あさましい夢~科戸王

2012.04.03.Tue.18:09
 寝床に横たわり目を閉じると、現ではけっして手には入らないものを、望んでやまないものを抱きしめることができる。
 何度も思いのままにした。
 夢の中までは現のことごとも追ってこないのをいいことに。
 目覚めたあとの後ろめたさは、口にも出せない。こんな想いをいつまでも大事にしまっていて、いいはずがない。しかし、捨てようにもすてられない。
 夢に出てくるあの人は、はじめこちらに背を向けていた。
 腰まで届くほどの豊かな長い髪を背でひとつに結び、質素な野良着に身を包んでいる姿は、あの人をはじめてみたときの村娘の装いだ。すこやかに伸びでた手足が川面のきらめきをうけてかがやくように見えた。
 その人はゆっくり振り返り、親しみと恥じらいのにじむ笑顔をみせてくれた。伏せた目をそっとあげ、まっすぐに見つめてくる。潤んだまなざしを、こうもためらいなく受け止められるのは、これが幻だとわかっているからだ。
 細い肩に手をそえて腕を引き寄せ、きつく抱きしめた。弾むように浅く速い呼吸をくりかえす人が、おずおずと背中に腕を回してしがみついてくる。口づけをこうように顔を上げる。
 傷だらけの手で触れることがためらわれるような、柔らかな頬を撫でると、うっとりと目を閉じる。震える長いまつげににじんだ涙を唇で吸い取る。このうえない甘露だ。
「姫」
「名を呼んでください、どうか。あなた」
 口づけのあと、かすれた声で言ったあの人は、いつの間にか、においやかな浅葱色の染衣姿で、すっきりと面輪のでるよう髪を結い上げていた。妻女の装いの人に、いっそうよこしまな欲があおり立てられる。じつに卑しいことだ。
(だからとて、なんだ)
 胸がきしむように痛んだ。望みのものを手に入れるのがそんなに悪いのか。夢の中だけでも、あの人を、恋しい人を腕に抱き、思い通りにしたい。そう思うのは罪か。
 ゆたかな髪に挿した花をひきちぎるように乱暴に結髪をとくと、ちいさな抗議の声もふさぎ奪うように口づけをした。拒むのははじめだけだとわかっている。やわらかな褥のうえに押さえつけ、ふと見下ろすと、信頼をいっさい預けたような目で見上げてくる。
「どうなさったの」
 やわらかな声が耳を打つ。悩ましい吐息を聞いていると、柔草で肌をなでられているかのように胸が鳴る。
「さあ、あなた。どうか、呼んでください」
 せかされるような焦りのなか、苦笑しかでてこない。名を呼べば、夢がさめる。共寝のまぼろしの中でさえ恋人のように振る舞えないのがあわれで、おかしかった。
「・・・・・・姫」
「いじわるね」
 息を乱しながらそういう人は、挑みかかるものを受け入れるときに、目を細めて苦しそうににらんできた。
「あなたはいつもそうだわ。本気では求めてくださらない。あたしを見てもくださらない。後悔しているの?」
「見ている。恨めしいのはこちらだ。夢はさめる。そなたは人の妻だ」
「あなたの妻よ」
 たえだえに、彼女は言った。
「国を捨ててくださるのでしょう? 輝の人々と和やかに手を取り合うなど、はじめから無理な話なのですもの」
 彼女は笑みをくずさない。
「・・・・・・はやく大王から奪って。あなたのおそばにこうしていたいのです。何度でも抱きしめてほしいの」
 夢ですら思いのままにならない。
 王は彼女をきつく抱きしめた。顔かたちはいとしい人でも、しょせん夢だ。むなしい、目覚めのときが苦しいだけのまぼろしだ。
 おぼれ続けたい。できることなら、現すら捨ててもいいと願ったこともある。
「そなたのためなら、何もかも捨てられる」
 だが、あの人には捨ててほしくはない。憎むより愛するほうを選ぶと言ったあのひとが、言葉をひるがえして憎しみを口にするのを見たくないような気がしたのだ。
「狭也」
 かすれた声でささやくと、抱きしめたまぼろしはこの上なくうつくしく、やさしく科戸王に笑いかけ、それからにじむように明け方の闇の中に消えていった。
 
