幽ノ弐サンプル5 鳥の声

2012.04.20.Fri.05:17
 午後の日差しが地に長く影をおとしている。渡殿を通り過ぎようとしていたところ、聞き慣れない鳥の声が聞こえてきて狭也は足を止めた。夏の鳥で、こんなに軽やかにたのしげに鳴くものがいたろうか。
 汗を拭いながらその声に耳を澄ませた。
「気に入った?」
 ふいに鳥の声がやんで、笑みを含んだ声が落ちてきた。低いがあかるく澄んだ、若やかな声の持ち主は、太い枝のまたに足をかけていた。
「稚羽矢。まあ、あなただったの」
 うなずいた人は、声を潜めて言った。
「羽のあるものたちが近くにいないか見てくれないか?」
 狭也は空を見上げた。一羽のカラスが自然にはありえない奇妙な動きをして飛んでいる。あれは鳥彦だろう。
「かくれんぼでもしているの」
 木の上からするすると降りてきた稚羽矢は、髪に葉っぱをくっつけたまま、見下ろすようにすぐそばに立った。
「探しているときいたら、隠れたくなって。狭也のところに行こうとしていたんだよ」
「大王ともあろう人が。まるで子どもね」
 狭也は思わず吹き出してしまった。稚羽矢も朗らかに笑った。
 稚羽矢は狭也の手を取り、ほほに唇を寄せた。そしてふくらんだ腹を、おそるおそるなでた。
「苦しくはないか? この中に子がいるなんて、信じられないな」
「あたしも信じられないわ」
 夫への慕わしさがこみ上げて、胸が痛くなる。
「祝言とはなんだと、そう言ったのをあなたは覚えている?」
 こうしてふつうの夫婦のように、子の誕生を待ちわびることができるなんて信じられなかった。
「そんなことを言ったっけ」
 目を大きくして、稚羽矢は首をかしげた。
「言ったわよ」
 かすめるような口づけをされて、狭也は頬がほてるのを感じた。
「今ならたしかに分かる」
 さりげなく触れられるのにまだなれないなんて、あまりにうぶなことだと我ながら恥ずかしい。
「ややというのを、はやく見てみたい」
 稚羽矢はまじめな顔つきで言った。
「人の子が生まれ落ちるとき、暗くて狭い危険な道を通ってくると聞いたよ。ときには、生まれ落ちる前に女神の御もとへ戻ることもあると」
「闇の道を迷わずに来て戻った、あなたの子よ。きっと大丈夫」 
 願いをこめて言うと、稚羽矢もほほえんだ。
 そのとき、一羽の鳥が稚羽矢の肩にとまって、せわしなくくちばしを鳴らしたかと思うと、あっという間に飛び立っていった。
「斥候に見つかった。行こう」
 稚羽矢は狭也の手を引いて歩き出したが、うまく逃げおおせることはできなかった。いかめしい顔をした科戸王がいつのまにか行く手をはばむように立っていたのだ。
「そうはさせるか」
 稚羽矢はうんざりとした顔つきで王をにらんだ。
「何のようだ?」
「聞いていなかったのか。そなたらを迎えに来たのだ。逃げ隠れなどして」
 科戸王という人は、いつも眉間にしわを寄せ、宮でも進んで親しく人々と交わろうとはしない。しかし大王からの信任もあついということで、宮でも一目おかれる存在となっていた。
 こうして共に並ぶ姿を見ると、主と臣下というよりは、友のようにも見えるのがふしぎだった。
 狭也はこっそりと二人を見比べた。
 かつて冷たい憎しみのまなざしを振り向けることしかなかった王は、あのころと比べれば稚羽矢にずいぶん気安く接するようになった。
(日高見から戻ってきてからだわ)
 名も知らぬ凍った土地で、大王の末裔や橘の子孫たちと出会ったことは、狭也の胸にとても愉快な思いでとして刻まれていた。
 本来なら、けっして交わることのない遠い時のむこうにいる人たちに、まるで水たまりを踏み越えるようにあっさりと出会い、語らい、笑い合ったことは夢と思うにはあまりに楽しいときだった。もう会えないと思うことが、辛く感じられるくらいに、あの人たちのことが好ましかった。
「岩姫さまに関わることですね」
 狭也は稚羽矢のそでを引いた。
「稚羽矢、待たせてはいけないわ。すぐに行きましょう」



