春日野のまぼろし7

2012.03.14.Wed.04:44
 佐保の里内は粛々として、耳を澄ませば星のまたたく音も聞こえてきそうなほどだった。きざはしを踏みしめてくる足音がしたかと思うと、そっと戸が開いて、わずかな隙間から身体をすべりこませるようにして夫となる人がやってきた。
 その顔つきは不機嫌の見本とも言えるもので、真秀はわずかな緊張さえとけたような気がした。吹き出すと、佐保彦はますますむっとしたように肩をいからせた。
「日子坐に何か言われたの?」
 佐保彦は鼻を鳴らした。
「おまえの父親が美知主王だと、いままさに聞かされたんだ」
「なんだ、そんなこと」
 そっぽを向いた佐保彦の前に立つと、真秀はなだめるように笑った。
「子は母のものよ。そうでしょ」
 丹波の美知主はやや真秀に甘い。そして、佐保彦の王子にはいささかきつく当たるようなところがあった。
「あの人はおまえがかわいくてならないんだろうよ。ちくちくとイヤミを言われる身にもなれ。おれの異母兄にして、舅だなんてな。王宮でもどんな顔をして話せばいいんだ?」
 なおもつまらぬ顔をする佐保彦の首に、真秀は腕を回した。
「あたしの夫だと堂々としていればいいわ。佐保のあらたな大巫女の、ただひとりの夫だって」
 佐保彦は目をみはり、息を吐いた。
「あんたの子も、あたしのものよ。あいつらなんかには渡さない」
「気がはやすぎる」
 いささかあきれたように佐保彦はつぶやいた。
「・・・・・・そのまえにすることがあるだろう」
「やっぱり、しないといけない?」
「威勢のいいことを言ったくせに。こわいのか」
 きゅうに間近でみつめられたので、思わずきつく目を閉じると、おかしがるような声がした。
「堂々としていろよ、おまえらしく。でないと、こっちも調子がくるう」
 そろそろと目を開けると、佐保彦は笑っていた。目にはもどかしさと熱がかいまみえた。浮かされるような気持ちで、真秀はうながされるまま、おずおずと唇をあわせた。
 うつつのすべてが遠くなる。確かなのは、すぐそばにいる人のせつない吐息と、ふれあう頬と、心地よい腕の戒めだけだ。
 こめかみに、まぶたに、そして頬に唇をうけると、触れたところが熱くやけどをしたようになった。息を吸い込もうとするが、食むような執拗な口づけに気が遠くなりそうだった。背をなでるのは、泣く子をなだめるたぐいの穏やかな愛撫ではなく、身をこがしあおり立てるような、熱い掌だった。
「待って。待ってってば」
 立っているのもやっとのことで、たまらずに胸に寄りかかって呼吸をととのえていると、佐保彦はもどかしそうに言った。
「おい、大丈夫か」
 真秀をなんとか抱え、佐保彦は新婚の寝床にそっと寝かせた。
上衣を脱いで気楽な姿になると、ためらいながら、すぐそばに横になった。佐保彦は、真秀の解いた髪をつまみ、かるくひっぱった。
「なにさ」
「のんきだな。ほんとうに」
 ひとりごとのようにつぶやいた。
「おまえは、いや、おれたちは・・・・・・大きなものを負ったんだぞ」
「うん?」
「大巫女は兆しを読んで国を導く。これからは、異国との付き合いも増える。大王もいよいよ佐保の霊力を頼みにするだろう」
 真秀はそっと目を開けた。佐保彦はどうしてこんなに寄る辺ない子のような顔をしているのだろう。
「東国も、はるかな西国もすっかり支配されたわけじゃない。戦の火種はどこにでもある。大王の剣となれと日子坐は言うだろう。霊力を国のために使えと。それこそ力つきるまで働かせられる」
「あたしが戦うとしたら、日子坐の命令だからじゃない。あたしの大切なものを守るためにそうするのよ」
 真秀は佐保彦をみつめた。佐保彦は、一瞬だけおそれをあらわにした。彼が何を考えているのか、真秀はわかっていた。佐保の予言を案じているのだろう。
 霊力ある姫が産んだ子は佐保を永遠にいかす。
 霊力のない姫が産んだ子は、佐保を滅ぼすという予言。
 滅びの子はどちらなのか。それとも、予言ははずれたのか。
 真実はわからないままだ。
「真実なんて、どうでもいい」
 真秀はささやいた。
 夏のはじめのころ、王宮で大王の妃が無事に男の御子を産んだ。それからほどなくして佐保姫は妃の一人として迎えられた。以前からときおり親しく語らう間柄であったので大王もずいぶん心やすく打ち解け、ひときわ深い寵愛を受けているということだ。
 真澄は大王の妹である輝夜姫を妻問いしたが、強く請われて迎え入れられた夫として、たいそう丁重にもてなされている。真澄が訪ねて行くと、妻たる姫その人が馬屋まで迎えに出て、仲むつまじく語らう様子を皆がほほえましく眺めているということだ。
 王宮にて、大王にともなわれた美しい妃を目にするたび。大王に親しく話しかけられる佐保の一の王子と会うたびに、人々は春日なるうるわしき佐保のことを思い出す。そして、豪族の首長たちは霊威みちみちた佐保の一族がひざを折る大王家を敬い、畏れることだろう。
 国は一つとなり、ゆくゆくは外国にも侵されぬ強い大和となる。大陸のはずれの島国ではなく、いずれ一目も二目もおかれる大国となるのだ。
 ・・・・・・そんな夢を語ったのは、誰だったろう?