 

妻問い~科戸王

2012.02.22.Wed.05:40
「何をしにきた? ここはそなたが来るべき所ではない」
 冷ややかなまなざしで、科戸王は言った。
「もはや、わたしが死んで潔白を明らかにするか、今すぐにでもここを去らねば人々は納得するまい」
 それを聞いた人が、驚いたように目をみはったのがわかった。
「申し開きをしないというのですか」
 籠め室の中は昼なお暗く、訪ねてきた人が立つ戸口から差し込んできた光がやけにまぶしく見えて、王は目を細めた。
「卑怯だわ」
 ささやく声に苦笑いを返した。
「・・・・・・卑怯か」
 罪人のように籠めおかれ、ひとり静かに座していると、様々な思いがこみあげてくる。浮かんでは消える記憶と、怒り憎しみ。しかしそれも三日目ともなると、濁流のような激しい感情のしたに沈んだ、あきらめがあらわれてきたのだった。
「なんとでも言え。いささか疲れた」
 狭也は足音も荒く室に踏み込み、王の目の前にひざをついた。まっすぐに見つめてくるまなざしが、日差しにおとらずまぶしくて、王は顔を背けた。
「あたしを見るのよ」
 狭也は厳しく言った。
「あなたは、一時の欲のようなもののために誰かを害するような方ではありません。いまさら言うのも腹が立つわ」
 王はかすかに唇をゆがめた。
「だとして、どうする。真実を言えるか」
 狭也はひるんだようにまばたきをした。そんな仕草すら胸をさわがせる。いまだにこの人への思いに引きずられている自分に驚きながら、王はつぶやいた。
 祝言の日から、もう四年がたとうとしている。その間に、いろいろなことがあった。稚羽矢と狭也の間に、まだ御子はない。そのことが大王の御代にさす、小さくはないかげりなのだった。
 五日前の晩、一人の娘が命を落とした。
 ふつうの死に方ではない。何一つ身につけず、結った髷はむざんにもこわれていた。放るように宮のはずれの池に打ち捨てられていたが、娘の父はなぶられ死んだ娘がかつての闇の者の手に掛かったにちがいないと、決めつけたのだ。娘が青白い手に握っていたのは、肩掛けにする織物だった。ふたつとないその模様を見れば、大王の妃がいつぞや織らせた布にちがいなく、それを闇の氏族の王たちに与えたともなれば、あわれな娘の父が言うところの犯人はあきらかだった。
「あの日、開都王はまほろばにはおられませんでした。あなたも、どこにいたかはあたしが知っています」
 科戸王はうめくように言った。
「それ以上言うな。やつらの思うつぼだ」
 五日前の晩、稚羽矢は開都王とともにまほろばを離れていた。科戸王はほんの慰めにと、狭也に笛を吹いて聞かせた。だれか、それを見ていたものがあったのだろう。妃と科戸王がその晩共にいたと、狭也の口から言わせたいのだ。あまりの不愉快さにへどがでる。
 人死が関わっていて、それが豪族の郎女となれば罪人を引き出さないわけにはいかない。うやむやにはできないのだ。
 あわれなのは娘だ。池から引き上げられたむくろを見たとき、王の心は一瞬にして戦場にいたころに引き戻されてしまった。力のないものが踏み蹴散らされ、泣くひまもないうちにあえなく事切れていくさまを、これまで何百何千と目にしてきた。
(なにが新しい国だ・・・・・・戦はまだ終わっていないではないか)
 身によどむような疲れを振り払えず、王は拳をにぎった。
 子があれば、だいぶ状況は違っていたろう。