 開都王がともなってきたのは、うら若い乙女だった。
 きちんと座して平伏している。
「氏族にとって大切な使命を引き受けてくださり、感謝しています。して、岩姫さまのよみがえりについてなにかわかりましたか?」
 狭也が熱心にたずねた。岩姫は深い知恵でもって、皆をつねに導いた。人々の心を支え、戦を勝利に導いたのは彼女の存在があったればこそ成し遂げられたことだ。女神の御許へ旅だった岩姫のよみがえりについては、氏族の人々にとってもっとも気になることがらなのだった。
「岩姫さまは、もうじきお生まれになるものと思います」
 彼女が差し出した生の勾玉は、ゆるやかに明滅しているという。白い手のひらをうろのようにしてその中に勾玉をおくと、ささやかなかがやきがようやくみえた。
「古い器は、明滅したのちかがやかなくなるのだそうです。新たな持ち主の生まれるのと一緒に、あらたな器が生じます」
 そう言いながら顔を上げた人を、科戸王は驚きとともにみつめた。
 小柄なものの、背筋をぴんと伸ばし、誇らかに顔を上げている。勝ち気な瞳とぎゅっと結ばれた唇。日高見で出会った娘によく似ている。
 視線を感じたか、ふとこちらをみた娘は、怪訝そうに首を傾げた。豊かな髪を頭の後ろで一つにまとめ、子馬の尾のようにたらした髪型も同じだ。
 のんきな稚羽矢は気づいていないようだが、狭也は驚きをあらわにし、それでも彼女が日高見で出会った娘のはずがないと、口をつぐんだようだった。
「岩姫さまは、生前におっしゃいました。ほんの少しだけ休息をとったらば、また氏族の子らに会いに戻ろうと。わたしは、岩姫さまがお生まれになったあかつきには、またおそばでお世話させていただきたく思い、こうしてお願いにあがりました」
 そこで、思い出した。岩姫の部屋付きとして戦場にも付き添っていた娘だ。
 かげのように氏族の大巫女に仕えていたが、これほど注視したことはない。
 それにしても、日高見の遠子によく似ている。
 他人が、こんなにも似ているものだろうか。
「あらためてご挨拶申し上げます。わたしは鳥彦の姉の、遠呼と申します」

幽ノ弐サンプル4 守人(もりびと)

2012.04.15.Sun.04:18
 十五になったとき、父はこう言った。
「あなたに御座をゆずろう。このときを待っていたよ」
 冗談ではないかと隣に座った母をみると、静かにほほえんでいた。大王と呼ばれる父と、その嫡后である母は、二人並ぶとたいていこちらが驚いて開いた口がふさがらなくなるようなことを言い出すのだ。
「なぜですか。父上はまだお若いのに」
 父はふと庭を眺める目を戻して、かすかに笑った。
「もう時を待つことはない。あなたは皆に慕われているし、たいそう賢い。この間のこと、見ていたよ。競語りをみごとにまとめたね。どちらの言い分もくんだうえで。わたしでは、ああはいかない」
「・・・・・・気づいたことを話しただけです」
「だれも気づかないことに目をとめられるのはよいことだ。せき止められ、淀んだ流れにいるとき、人はどうしてもその淀みにつかりきり、足をとられる。国も形がなればなるほど、どこか流れぬ場所がでてくる」
 父は朗らかなまなざしで、母をみつめた。
「水の乙女の息子であるあなたには、淀みをはらう力がある。わたしでは変えられぬことを、どうかあなたに成してほしい」
「力などありません」
 声がふるえた。
「わたしは、まだ未熟者です」
「最初からうまくできる人などいないわ」
 母がなだめるように言った。気安い物言いをすると、日頃かしこまっている姿とはちがい、まるで姉のようにも思える。気のおけない人々の前では、遠慮なく笑い、そして泣く。それが母のよいところで、父も母のそんなところにひかれてやまないのだと、まえにこっそり教えてくれたことがある。
 大王の嫡后は、こぼれるような笑顔をみせた。
「やってごらんなさい。あたしたちが支えられるうちに、たくさん間違っておくのも悪くはないわ」


