「リンさん? おじいさん?」
 見回してみても、だれもいない。
 はっとした千尋は、大声で叫んだ。
「ハク!」
 雲が声を吸い取ったかのように、千尋の叫びは広がらずに消えてしまった。
「千尋よ。どこにいるの」
 間に合わなかったのだろうか。ハクはもうとっくに、消えてしまったのだろうか?
 ふと、野原の向こうに小さく輝くものがあることに気づいた。ほんのちいさなきらめきだった。けれど、この世界で唯一千尋を招いてくれるもののように思えた。
 かけだそうとしたが、やけに足が重たい。足だけではない。腕も振り上げるのがやっとのことだ。まばたきひとつするのも、呼吸すらままならない。
「小さきものよ。よくここまできた」
 どこからか声が聞こえてきた。倒れ込んだ千尋は、なんとか目をあけてその人をみつめようとした。ぼやける視界ははっきりしない。
(小さきもの・・・・・・わたしのこと?)
「その通り。人の世界の理から、はずれたところにおぬしはいる。最後にもう一度だけ問おう。ここより先にゆけば、おぬしは今までのすべてを失うのだよ」
 苦しい呼吸の下から、千尋は言った。
「ハクは・・・・・・どこ」
「あの光のもとにいる」
 しわがれた声は、やさしくさとした。
「お戻り。おぬしの体は、ここより先に進めないのだ。行くのなら、体を捨てねばならん。あの光と同じようなものになるしか、そばにゆく方法はないのだ」
 ハクは、このことを知っていたのだ。
 彼は、願うだろう。千尋が人の世界で幸せになることを。
 彼は、望まないだろう。千尋が体を捨て去って、彼のそばにいくことを。
 頬に流れた涙が、ひどく熱く感じられた。体が言うことをきかない。息をすることすらままならないのに、ふしぎと怖くはなかった。
(かまわない)
 引き返したら、ずっと後悔する。それだけは確かだった。
 伝えたい。それだけでいい。
 名を呼んだ。彼の真名を。
 するといっぺんに体はかるくなった。千尋は重たい荷物を放り捨てるように身じろぎをすると、光のさすほうに駆けだした。
 

 

 

 

 
 家を出たのは夕暮れの頃だった。
 稲荷の社が見えてくると、千尋の足はぬいとめられたように動かなくなってしまった。水島に声をかけるのはやはり無神経だろう。
「なにしてんの」
 明るい声にはっとして横を向くと、赤い鳥居のしたに帽子を目深にかぶったすらりとした人がいる。
「リンさん?」
 男物をまとっているが、帽子のつばをあげて笑ってみせる顔は、千尋のよく知る人のものだった。
「その格好・・・・・・」
「ハクんとこに行くんだろ。あれには内緒で」
 あれ、というときニヤリとしてみせるので、千尋は落ち着かなくなった。
「あいつもかわいそうだよなあ。いとしの千に、はやくもふられちゃったのか。千、考え直すんなら今のうちだかんな。ハクの嫁になるより、この神社のお内儀さんになったほうが、ぜったいいいよ」
「もう決めたの」
 リンはおかしそうに肩を揺らした。
「ぜんぶ捨てて、ハクとどこに行く? その前にさ、あの堅物りゅうが、おまえを蛇の道に引っ張り込むようなまねをすると思うか? 今のおまえは、さぞやあいつを惑わせるだろうな。やあ、おっかしいな。あいつ、どんなツラしておまえを手放したんだか」
 ハクは、きっと、望まない。やさしいりゅうは、千尋の幸せを一番にねがっている。千尋が何を望んでいるのか、耳をかそうともしないで、ただ自分勝手に消えゆこうとしている。
「行きたいの。もう一度だけ、会えるのなら、会って、頼む」
「どう言うんだ」
「とにかく、言うことがあるの」
 リンは目をぱちくりしたが、一つ大きくうなずいた。
「じゃ、おれもついてくよ。はいはい、黙って見てますよ、このとおり、口もつぐんでね。さあ、そうとなったら早く行こう。くたばりかけてるりゅうを、拝みに行こうぜ」
 弾んだ声でリンは言った。