「どちらでもいい。かまわない。永遠も滅びも光と影でしかないもの。だからあたしたちは一対だというのよ。あたしは影で、あんたは光よ。佐保彦王」 
 心底驚いたように佐保彦は目をみはった。それから、少しだけ唇をひきつらせて、自嘲めいた笑いを見せた。
「光はおまえだ。永遠の子というなら、おまえがふさわしい。おれには何の霊力もない」
 真秀はじっと佐保彦をみつめた。霊力をあらわさない子として、彼がひそかに何かをおそれていたことを、真秀はこのときはじめて知った。
「霊力をもたないということが、あんたの強さだと思うわ」
 心から真秀は言った。
「ないほうがいい、人の運命すらたやすく変えてしまえる霊力なんて。この霊力がついえるときが滅びだというのなら、そうわるくはないわ」
 佐保彦は目を伏せて真秀のことばを繰り返した。。
「わるくはない、か」
「血は残っていくでしょう。たとえ一族の名がいつか消えたとしても。あたしたちの生きていた証はきえない」
「巫女どの、それも予言か? 新枕の床の辺にはあんまりな言祝ぎだ」
「じゃあ、あんたがもっとすばらしい吉事を言って。ふさわしいことよ。ほら、なにか言ってごらん」
「言えって、そんな急に」
 佐保彦はふてくされたような顔をして、やや投げやりにつぶやいた。
「おまえが愛しいから寝るんだ。あとほかに、もう言うことはない」
 目を見交わし声もなく笑いあうと、言葉をかわすのももどかしく、さぐるようにぎこちなく唇をかさね合わせた。汗ばむ夏の夜のしじまのなかに、にわかに妹背となった二人は深く身をひたしたのだった。

 時が流れ、国を支配するものが変わり、いつしか春日なる佐保の一族の名も、書物に記されるばかりとなった。
 はろばろとした春日野を我がものとして、馬を駆り恋をうたい春菜をつんだ人々も、また時の流れの中に消えていく。
 川面にあらわれては消えるうたかたのようにとけていく。

 春日野のまぼろしを覚えているものがあるとすれば、ときおりこの地に吹き寄せて、老杉やあせびの葉をざわつかせる、気まぐれな風くらいのものなのだった。

春日野のまぼろし6

2012.03.13.Tue.04:07
 暗闇の中からふいにのびてきた腕に捕らえられて、真秀は悲鳴をあげそうになった。
「ぼくだよ」
 やわらかな低い声を聞くとほっとして、真秀は息を吐いた。驚いたことが恥ずかしく思われた。佐保の領内に危険な者が入り込むことはないのだから。兄の真澄は少し疲れたようにこわばった顔をしていた。
「どこへ行っていた? 佐保姫が心配していたよ」
「・・・・・・母さんのところへ行っていたの」
 すんなりと嘘が口からこぼれてきて、真秀は決まりの悪さに唇をつぐんだ。なぜ佐保彦のところへ行っていたといえなかったのだろう。
「おいで。佐保姫には伝えたよ。真秀をすこし預かると」
 真秀が戸惑うくらい、兄はいつになくあらっぽく手を取った。 
 連れてこられたのは、佐保姫やほかの娘たちと共住みしている館ではなく、そばに青あおと葉をしげらせた金木犀の植わった、王子の御館だった。帯刀をすませた十三の年に真澄に与えられた御館だ。さっぱりと整えられた室はいくらかひんやりとしていた。灯りがともると真澄は円座に真秀を座らせ、自分も掖月をひきよせて身を預けた。
「すこし話をしよう。真秀と二人きりでいるのは、ずいぶん久しぶりのような気がする」
「忙しかったでしょう、兄さんはこのところ」
 真秀が一人前の扱いを受けるようになってから、なぜか真澄は妹との間に見えない垣根があるようにどこかよそよそしくなった。話をしようとしても、王宮に出向くことが多いので、こうしてゆっくりとした時ももてなかったのだ。
「さびしかった?」
 真澄にやさしくたずねられ、真秀はすなおにうなずいた。
「王宮には目を引くものがたくさんあるから仕方ないって、みんなが言うわ。それって、女の人のことでしょう。真澄はだれかお気に入りがいるの」
「そんなことを真秀の耳に入れたのはだれだろう」