 山桜の花の色は、遠くたなびくかすみににじんでいる。
 庭におりてこっそりとため息をついていると、聞き慣れた羽音とともにふと日がかげり、大カラスが舞い降りてきた。止まり木となる右手をかかげるなり、ずっしりとした重みが腕にかかった。
「やあ、王子。暗い顔をしてどうした?」
 なやみを打ち明けるのに、これほど適した相手はいないだろう。鳥彦はお世辞や気休めをいっさい言わない。
「大王になれと言われた」
 口にするだけでうんざりした。
「なれるような気が、少しもしないんだ」
 鳥彦はそれを聞くと、たちまち大笑いをした。告白したことを後悔しても、おそいのだった。鳥彦の笑い声を聞くと、なぜかふしぎと悩みがちっぽけなものに思われてくる。どんなことであれ、一緒にいればいつまでも難しい顔をしたままではいられなくなる。
「稚羽矢も昔、そんなことを言ってたっけ。泣きそうな顔で、できないって。じっさい、何度か逃げたもんだ」
「・・・・・・わたしも泣きたい」
「泣いてもいいよ。人は悲しけりゃ、涙を流せるからすばらしいよな」
 からかわれたような気がして、ちっともおもしろくない。
「父上だからこそ、皆は従う。わたしが何か言ったって、だれが聞く?」
「聞くさ。おまえの声は聞いていると心地いい。やさしいけど、強いいい声だ。聞かなけりゃ、笛でも吹いたらいい。師匠みたいにさ」
「父上や科戸王の姿が現れただけでいつも皆が静まりかえるね。それが威厳ってものなのかな」
「顔がこわいだけだよ、王の場合は」
 鳥彦が笑うと、おかしさがこみあげてきた。
「わたしもこわい顔をすれば、立派になれるだろうか」
 正直なカラスは、くちばしをならした。
「王子のこわい顔って、もしかしてそれ? 狭也にそっくりの面でそんな顔をしたって、ぜんぜんだめ。王をひるませるくらいなら、できるだろうけど」
「何の話だ?」
 驚いた鳥彦が耳元で鳴いたので、ともに飛び上がるような心地がした。
 振り返ると木刀を持った科戸王が、いぶかしげにみつめていた。

幽ノ弐サンプル3 花衣(はなごろも)

2012.04.13.Fri.04:36
「はっきりとおっしゃってください」
 きつくにらみつけられて、科戸王はため息を吐いた。逃げ足のはやさだけは、鳥彦に見習わねばならないらしい。浅葱色の衣を着込んだ狭也は、やや息をはずませ、初夏の日ざしに目を細めながら重ねて言った。
「あの人を隠しているのはわかっているの。稚羽矢はどこです? あたしに合わせる顔がないとは、どういうことなのですか」
 さりげなく体をずらしてまっすぐな視線を避けると、王は首を振った。
「知らん。やつに聞け」
「あたしのところにちっともこないではないですか。探しても、逃げられてしまうの。聞けないから、こうしてたずねているのです」
 狭也は一歩詰め寄り、わずかに赤くなった目をしばたかせた。
「あのひとがよそを訪ねているというのは、本当ですか。その・・・・・・妻問いに通うところができたというのは」
 きっと、眠れなかったのだろう。宮に広まった噂は、狭也の耳にもとうに届いたはずだ。科戸王はしいて抑えた声でつぶやいた。
「確かだ」
 ほかになんといったら、この人を悲しませずにすんだのだろうか。答えがわかるのならば、だれに頭をさげて教えを請うてもかまわない気さえした。
「そうですか」
 怒り出しもせず、あっさりときびすを返す狭也を、思わず王は呼び止めた。ほかに人気がない廊下はへんに静かで、追いつめられるような心持ちがする。
「まて、これにはわけがある」
 にくい奴の浮気の申し開きをしている自分にも腹が立つ。
「どんなわけがあるというの? みんなでこそこそして。あたしにずっと隠していたのね。見損なったわ」
「政だと思え。騒ぐほどのものでもない」
「・・・・・・そうでしょうね。殿方の言いそうなことですこと」
 狭也は涙のこぼれそうな目をして、ささやいた。
「あたしがおろかでした。つまらないことで心を乱したりして。あのひとは大王ですものね」
 呼び止めようとして、王はやめた。追いすがったとして、何も言えないならむだだ。稚羽矢のかわりに弁解などしたくないし、かといってなぐさめる言葉など思いつかない。