 電車に揺られ、駅に着いたのは夕暮れの頃だった。
 弾むような足取りのリンとはちがい、千尋は足を一歩前に進めるのにもだいぶ勇気を振り絞らなければならなかった。
 失うのが怖い。拒まれるのも、怖かった。
 幼い頃、不思議な世界で千尋を助けてくれた少年に、今思うと千尋は淡く恋心を抱いていたのかもしれない。つないだ手は千尋よりずっと大きかった。頼れるお兄さんのようで、なだめる声を聞いていると心が静まった。
 再会したときのハクは、見かけはあのときと同じだったけれど、千尋をさんざんどきどきさせて、自分だけ平気な顔をしていた。それがくやしくて、恥ずかしくて。
 会いに来て、真心を包み隠さず打ち明けてくれるのが、うれしかった。
(恋しい)
 胸にぴったりはまるのは、そんな気持ちだ。うっすら色づいた桜の花びらのように、風が吹けばすぐ散ってしまいそうなささやかなものだけれど、つもりつもれば、すべてを埋め尽くすように一つの思いでいっぱいになってしまう。
(伝えなくちゃ。もう一度)
 小さな社をくぐった千尋は、石畳の上を迷わずにすすんだ。
 祭りの夜でもないのに、提灯のあかりが一つきり、ぼうっと灯った。
 風が吹き、細い道を駆け抜けていった。木々がざわめく。
 乱れた髪を払いながら、千尋は細めた目をおおきくみはった。
 十歩ほどむこうに立ち尽くしたその人を、千尋は息をのんで見つめたのだった。
 

 

 

 

 
 繰り返し、繰り返し考えた。
 ハクを救う手だてがあるのなら、なんとかしたい。
 けれど、すべてを捨てられるか。そう聞かれて千尋はたしかに迷ってしまったのだ。
 これまでのすべてを捨てて、ハクのもとへ行く。そのあとどうなるのだろうか。
 きっと、いまのままではいられない。外国へ旅行に行くのとはちがうのだ。くわしいガイドなんてない。心を決めて踏み出せば、もう戻ってはこられない。
 そんな選択をして、ハクが喜ぶとも思えなかった。
(あの人は、きっと悲しい顔をする)
 千尋とハクはあまりにへだてられている。
 神と、人。
 図書館でみつけた本の中には、古今東西、神と結ばれる娘の話がたくさんでてくる。娘たちは神に見初められ、求婚をうける。
 彼女たちは悩まなかったのだろうか。その手を取って、ほほえみを交わすことに、少しもためらいを抱かなかったのだろうか。
 牛、馬、蛇。さまざまな姿をした神々が、鮮やかな挿絵にえがかれている。
 ある昔話では、人に化身した水神が、娘を訪ねてやってくる。夜闇をくぐりぬけて。
 娘は寝床にやってきた男の求婚を受けるのだ。
(ハク)
 彼は千尋のもとに来てくれた。でも、求婚はしてくれなかった。
 辛そうな横顔を思い出すと、胸が痛んだ。
(ハクにいやがられても。今までの何もかもを捨てることになっても)
 昔と現代ではちがう。彼の元に千尋が押し掛けていって、悪いことがあるだろうか。

「千尋、ねえ千尋!」
 リビングで本を読んでいるうちに、すこし眠ってしまったようだった。揺り起こされて顔を上げると、母がため息まじりに言った。
「ベッドで寝たら」
「ねえ、お母さん」
 千尋は開かれたままになった本の挿し絵を見つめながらたずねた。
 人に姿を変えて、娘を訪ねるりゅう。
(ハクが望んでくれたなら、そうしたら、わたしは)
「好きな人がいるの」
 口にしたとたん、その言葉がしっかりと千尋をとらえた。
 そうだ。好きなんだ。
 キャベツをひと玉手にとって、母は笑った。
「ふうん」
「その人がね、遠くに行ってしまうかもしれないの」
 背を向けて行ってしまった人。一人で消えていこうとしているハクは、今どこにいるのだろう。
「もう会えなくなるかもしれない。わたしね、来るなと言われたの。絶対に連れていけないからって。でも、一緒に行きたいの」
 母はそばにきて、千尋の肩に手をおいた。
「水島君のことじゃないんだね?」
 誰と聞かれても、言えないのがつらかった。ハクにはこの世界で身分を証明するものがない。
「千尋を大事に思うから、きっとそう言ったんだよ。千尋はまだ高校生だしね」
「お母さん」
「好きだからこそ、離れるということもあるんだよ。千尋が大切だから、連れて行かないと言ったのよ」
「二度と会えなくても?」
 死で分かたれるのと同じことだ。やっと会えたのに。
 会えればうれしいと、無邪気に思っていた子どもの頃。もとの世界に戻ることだけしか考えていなかった。
 でも今は。
 千尋は子どもではないし、今度こそ、さいごのあいさつだということも感じ取れた。
(会えただけじゃ、いやなんだ。ずっと、ずっと、そばにいたい)
 そばにいて、川のせせらぎのように心地いい声をずっと聞いていたい。すんだ目をじっと見つめていたい。頬をふれあわせて、内緒の話をしてみたい。
 ゆったりと、抱き留めてほしい。
「ずっと待ってたのに」
 本を閉じると、母は千尋に差し出した。その顔つきは、あきれた風ではあったけれど、千尋を責めてはいなかった。
「何してるの。まだ間に合うと、少しでも思うなら、行っておいで」
 