 おかしそうに真澄は笑った。その声を聞くだけで、真秀はうれしくなる。真澄が晴れやかな、耳に心地いい声で笑うだけで、空を覆う群雲も晴れてしまいそうだ。里の空がいつも幾百幾万の星をまたたかせるのは、きっと春日野の男神のような真澄がきれいに笑みこぼすからだと、真秀は半分本気で信じていた。
「ぼくがほしいものは王宮にはないよ」
「大王の妹姫を妻問いするんでしょ」
「いずれ。近いうちには」
 やすやすとうなずいて、真澄は掖月についたひじを居心地悪そうにうごかした。
「大王とのつながりを強くしなくてはいけない。それは政のうちだ。ぼくのつとめだからね」
 兄の穏やかさは、ときにもどかしかった。真秀はにじりよるようにして近づき、真澄の手を取った。ひんやりとした手に手を重ねると、真澄はさりげなく顔を背けた。
「心から欲しいものはないの?」
 兄が日子坐の思惑をはねのけるつもりがないことは承知している。佐保の一族をより強く、より大きくするためには、婚姻が必要だった。和邇の姫を初妻としてから、真澄はつよく求められても公にどこかの姫を妻問いすることをしなかった。人々はだれか思う人がいるに違いない、一途なことだと、佐保の王子の隠された思い人のことを噂した。
「ぼくのほしいものを言ったら、きみは驚くだろう」
 真澄は苦く笑った。
「驚いたりしないわ」
 頬に手を当ててよそを向いた顔を正面に見据えると、真秀はうけあった。真澄はかすかに笑った。その気弱そうな笑みとは裏腹に、はっきりとした声で真澄は告げた。
「きみがほしい」
「あたしが?」
 真秀は驚きもそこそこに、ひどく腹が立ってにらみつけた。人がまじめに聞いているのに、はぐらかすなんてひどい。
「見えないの、兄さん。あたしはここよ。ほしいならおとりなさいよ」
 真澄は笑みをたちまち消して、真秀の手を痛いくらいの力でぎゅうとつかんだ。真秀が驚いて身を引こうとしたのに気づくと、どことなく青ざめた顔で、困り切ったように首を振った。
「よそう。ばかなことを言った」
 それでも握った手を離さないのは、きっと人恋しいからだ。
 幼い頃は、ひとつのふすまにくるまって、よく一緒に昼寝をした。真澄は、真秀がいなければ、たいていいつも一人だった。そうぞうしく御館にかけこんできた真秀を、びっくりしたように、けれどひどくうれしそうに迎え入れてくれる笑顔を見るのが好きだった。
 兄のきれいな髪を結ったりほどいたり、池のそばに咲いていた花をとってきて髪に挿したりして遊んだものだ。いつしか真澄が笑い出すと、真秀もひどくうれしくて笑いがこみあげてくるのだった。
 ふすまを頭からかぶると、昼中がきゅうに夕暮れのようにうす暗くなる。そうした二人だけのたそかれに眠気を誘われて目を閉じ、目覚めたあとはいつも手をつないでいた。
「真澄、さびしかった?」
 ささやくと、ふいに抱きしめられた。きついきつい抱擁だった。息が止まりそうなくらいだ。
「真澄?」
「こわいんだよ、真秀」
 ほとんど涙のにじんだ声で、真澄は言った。
「夢をみた。むごい神夢を。ぼくは真秀をひどく傷つけた。卑怯なふるまいをした。手に入らないものなら、壊してもかまわないとさえ思った。愛しい人がほかの誰かを選ぶなら、死をもってぼくの存在を刻もうとした。きみの身にきざむかわりに、心を踏みにじるまねをして」
「兄さん?」
 それは夢でしょうと、そう言おうとした声がのどの奥で凍り付いたようになった。なぜ涙があふれてくるのかわからなかった。背中に腕を回すと、いっそうきつく抱きしめられた。
 真秀はひろい背中をなでた。そうしなければ、にわかに荒んだ真澄の気持ちは収まらないような気がしたからだ。
「平気よ、真澄。あたしは平気。だから、真澄も大丈夫よ」
 自分をも慰撫するように、真秀は続けた。
 真澄のおそれる夢を、真秀もみたことがある。それはかなしくて、やさしい夢だった。残酷で、救いのない、吐き気のするほどおそろしい夢。