 稚羽矢がほかに妃を娶らざるをえなくなったのも、二人に子が授からなかったからだ。こればかりは、どうしようもない。人の生き死には、思い通りになるようなものではないのだから。
 稚羽矢の怒りを受けようとも、彼らは大王の寝床からなんとしてでも狭也という邪魔者を追い出したいのだ。彼らの思いのままになる后の子を、唯一の日嗣の御子とするために。そのためなら、犠牲を喜んで差し出すようなやつらなのだ。嫌悪感に王は唇を引き結んだ。
「あたしに至らないところがあったのです」
 激しい目で狭也は言った。
「あの人を解き放つべきなのかもしれない。今まで、どうしてもその勇気がありませんでした。それは、あたしが弱かったからだわ」
「そなたはよくやっている」
 それしか言えないふがいなさが悔しかった。
「もう行け。わたしにかまうな」
 王は狭也を見つめた。まぶたの裏に焼き付けるように、そらさずにじっとみつめた。
「稚羽矢を見限るな。あやつは、そなたがいなければ光を奪われたもおなじだ。そばにいろ。・・・・・・そばにいてやれ」
 絞り出すようにつぶやいた言葉に、狭也は泣きそうな顔になるとうなずいた。
「そばにいます」
 一瞬、呆けたようになって王は目をみはった。ひざを床につき両手をのばし、狭也は王の頬をはさんで上向かせた。三日の軟禁に甘んじた男の顔に何を見たのか、狭也は唇をふるわせ、嗚咽をのみこむように引き結んだ。
「必ず疑いをはらして見せます。氏族の王であるあなたを、失うわけにはいきませんもの。もうわたしの愚かさのために、失いたくないのです」
 ひたいにやわらかなものが触れた。息が止まりそうになった。そば近くに見えた彼女の首元に、どこかで見た覚えのある管玉がさがっているのをみつけたのだ。
「・・・・・・どういうつもりだ」
 いつぞや贈ったものだ。贈ったことすら忘れていた。
「おぼえていらっしゃいますか」
 挑むように見下ろしてくる。かすれた声で王は言った。
「そういうところが、浅はかだというのだ。まだ持っていたのか」
 恥じるように狭也はうつむいた。
「恨まれてはいやですから」
 深いため息とともに、科戸王はささやいた。
「弁明などできなくなる。頼むから、早く行け」
「あら、弁明なさるの?」
 狭也はやさしくほほえんだ。この人にどんな場面であれ勝てる気がしない。目を見合わせたときから、すでに勝負はついているのだ。
 物憂さがどこかに行ってしまったことに王は気づいて、あさましさに我がことながらあきれてしまった。狭也が出て行くと、再び戸は閉ざされ、薄暗闇のうちに閉じこめられた。
 唇が触れたひたいを手のひらで押さえると、体がふるえた。腹の底からわき起こるおかしさがなんなのか、よくはわからなかった。
 生きるのに飽いていたまさにこのときに、数年前の不器用な妻問いに恋しい人がこたえてくれるなど、思いもしなかった。
 手に入らなくてもいいと、あきらめていた。それでも、思いは消せなかったのだ。いつからか、それでもいいと執着するのはやめた。あまりに苦しかったのだ。かわりに、目で追うことだけは自分に許した。
 この年月のうちに、狭也は美しくなった。喜びだけではない、悲しみや痛みも彼女を美しくした。玉に刻まれた傷さえも、王にとってはまぶしいものだ。
 恥じらいながら、恨まれたくないと言った狭也の顔をまぶたに刻むことができただけでも、十分のような気がした。
 科戸王は額にあてた手のひらを、唇に押し当てた。
 