「狭也がきた?」
 嵐のさったあとにのんきに空から降りてきた鳥彦を、王は一瞥した。
「この顔を見て察しろ」
「ふんふん、なるほど。狭也は怒っていただろうね」
「ところで」
 科戸王は低い声で言った。
「そちらはどうだ。何かつかめたのだろうな」
 鳥彦はくちばしをかちかち鳴らした。
「そう簡単に羽を落としたりはしないよ。悪い奴ってのは、頭も働くもんだときまってる。どうも、ただの思いつきではないようだね」
 暗い想像を振り払うように、科戸王は一時目を閉じた。
「葛木の姫はいかがお過ごしだ。いくらなんでも、厚かましすぎる頼みごとをしたな。稚羽矢は粗相などしていないだろうな」
「葛木のおっさんは大喜びだよ。これを機に、ほんとうに稚羽矢を迎え入れたいって。・・・・・・稚羽矢はひどいありさまだけど。怒れる大蛇だね。静かにしているところが、なおこわい」
 科戸王はうんざりして答えた。
「一日も早く不届きものを日中に引きずり出してやる」
「狭也を慰めるんじゃなかったの」
 どこまでもふまじめな言い様だ。
「わたしの慰めなど、あの人には不要なものだ」
「難儀だよね、不器用だということは」
 心底から同情されているようだ。なんとなくおかしくて、王は苦笑いをした。
「そなたこそ」
  

幽ノ弐サンプル2 野焼(のやき)

2012.04.09.Mon.13:00
「狭也さま、大王が」
 息せききらせて平伏した人が、震える声で言った。
「大王が、野焼きをみたいと仰せになられ、野においでになりましたが、いつのまにか御身が・・・・・・煙の中にのまれておしまいに」
 最後の方は、涙声だった。狭也はものも言えないまま立ち上がると、身分も作法もいっさいを忘れて駆けだした。
 稚羽矢が大王と呼ばれるようになってから、一年はたつ。近頃は立場というものをよくわきまえて、突飛な振る舞いをすることもほとんどなかった。息が詰まると言って政を放りだしたこともないし、科戸王が雷を落とすこともめっきり減ってはいた。
 おだやかにすぎる日々に、少々油断していたかもしれない。

 門衛は狭也を認めると頭を下げた。
「通してください」
 かたい表情で男は首を振った。
「お通しせぬよう、命じられております」
 むっとして、狭也は声をあげた。
「なら、とめてごらんなさい」
 こんなところでぐずぐずしているわけにはいかないのだ。



 寝床にあらわれた稚羽矢は、狭也をみつめてため息まじりにほほえんだ。
「どうした。あなたらしくない」
 一言も口をきかない狭也をおかしいと思っているのだろう。しかし、何かものを言って台無しにするわけにはいかなかった。
「口をきかないことにしたのか? そんなに怒っているの」
「御方、めっそうもないことでございます」
 稚羽矢はふしぎそうな顔をして、狭也のそばに腰を下ろした。汗ばんだ大きな手のひらが頬に触れた。顔をかたむけて、下唇をはむように稚羽矢は口づけをした。
「遠ざけられたような気持ちになる。あなたにそんなふうに呼ばれると」
 いらだちを隠さずに稚羽矢はつぶやいた。
「お許しを」
 ここで稚羽矢と呼んだらだいなしだ。
 すると稚羽矢は腹を立てたように口をつぐんだ。
「許せと言うのはわたしだ。昼間はあなたにひどく心配をかけたし」
「ご無事でなによりですわ」
 やさしく肩を押されて、狭也は寝床のうえにたおれた。いたく真剣な顔をした稚羽矢が間近でじっとみおろしてくる。吐息がかかるほどそばで彼のかがやく目を見ると、狭也はごくりと息をのんだ。着替えても、髪にしみついた煙のにおいはとれない。
(危なかったのだ。この人だって、けがをすれば痛い。火に焼かれれば、癒えない傷がつく)
 ふいに呼吸が苦しくなって、狭也は深く息を吸った。
(のんきな人ね。自分が死にかけたことをわかっているのかしら)
「お許しを、御方」
「それはもういい」
 稚羽矢はあきらかに怒っていた。
 呼び方が気にくわないのだ。それだって、仕方ないではないか。寝床のすぐ脇に置いてある衝立の向こうには、人がいる。狭也が稚羽矢を軽んじていると信じ込んでいる人たちが、いつ大王に失礼な振る舞いをしでかすか聞き耳をたてているのだから。