「夢の中で、あたしたちは双子のようにいつも一緒だった。真澄はそこではあたしだけを見ていたから、きっとそう思うのよ。うつつの真澄のまなこはあたしだけじゃなく、ほかの人たちも映すわ。耳はあたしの声だけじゃなく、多くの人の声を聞き取れる。気持ちをこうして声に乗せて明かすこともできる。真澄は、神々の愛児ではないもの。あたしを愛しいというのはきっと、夢の名残のようなものよ」
 しばしの間があった。
「・・・・・・そうかもしれないね」
 いいながら、真澄は腕をはなした。きゅうに解放された真秀は、戸惑って兄を見上げた。真澄は突然何かを断ち切ったかのように、惑いを微笑みのしたに押し込めてしまったようだった。
 いくらか混乱した真秀は、どんな表情をしたらいいかわからず、静かな兄の面をみつめた。どんなに目をこらしても、もうひとかけらの狼狽も気弱さも見えてはこなかった。
「すまなかったね。ひどく疲れていたから、心が浮ついたのかもしれない。宴というのは、なんだか好きになれなくて。もやのなかでむなしく一人で笑い続けているような気分になる。ぼくは、もうやすむことにする」



 真秀を見送ったあと、真澄はひとりで春日野へ降りた。
 月は流れてきた雲に隠れてしまっていたが、危なげない足取りで小川をわたり、野に立ち尽くした。
 真澄にとって、昼も夜も大きくは違わない。陽の落ちた暗闇のなかでも、望めば闇にいきる獣のようにあざやかに物事をたしかめることができた。
「真秀」
 この世でもっとも愛しい人が、御館のきざはしのところで佐保彦に抱きしめられているのを見たとき、しっかりと閉ざしておいたはずの想いが吹きだしてしまったのを真澄は知ったのだった。それはすでに開いてしまった水門のようなものだ。流れて行き着くところは、破滅でしかない。
 決して報われないだろう恋は、秘めたまま生きていくつもりだった。
(きみを愛しく思うのは、夢の名残なんかじゃない)
 真澄はいかなる神に聞き咎められてもかまわない気持ちで、叫ぶように声を上げた。
「真秀だけでいい。真秀しかいらない」
 許されない妻問いだ。押しひしがれるような悲しみは、だがどこかあきらめをともなってもいた。
(わかっている。きみがどうあってもぼくを呼ばないということは。わかっているんだ。・・・・・・それでも)
 とおくの御山が赤々と燃える幻が見えたような気がした。
 夢の中で、真秀は佐保彦を選んだ。
 二人のぎこちない共寝にはいっさいの余裕がなかった。お互いしか目に入らない、必死さだけがあった。
 それを目の当たりにして、感じたのは嫉妬だったのか、怒りだったのか、絶望だったのか。胸をしめた感情はひとつではなく、絡み合う荒縄のように真澄にまとわりつき、生きたいと願う気力を奪うようだった。
 佐保彦になりかわりたいと、真秀が愛おしむものになりたいと、心の底から願った。いまこのときそれが叶わないなら、後の世でそれを叶えようと。
「それこそ、禍つ恋だ」
 不機嫌な自分の声を聞き、そのあまりの切実さに、真澄は少しだけおかしくなった。そうだ、笑えるならば、まだ大丈夫だ。
 たとえ時を越えて愛しい人に出会ったとして、それがなんなのだ。
 いま、このとき、真秀の笑顔を見ていたい。
 死ねば、もう二度と泣いた人の頬をぬぐってやることも、笑いあうこともできない。神夢で見た死は、すべてを凍らせた。暖かなぬくもりもほほえみも壊れた玻璃の器のように砕けて散った。後悔は目覚めたあとも真澄を長く苦しめた。
 その痛みの中で知ったのだ。愛しい人を、真秀を悲しませることだけは、決してするまいと。
 後の世のことなど知らない。
 生きることが難いなら、なおさら生きねばならない。
 押しつぶされそうな苦しさにうめきながら、それだけはただ確かなことだと思えたのだ。

春日野のまぼろし5

2012.03.13.Tue.04:07
「それで、おまえはうんと言ったのか?」
 どうしてこんなに平気な風でいられるのだろう。
 初めての共寝など、佐保彦にとっては、さけては通れない面倒なしきたりにすぎないのだ、きっと。