 

恋におちた日~菅流

2011.11.21.Mon.04:07
 オグナ丸を隠した場所にたどりついたのは、もう日も暮れようというころだった。一刻もはやく出発しようとする遠子を落ち着かせ、たき火のそばに座らせると、今盾がのんびりと言った。
「夜が明けてから漕ぎだしたほうがいい。月も出ない晩だもの」
 遠子は頬をふくらませた。
「のんきなこと。あなたたちの故郷にまほろばの手が迫っているのよ」
 菅流は責めるような視線を感じて、遠子を見やった。妻問いどころか子守に終わった旅を、いまだにちょっぴり悔やんでいた菅流は、何を考えていたかお見通しとでも言いたげな遠子の軽蔑のまなざしを鼻で笑った。
「伊津母の国造どのは、まほろばの敵じゃない。むしろ、最高のもてなしをするはずだ。おれは、過ぎた心配だと思うがね」
 遠子は何も言わず、ぷいと顔を背けた。
 いっこうに口をきかない遠子に、さすがの菅流もむかっぱらを立てた。
「よう、いいものを見つけたぞ」
 水を汲みに行っていた扶鋤が、陽気な声をあげた。たき火をはさんで、むくれた遠子と押しだまった菅流を見て、扶鋤は小声で今盾にたずねた。
「遠子はまだ口をきかないのか」
 今盾は肩をすくめた。
「見りゃわかるだろう。最悪なのは、菅流までへそを曲げちまったらしいってことだ。
それより、何を見つけたって?」
「いで湯だよ」
 よせばいいのに、扶鋤は遠子にちょっかいをかけた。
「なあ、遠子も女の子なら少しは身ぎれいにしたいだろう。湯につかれば、たまった垢もきれいにおちるぞ」
 遠子はつんとして言った。
「けっこうよ。わたしはここで火の番をしているから、どうぞ、行ってくれば」
 ひざを抱えて、顔を伏せた遠子を、菅流はちらりと見やった。男たちは顔を見合わせたが、クマソの湯のことをみやげ話にでもしようと気楽に汗を流しに行ったのだった。

 湯につかっても気分は晴れなかった。菅流は枯れ枝を荒っぽくへし折って、火にくべた。
(遠子ときたら、怒るのだけは一人前なんだからな)
 腹が立つのに放っておけないのは、相手が子どもだからだ。
(おれたちがのんびりしているだと?)
 焦りがないと言ったら、うそだ。すぐにでも伊津母に帰りたい。今盾も扶鋤も、あえて言わないが同じ気持ちだろう。
(遠子の気持ちもいくらかわかる。まほろばのやつらというのは、なんともいやな感じがするからな)
 夜更けに火の番を変わってから、少し眠気に引きずられたようだった。はっとして顔を上げると、松の根本に丸まって眠っていたはずの遠子がいない。
 いやな予感がして、菅流は胸元から勾玉を取りだした。闇を照らすふしぎな光は、いまや二つになり、多少の暗闇などはものともしない明るさで足下を照らし出した。
 浜におりて、オグナ丸のとも綱がしっかり結ばれているのを確かめると、走るように野営場へ戻った。遠子はまだ戻っていない。用を足すにしても、遅すぎる。
(どこへ行ったんだ)
 菅流は再び浜へ走った。波の音にかきけされないように、大声で遠子を呼んだ。耳をすましても、こたえはない。
 まさか、泳いで? 菅流は闇をにらんだ。ありえないことだが、遠子はそれすらやってのけるような奇想天外な娘だ。
 崖の上でも探してみるかと後ろを向きかけると、すぐそばに遠子が立っていて、菅流はあやうく悲鳴をあげるところだった。
「何かあったの」
 かすれた声で遠子は言った。菅流の予想通り、ほほには涙の流れたあとがあった。
「ばか!」
 菅流は一声、怒鳴った。
 いつものようにわめけばいい。地団太を踏めばいいではないか。こっそりと一人で泣くなど、ゆるせないような気がしたのだった。
「一人でいなくなるな。心配したんだぞ」
 遠子は目を大きくした。そして、いやに素直にあやまった。
「ごめんなさい」
「何をしてたんだ、こんな夜の浜で」
「・・・・・・探していたの」
「何をだ」
「いで湯」
 誰もいない浜で泣いていたなんて、素直に言わないところが、じつに遠子らしかった。菅流はため息をつくと、歩きだした。
「ついてこい」