 

 

 

 
 リンは狐に身をかえて、夜の森へ駆けていった。
 あとに残された水島家の人々が気の毒で、千尋はなんだかかける言葉もみつからなかったのだった。
 後かたづけが終わったのは晩飯時だった。
 電話を借りて家に連絡を入れたあと、千尋は通された居間で晩ご飯をごちそうになりながら、矢継ぎ早に質問を受けた。これにはだいぶ困ってしまった。
「神隠しの一件で、おそらくふつうであれば交わるはずのないもの同士が、出会ってしまったのだろう」
 水島の父がうやうやしくそう言った。
「千尋さんは、あちらの世界の人々を引き寄せる、呼び水のような存在になっているのかもしれない」
「呼び水、ですか」
「ふしぎなのは、なぜ今まで平然と暮らしてこられたのかということだ」
「・・・・・・わたしは、守られていたんだと思います」
 ふしぎな友達が力を合わせてつむいでくれた糸。それで作られた特別な髪留めは、千尋を守り続けてくれていたのだ。
「髪留めが切れたのがきっかけだとしたら、荻野はこれからどうすればいいんだ。頼みの神様は、湯治だっていうし」
 水島はため息をはきながらそう言った。
 それきり食卓はしずかなもので、千尋はひきつった笑みを張りつかせながら、なんとか一膳をたいらげた。
 食欲がわいてくるのがふしぎだった。いろいろな事があって頭の中はぐちゃぐちゃなのに、ふしぎとおなかはすく。そんな自分が図太く思えた。
 でも、今はこれでいい。
 泣き伏してなんていられない。



「あの女狐はほんとうに地主神さんの名代なのかな。あやしいもんだよ」
 送ってもらう帰り道、あまりにうさんくさそうに言うものだから、千尋はとうとう吹きだした。
「何がおかしいんだよ」
「なんでも」
「なんでもないなら、笑うな」
 いよいよおかしくなって、千尋はがまんできずに笑い声をあげた。
 ふつうだったら、まともに取り合ってもらえないような話だ。ハクもリンもふしぎなあの世界で出会った夢のような存在で、千尋でさえついさっきまで忘れていたくらいなのだから。
 なのに水島は、あたりまえのように起こったことを受け入れて、ぶつくさ言っている。そのことが本当におかしかったのだった。
 心強くて、うれしい。
「先輩。ありがとうございます」
 街灯のしたで立ち止まると、千尋は頭を下げた。水島はむくれた顔をしていた。
「何の役にも立ってない」
「そんなことありません。先輩がいてくれて、よかった」
 ほんの少しだけ、水島は眉をあげた。
「おまえの話を聞いてやるくらいしかできない」
 声にくやしさがにじんでいる。
 千尋はどういうわけか、いろいろなモノを呼び寄せてしまうという。あの世界に迷い込んだのがきっかけなのか、どうなのか、さだかではない。けれど、守りの力が切れた今、以前よりずっと感覚が冴え、様々なものの気配を感じ取れるようになったことは事実だ。
 危険が及ぶかもしれない。そう水島は言うが、千尋はそれほどおそれてはいなかった。脳天気だとあきれられようと、なぜかわくわくのほうが勝っているのだ。ハクが、リンが、千尋の前に現れてくれた。意味を考えるよりも、ただ再会できたことがうれしく、切ないくらい心がふるえるのだ。
「ありがとうございます」
 この気持ちをどうやって伝えればいいのだろう。千尋は頭を下げた。
「先輩がいたから、夢じゃないって信じられるんです」
「荻野」
 じっとみつめられて、千尋は息をのんだ。
「夢と現実の境界線はあいまいだよ。いっぺん崩れると、なしくずしになる。ふつうの暮らしに戻れなくなる」
 水島は千尋の両手をにぎった。
「ここにいろよ。いてくれ」
 何も言えなかった。胸にうずまく思いは千尋自身にもつかみがたくて、よくわからなかったのだ。
 

 

 

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りえ

Author:りえ
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