 真秀は夕暮れのころに族人の目をさけて佐保彦の御館へ行くと、すでに身軽な衣に着替えて髪をとき、おそい仮寝をしていた人をゆさぶった。めざめた佐保彦はぎょっとして、それから決まり悪そうに目をそらした。
「しかたないさ。おれはそれでいい」
 真秀はなぜ自分ががっかりしているのかわからずに、それでも腹が立ってつめよった。
「しかたない? それでいい?」
 灯りのない室のなかはうす暗く、佐保彦の顔はよく見えなかった。
「ああ。おまえがいやじゃないなら」
 声が眠たげにかすれている。どうでもいいと言わんばかりだ。
「やっぱりいやだ。あんたなんかじゃいや」
 腹が立って肩を思い切り押したというのに、びくともしない。佐保彦はやさしく笑った。
「おれは、おまえならいいと思ってた」
「うそ。そんなこと、ちっともあんたは言わなかったわ」
 言い返した声が震えた。たわいなくうれしいと思ってしまう自分が浅ましく思えて、真秀はつんとあごをあげた。
(うれしい?)
 自分の心にうらぎられたようだ。佐保彦なんてわがままで怒りっぽい弟のようなものだと思っていたのに。
 それなのに、どうしてこんなにも胸がなるのだろう。
「気安いから?」
「まあ、そうだよ。それに・・・・・・」
 吐息が通ったかと思うと、唇が合わさった。振り上げた腕をとられ、巻き込むように抱きしめられた。首筋に顔をうめて小声で佐保彦は言った。
「とにかく、おまえでよかった」
 真秀はふいにこわくなって、声を上げた。
「あんたは悪い神さまで、あたしをだまそうとしてるんだ。でなければ、佐保彦がそんなことを言うはずないもの」
「それが口づけをうけて言うことか」
「口づけ?」
 押し殺した声で佐保彦は言った。
「もういっぺんしてやろうか? おれが悪い神なら容赦などないぞ」
 驚いた真秀は、手のひらで佐保彦の口をふさいだ。その手をもぎとるようにしてどけると、佐保彦はため息をはいた。
「これだから、おまえは」
 おかしそうに笑うので、真秀もつられたように吹き出した。けれど、なにがおかしいのかもわからなかった。
「真澄に殺されるかな」
 殺すなどという禍言は、穏やかな真澄からもっとも遠いところにあるものだ。
「兄さんはきっと喜んでくれるわ」
 佐保彦は何も言わなかった。こうしてただそばにいることが、気詰まりではないもののひどく落ち着かない。
「あたし、ええと、もう行かないと」
 佐保姫にだまってきたのを思い出したのだ。きっと心配しているだろう。
 御館を出てきざはしを降りようとした真秀の手を佐保彦がつかんだ。
 気づいたときにはきつく抱きしめられていた。おずおずと背中に腕を回すと、佐保彦がいよいよ腕の力をつよめた。
「苦しいよ」
 はっとしたように腕をとき、佐保彦はじっと真秀をみおろした。篝火の火明が彼の片ほほをそめ、いたくまじめな顔つきを照らし出していた。
「佐保彦?」
「行け、寄り道するなよ。客人はじいさんばかりではないから」
 ほかに何か言いたいことがある素振りで、佐保彦はそれでも真秀が見たこともないような大人びた顔をして笑った。
「おまえに言うのもおかしいか。那智と真向かえる霊力を持ったおまえを傷つけられる者などいない」
 

春日野のまぼろし4

2012.03.12.Mon.04:07
 夕暮れが西の空を赤く染めている。客人たちが御館に入ると、これまでのさわがしさがうそのようにあたりは静かになった。
 族人ともめったに出会わない小道は薄暗い。いつのまにか篝火のうみだす影のように、親しい人が隣を歩いていたことに気づいて、真澄は苦笑いをした。
「父上、女の御館に行かれるのですか?」
 見事な白髪を結い、雪のような髭をたくわえた日子坐は、老いてはいたが侮りをいっさい許さぬ若々しさがあった。
「大郎女どのに挨拶が遅れたからな」
 うなずいた人は、かすかに目を細めた。
 父がこうして言葉少なくそばに立つときは、語りたいことがあるときだった。そして、何であれ父が言い掛けることを、真澄はただ受け入れるしかないとわかっていた。