 湧きだした湯は、半月状にえぐれたくぼみに溜まって、深いところは腰あたりまでもあった。
「あまり遠くへ行くなよ。急に深くなるからな」
(おれはこいつの親父じゃないというのに)
 遠子を見ているとあぶなっかしくて、あれこれと口出ししてしまうのが、我ながらおかしく思えた。
 大岩に腰を下ろし、水音を背に聞きながら、菅流は目を閉じた。
(なぜなんだ。遠子があんなにも必死にまほろばの皇子を追うのは)
 故郷を滅ぼされた恨みをはらすためか。だとしても、娘の背に負うには重すぎる荷だ。
遠子の口から小碓命という名を聞いたときも、妙な違和感があった。命と呼ぶとき、憎しみだけではない、憧れさえ声にはにじんでいなかったか。
(おまえは本当に殺すというのか。そんな泣きそうな顔をして、細い腕で)
 できるわけがない。
 遠子が小さく声を上げた。あわてたような叫びだったので、菅流は思わず振り向いた。
「どうした」
「大丈夫、ちょっと指をひっかけたの。血が出ただけ」
「見せてみろ。指のけがもばかにできないぞ。・・・・・・あれだ、おれは目を閉じててやるから」
 水音が近づいてくる。菅流は目を閉じずに、それを待っていた。闇のなか、勾玉の光に照らし出されるうすっぺらな胸、丸みのない腰。遠子は菅流のまなざしに気づいても、乙女らしい恥じらいはみせなかった。
「うそつきね。目を閉じると言ったくせに」
 菅流は言い返せずに、差し出された手を取った。右手の親指の付け根を少し深く切ったようだ。流れる血はやけに毒々しく見え、白いひじまで伝うところだった。菅流は考えるより先に噛みつくように傷口に唇をつけた。
 血の流れを見て、女の白い股の内にはしる月のものが思い浮かんだ。
 つかんだ遠子の腕から伝わる脈は速い。ふりはらいもせずに、どんな目でこちらを見ているのだろうと、菅流はふと興味がわいた。傷口を舌でなぞると、遠子は菅流の頬をひっかいた。
「いて。それが礼のかわりか」
 傷口をおさえて、遠子は菅流をじっと見上げていた。それは、おそれと高ぶりの混じった目だった。
 これは少々まずいことになったと、菅流は目をそらした。遠子の視線はいつだってからっとしていて、なんの含みもなかった。だが、いまはちがう。
 菅流がうっかり女を見るように品定めをしたことを、遠子はわかっているのだ。傷に口づけしたとき、ふと気まぐれにわきあがってきたよこしまな考えに気づいているのだ。
「女じゃなくてわるかったわね」
 遠子はむくれたように言った。
「まだ怒ってるのか」
「・・・・・・いいえ。あなたにあやまりたかったの。八つ当たりをしたこと」
「八つ当たり?」
 遠子は顔をしかめながら、それでもむりやり笑ってみせた。
「小碓命がいないと聞いて、がっかりしたの。本当に、悔しかった。あなたに怒るなんて筋違いだって、わかってる。でも、どうしてかわからないけど、わたし、甘えてしまうみたい。あなたには感謝してもしきれないのに」
 菅流はしばらく呆然としてなにも言えなかった。男でも女でもない、貧相なちびっこでしかなかった遠子は、この世のものならぬ光に照らされて、なにやらやけにきれいに見えた。
 ふるいつきたくなる豊満さもなければ、艶もない。なのに、これほどいじらしく、抱きしめてやりたいと思った相手に、今まで出会ったことがなかった。
 そんなことを思う自分自身に、手ひどく裏切られたような気さえした。うるさいほど鳴る胸を、取り出して水底に沈めてしまいたいくらいだ。
(いくらなんでも、こいつに、それはない)
「感謝などいい。・・・・・・ほら、きちんと手当てをしないとたたるぞ。さっさとあがって、衣を着るんだ。このうえ風邪でもひかれたら、迷惑だからな」
(目を閉じておけばよかった)
 激しい後悔にさいなまれながら、菅流は頭を振った。  