幽ノ弐サンプル1 心火(しんか)

2012.04.06.Fri.16:07
 足音をころすようにして、ゆっくりと寝間に足を踏み入れた稚羽矢は、灯台に揺れていたちいさな灯りを吹き消した。足下があやうくならないのは、明かり取りの高窓から、ほんのすこし月の光がさしてくるからだ。
 今夜は雲もない。明るい月を愛でての宴に、形ばかり杯をかたむけ、座が崩れたときに静かに抜け出してきたのだ。
(間に合わなかった)
 とうにやすんでいるとは思っていたが、稚羽矢はずいぶんがっかりして、ためいきをはいた。
(しばらく声を聞いていない)
 狭也の笑い声を耳にしていない。やさしく頬をなでてくれる手にふれていないし、はにかみながらほほえむ顔を見ていない。
 仕事が多すぎるのだ。やるべきことがあとからあとから出てきて、それをなんとかこなすうちに、日はすぎてしまう。一日はたいそう短い。
 朝がくれば狭也はいつのまにか起き出しているし、夜はこうして寝顔をみることしかできないのだ。
 せっかく寝息をたてているのに無理に目を覚まさせるのもなんとなく気が引けた。狭也とて日中はなにくれとすることがあるし、役割もある。
(大王なんて、この世の何よりままならぬものだ)
 ほんの一時、眠る人によりそって目を閉じるときしか、ぬくもりを感じられない。それはずいぶんつまらなくも腹立たしいことだ。
「狭也」
 上掛けをめくって、といた髪の流れる首すじに唇を押し当てると、とくとくと脈を打つのが伝わってきた。背中から腕を回してすべすべした手を握りしめ、身じろぎもしないで眠る人をだきしめた。
 しずかに目を閉じてみたが、ちっとも眠くない。それどころか、昼間は忘れていられるたぐいの不足が、今こそ思い出されて、本当に困り果てた。首もとのやわらかそうなくぼみから、稚羽矢はむりやり目をそらした。髪に埋めていた顔をそむけて、手をそっとはずし、背を向けて再びきつく目を閉じた。
 このままふれているとあとで狭也をひどく怒らせるようなことをしてしまいそうだった。月の淡い光をうけ、夜のそこに沈んでいるような狭也のしどけない寝姿とおだやかな顔は、何かもの言うわけでもないのに稚羽矢を落ち着かなくさせ、胸の鼓動をはやくさせるのだ。
「稚羽矢」
 息がとまりそうになった。
 振り返り顔をのぞきこんで、ただの寝言だったとわかっても、思わず笑みがもれた。
 しろいひたいから眉のあたりを視線でなぞると、まるで何かを感じ取ったかのようにまつげがふるえた。軽くひらいた唇が、まぐわいのときに甘い声をもらすのと同じ形だと気づいても、苦しいような気がするだけだった。いつもぎゅっと口をつぐんで声を出すことをこらえる狭也は、それでもたえきれずに息をつくとき、ほんのすこし唇をひらくのだ。そのわずかなすきが、口づけをこいねがわれているように見える。
 ひかれるように口づけをした。しかしおののきも震えもしない唇に触れても、それ以上に探りたいという気持ちがわいてこない。むりにでも押しさいて、熱をぶつけたいと思うほどの激しさは、すぐ近くにあり手が届きそうなのに、つかめないのがもどかしかった。
 胸を焦がす火を消してほしいのに。熾火をかき立てた人は、すこやかな寝顔でどんなよい夢をみているのだろう。
(せめておなじ夢をみられればいいのに)
 ため息ばかりがこぼれた。
  
 
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