 それが一族の栄えにつながるのであればと。
「真秀は元気か。顔を見せないが」
 すぐには言葉を返せなかった。日子坐がいまこのとき真秀のことを話すのは、妹にかかわる相談・・・・・・命令がくだされるにひとしいことだったからだ。
「元気です。かわりなく」
 自分の声はこわばってはいないだろうか。
「美しくなったろう。同母兄の目から見ても」
「・・・・・・ええ」
「おまえが輝夜姫への妻問いをしぶっていたのは、妹のためか」
 明日も晴れるかとたずねるような調子で、おそろしいことを言う。すべて見透かすようなまなざしの前では、いかに霊力を持とうともうそはつけないのだ。
「そうだとしたら?」
「真秀が欲しいのか」
 真澄は無難にほほえむことができたはずだ。王宮でも、つねに笑みをたやさずにいることは、襲をひきかぶり素顔を隠すようなものだった。笑みはこのうえない盾でもある。本心を誰にもあかさずにすむ。
「身を滅ぼすつもりはありません」
「つまらん」
 かき立てられる気持ちがなんなのか、真澄は知っていた。それはあまりにもはっきりしていた。真秀が愛しい。妹としてではなく、より近くそばにありたいと願う気持ちを、ほかならぬ父が見抜いていたとしても、決まりの悪さは感じなかった。
 日子坐にとっては、禁忌もしきたりもたんに人の作りしもので、ひれ伏して遵守すべきものではない。一族の栄え、ひいてはこの島国の栄えのためならば、神をも殺せるのがこの日子坐という男だ。
「同母のきょうだいの婚いは、忌まれるものだ。しかし、この領ではどうだろうな。前大巫女の予言では、霊力ある子が出産すれば、その子もまた佐保を永遠に生かすということではないか。おまえと真秀が婚いすれば、さらなる大きな霊力を持った子が産まれぬともかぎらぬ」
 ほんのささやかな笑みすら凍りつくような気がした。真澄は足を止めて父の背をみつめた。老いてなおすこやかな若者のような立ち姿。若い頃は前大王の信篤き将軍だったという父は、いくつもの武功をほしいままにした。ちいさな名も通らぬ和邇という部族は、日子坐の代でにわかに押しも押されもせぬ大豪族となった。
(佐保も、勝ち得た武功のひとつにすぎないのだろう)
 この日子坐という男にとっては。
「そして、その子が和邇をますます栄えさせると。父上は神をもおそれぬお方だな」
 ひどく乾いた声がでた。真澄は振り返った父をみつめた。
「和邇だけでも佐保だけでもない。この国のためだ」
 遠くをみつめるまなざしを、追うようにして生きてきた。父の物言いや物腰を真似、それこそもう一人の日子坐となるように、父は真澄を教育した。
 多くの豪族とのつきあいのなかで、学ぶことはそれこそ山のようにあった。矛と盾を打ち鳴らす戦はないが、いまは王宮での振る舞いや、そこここで密やかに交わされる取引で政が動く。一瞬たりとも気の抜けない、失敗の許されぬ舞台のうえで踊らされているような気分だ。
「父上は、ご自分のためになにかを需めたことがおありですか」
 ふと真澄はたずねた。
 日子坐はごくかすかに、ふとため息をこぼすように笑った。
「内緒にするなら教えてやろう」
 うなずくと、年の近い友族の王子にでもするかのように、気安く肩を寄せて腕を回し、父は耳元でささやいた。
「おまえの母だけは、一目見て欲しいと思った。それで答えになるか?」
 驚いて見返すと、日子坐は朗らかに笑い声をあげた。
「おまえが真秀を望んでも驚かんよ。あの子は若い頃のおまえの母にそっくりだ。春日野の女神のような、うるわしい子だ。若やる胸をはずませて、一途にくるおしく見つめてくるあれのまなざしを、たぎる血潮を、昨日のように思い出せることだ」
 どんな皮肉より悪意よりおそろしい甘言だった。
 耳にひどく甘く、遠ざけておいたおそろしい想いをあばきたてられるようで、真澄は会釈もそこそこに、逃げ出すようにして父のそばを離れた。

春日野のまぼろし3

2012.03.11.Sun.03:56
