たからの君

2012.06.14.Thu.04:07
 草十郎は海からひときわ強くふきよせた風に、身をなぶられるような心地がした。
 笛を吹きながらふと糸世を見やると、彼女は舞うことだけに心を傾けているようだった。
 湿った風が長い髪を揺らした。草十郎は、笛に気持ちを込めるこめることができず、顔をしかめた。奇妙な衣は彼女のすうっとのばした背中と細い腰、しなやかな両の足をすっかりあらわにしていたのだった。
 まぼろしではない。奇妙な衣を身につけていたとしても、舞はたしかに糸世のものだ。
(糸世)
 草十郎は腕をおろし、手の甲で乱暴に目元をぬぐった。かけるように近づいて、彼女をきつく抱きしめた。糸世は怒った顔で振り返ったが、すぐに驚いたように目をみはった。
「草十郎」
 そう呼ぶ声すらいとおしく、腕の中に取り戻せたことがまだ信じられなくて、草十郎は細い体をかき抱いた。お互いに少し息を乱したまま、ごく近くでみつめあうと、糸世は草十郎の肩におずおずと顔をうめた。
「ありがとう」
 ちいさな声が聞こえた。
「なんのことだ」
「見つけてくれて、ありがとう。あきらめないでいてくれて、うれしいの」
「そんなことか」
 草十郎は笑った。
「糸世をうしなったら、おれはおれでなくなっていたかもしれない。・・・・・・おれでないものになりたいと、そう望んだかもしれない」
「草十郎が、このうえどうなるというの?」
 糸世は人のことをよく朴念仁などと呼べたものだ。
 草十郎はこみあげてきたおかしさをかみ殺した。
「おまえはどうもわかっていないみたいだな」
 どれだけ好きか、言葉では言い表せないほどだ。糸世を思うと、胸が熱くなる。満たされる。
「坂東の男はあきらめがわるいということだ」
 頬を赤らめた糸世に口づけをすると、草十郎はつぶやいた。
「そこいらの男と一緒にするなよ」



 ぼろ布で風よけをつくり、海べりの松の林にたき火の煙が立ったころ。小さな炎のむこうに膝を抱えた糸世の眠そうな顔が見えた。へし折った枝を火の中に放り込むと、草十郎は彼女のそばに腰をおろし、肩を抱き寄せた。うつらうつらしていた糸世は、はっとしたように目をみはった。見つめ合うと、さきにそらしたのは彼女の方だった。
「おれをみないのは、嫌いだからか」
 草十郎はたずねた。寄せては返す波の音が三回は繰り返したあと、ようやく糸世は言った。
「嫌いなはずがないでしょう」
「なら、見ろ」
「・・・・・・あらためて言われると、はずかしいものね」
「まあいいさ」
 草十郎は枯れ枝をくべながら言った。
「おまえの衣をなんとかしないとな。明日は里におりよう。日満を訪ねたら、ひどく驚くだろうな。卒倒するかな」
 口ではそういいながら、べつのことばかり考えてしまう。目のはしにうつる糸世の長い髪と、きゃしゃな手。少し触れるだけではとうてい足りそうにない。
「糸世はどこで暮らしたい」
 夢のようなことを口にしている、草十郎はふとそう思った。
 二人が共にいることをじゃまするものは、もうなかった。権力から、強大な力の及ぶところから離れたところで、穏やかに暮らすことを望んでもいいのだ。
 飢えも渇きも、ひさしく忘れていたような気がする。糸世を探しさまよう間、草十郎はいつのまにか人と神のあわいに立っていたのかもしれなかった。糸世を取り戻したことで、新たな世界が目の前に開けたことを草十郎は知った。今まで見てきたはずの世界が、これほど鮮やかに美しくみえる。それは、きっと糸世がそばにいてくれるからだ。
「どこでも・・・・・・あなたがいれば」
 糸世の消え入りそうな声は、しかし草十郎をひどく満足させたのだった。
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