 明るい日差しの中を駆けてきたせいか、神殿の中にみちた薄やみに目が慣れず、真秀は目を細めた。
「まあ、はやかったわね」
 母の明るい声に、むっとした顔をふりむけた。
「あらこわい顔」
 しなやかな指先につまんだ菓子は、大和からの土産だろう。韓渡りの珍しい食べ物を、よく日子坐はたずさえてやってきては妻たちに与えた。そんなものでたわいなく喜ぶのが腹立たしくて、真秀はいやなのだった。
「母さん、叔母さんも。お菓子なんかでにこにこして」
「でも、おいしいのよ。ね」
 母は、掖月によりかかってほほえむ人に言いかけた。
「ええ、そうね。香ばしくておいしいわね」
 二人はそっくりで、明るい笑い声などが重なるときには、森の中で木霊がささやきあうのを聞いたときのように落ち着かない、どこか浮ついた気持ちになるからふしぎだった。
 双子の姉姫が真澄と真秀の母であり、妹姫が佐保彦と佐保姫を産んだ。
 二人は日子坐を夫としてもてなし、ずいぶん大事にしてきた。ほかに古いつきあいのある大和の豪族もあったのに、彼女らが選んだのはちいさな部族の王子だった。
(なぜ日子坐なんか。たしかに、美しいけれど)
 兄の真澄は若いころの日子坐に生き写しだという。真澄は本当にきれいだ。見ていると、笑みかけずにはいられないくらい美しい。
「美しいものをみるのは、目のよろこびね」
 母は真秀をみつめて言った。
「真秀は、見ているだけで満足なのでしょうね」
「母さん、そんな話をするために呼んだの」
 叔母がやさしく取りなした。
「大切な話ですよ、真秀。あなたも、もう一人前になったのですから。夫を迎えることを考えなくては」
 動転したのをさとられたくなくて、真秀はうつむいた。
「だれでもいいわ」
「もうすこし近くへおいで、真秀」
 静かに、有無を言わさぬ声音で母が言った。しぶしぶ従うと、そばに座るなり口にむりやり菓子をつめこまれた。焼いた甘い餅のなかには、とろけるような餡がたっぷり入っている。くやしいが、おいしい。
「ほら、まだまだたくさんあるわ。お食べ」
 顔をのぞき込んでくる母を、なさけない思いで真秀は見返した。いつもこうだ。反抗してみせても、母には勝てたためしがない。
「佐保彦が好き?」
 突然問いかけられて、餅がのどにつまった。
「あら、大変!」
 叔母があわてて背中をさすった。
「水を!」
 水差しの口をくわえて水をごくごく流し込むと、やっと落ち着いた。
「・・・・・・佐保彦がどうして出てくるの?」
「だって、好きなんでしょう」
 母の無邪気さが憎らしかった。
「好きなら、話がはやいわ。おまえの夫には佐保彦がぴったりだと、わたしたちは考えているのよ。日子坐はどうにかして、おまえを王宮へ送り込もうとしているけれど」
「いやよ。王宮なんて息が詰まるわ」
「そうでしょう?」
 母と叔母が顔を見合わせて笑うのを見ると、真秀は怒る気も失せてしまった。
「だけど、それと佐保彦は関係ないわ」
「まあ、まだ子どもだわね」
 朗らかに母は笑った。
「日子坐がふらりと遊びに来たときこそ、深い深い思惑があるときなのよ、真秀。あの人はにこやかに笑みながら、さまざまな悪巧みを思い巡らすのが根っからの性分なのだから」
 笑うところではない。真秀は唇を噛んだ。
「真澄の妻問いのことで来たのではないの」
「それは内々に、もう決まったことよ。日子坐はもう次の手のことを考えているの。あなたか佐保姫のどちらかが、ゆくゆくは大后になるようにしたいのです。日嗣の御子を産んでほしいのよ」
「妃が何人もいらっしゃるのに?」
 言いながら、うんざりした気分で真秀は目を閉じた。
 大王にはすでに御子が何人もいる。妃も大勢。大和豪族の姫たちは妃となっても生まれ育った里を出ず、大王の訪れを待つことが多い。佐保も古い大和の国人であるから、姫を一人出してもおかしくはないけれど。あえて王宮に行く必要もないだろうに。
(また、政か・・・・・・)
 佐保の姫が王宮にいれば、大王はいくらか領外へ出かけることが減るかもしれない。真澄はたいせつな妹姫をひんぱんに訪ねるだろうし、真澄を大変気に入っている大王は、王宮で過ごすことを好むだろう。
 佐保はいよいよ大王のおぼえめでたい一族となり、和邇も周辺の豪族を牽制しながら、ごく穏やかに威勢をほしいままにする。いずれ姫が御子を産めば、ますます安泰ということだ。
(だから大嫌いなのよ、日子坐なんて)
 里を離れれば大勢の妃の一人として扱われるだろう。駆け回れる広い野は王宮にはない。気心の知れた娘たちとも引き離されるだろう。大好きなこの土地や、人々と。
 そこまで考えて、兄の真澄ではなく佐保彦の面影が浮かんだことに、真秀は驚いて息をのんだ。冬の朝、薄氷のはった池を、そろそろと足先でつつくように、ゆっくりと思い返してみる。
 初妻の意味を知っているのかと。そうあきれたようにたずねた佐保彦の顔がやきついて、離れない。まっすぐにみつめてきたもの言いたげなまなざしが忘れられないのだ。
「母さん」
 真秀は母の手を取って、握りしめた。
「王宮へ行くくらいなら、あたしは佐保彦と共寝したほうがましよ」
「まし?」
 叔母がこらえきれないように吹き出した。
「真秀らしい。あなたは本当におもしろい子だわ」
 すこし恥入って、真秀は唇をかんだ。
「その言葉が聞けただけでもよかったわ。ねえ、姉さま」
「そうね、無理に夫婦にするには忍びなかったものね」
 首をかしげた真秀を、母はみつめた。
「佐保彦の初妻の姫はあなたよ、真秀。これは、誰がなんと言おうと、くつがえせません」
 叔母もすこしすまなそうに、けれどはっきりと言った。
「恨まないで、真秀。けれど、急がないとあの人との戦に負けてしまうの。大王の妃のおひとりが身ごもっておられるから、大王も表だっての妻問いを控えていらっしゃる。お生まれになる前のわずかな時で勝負がつくわ」
「勝負?」
 やさしい叔母の口から聞くには、あまりに似つかわしくない言葉だ。
「佐保姫だって行きたくないと思うわ」
「あの子は、よく心得ていますよ、わが佐保の一族のことを」
「どういうこと」
 いやな予感がした。春の日溜まりのように、いつもにこにこしている佐保姫が、真秀の知らない何を心得ているというのだろう? 
「佐保を永遠に生かすものと、佐保を滅ぼすもの」
 できれば耳をふさいでしまいたかった。前大巫女であった人の予言だ。姉佐保姫と妹佐保姫、力を持たないほうが産んだ子は、佐保を滅ぼす「滅びの子」だという予言だ。
(二人は同じくらいの霊力を持っている。予言ははずれたのよ)
「いいえ、予言ははずれないわ」
 母がきっぱりと言った。心を読むのは佐保の霊威のほんのあらわれだ。いいや、読まなくとも、娘の考えなど母にはお見通しなのかも知れなった。
「ねえ、真秀。滅びとは何かしら。永遠とは何? わたしたちは、予言を真っ向から受け止めようと決めたのよ。おびえてそれが果たされるのを待つのではなく。戦おうと決めたのよ。わたしたちのどちらが永遠の子を産むか、滅びの子を産むか、もうどうでもよかったの。人も獣も、生まれたものは必ず死ぬわ。国もそう。とこしえに続く王国などないのよ。なら、永遠も滅びも関係ない。それは自然の営みの中で繰り返されてきたことだもの。わたしたちは、逃げないことに決めたの。長い長い神夢を見て・・・・・・逃げることは戦うことより苦しい道を行くことだと知ったのよ」
 一息に言い終えると、母は静かにほほえんだ。
 笑みをたたえながら、戦士のような物言いをする人を、真秀は信じられない思いでみつめた。
「母さん、あたしは戦士じゃないわ」
「いいえ。佐保の女はこの上ない戦びとなのよ、真秀。あなたは身のうちの霊力を、どうか佐保を守るために使ってちょうだい。そして必要ならば、ためらいなく戦うのです。真秀はこの佐保で。佐保姫は、王宮で」
「戦びと」
 真秀はそれだけつぶやくのがやっとのことで、あとは呆然と双子の顔をみつめていたのだった。
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