あんな奴には、渡さない~科戸王

2011.11.19.Sat.04:07
「なぜこんなところにいる」
 馬をあずけて館に戻る途中で、里の道をぶらついている狭也をみつけた。
 思わずとがめるような声で言ったことを、科戸王はすぐに後悔した。まもなく暮れようという西の空を見上げていた人は、いまにも泣き出しそうに顔をゆがめていたのだ。
 まもなく春とはいえ、まだまだ寒さはきびしい。とくに宮からはなれた山里では、吹きおろす風にも粉雪がまじるときがある。上衣のうえに何も羽織らない肩がひどく寒そうで、王は顔をしかめた。
「お帰りが遅いものですから」
 狭也は顔をそむけたが、いくらかこの人の扱いにも慣れた王は、すぐそばに立って顔をのぞき込むようにした。
「かなわんな。これでも急いだのだが」
 狭也は何か言いかけたが、目が合うとひるんだように口をつぐんだ。
「そなたは、まだ慣れぬか。女主人として、振るまえぬわけでもなかろう」
「・・・・・・みなが、なんと言っているのか知っています」
 狭也は小さな声で言った。
「口さがないものがいたか」
「本当のことです。あたしは、つとめを放り出して、あなたのお気持ちに図々しく甘えたのです。本当は、頼ってはいけなかったのに」
 王は腕組みをした。狭也の細い体はよるべなく見えて、うっかりすると腕の中に引き寄せてしまいたくなるのだった。
「あなたはいらぬ謗りをうけてまで、あたしをかばってくれたのに。なにもお返しできないことが苦しいのです」
 強く手を引いて、王は歩きだした。狭也はしぶしぶといったようについてくる。
「大王の妃でありたかったか?」
 人気のない裏庭を通って、狭也が寝起きする離れについたころ、王は静かに言った。
「稚羽矢のそばに、いたかったか」
 答えは聞かずとも分かっていた。狭也は望んでここにいるわけではないのだ。
 祝言から四年がたった。稚羽矢との間に、まだ子はない。そしてついこの間、娶ったべつの妃とのあいだに姫が生まれたのだ。
「あたしがいては、あの人も気を使うわ」
「そんなわけがない。あれは、わたしをくびり殺さんばかりににらんでいたぞ」
 狭也はかすかにほほえんだ。
「にくいのはあたしでしょう。二度と離れないと言ったのに、もうこうして逃げ出している」
 伏した目をあげた狭也は、今にも泣き出しそうだった。
「本当だったら、この手に抱けたかもしれないと・・・・・・そう思うと、悔しいのです」
 二度授かって、二度も命は指のすきまからこぼれていった。狭也は気丈に振る舞ってはいたが、稚羽矢を遠ざけるようになった。狭也の悲しみは、稚羽矢にとってよく理解できないものらしかった。
 その間に、輝の人々が立てた新たな妃は大王を心を尽くしてもてなし、大王もそれにいつしかこたえたのだった。
「あたしは、少しだけほっとしているのです。子が産まれた今、あの人に非はないと明らかになりました。あとはあたしが身を引くだけでよいのです」
「稚羽矢は今夜、ここへ来る」
 狭也は目をみはった。おびえた顔からむりやり顔をそむけ、王はかすれた声で言った。
「そなたは水の乙女だ。闇の高貴な巫女姫なのだ。稚羽矢をまことに鎮めえるのは、そなたのほかにはいない」
「ここへきたのは、戻らない覚悟があったからです」
 狭也は冷たい声で吐き捨てるように言った。なじるような激しい声だった。
「あの人が来る前に出ていきます。ご迷惑をおかけしました」
 狭也は泣き顔を隠さずに、まっすぐに王をにらんだ。自分の言葉で自分が傷ついているようにしか見えない。
「稚羽矢を許してやれ」
 こんなことを、言いたくはなかった。
 稚羽矢など捨ててしまえと、そう言えればいいのに。宮での立場は、ときに身を縛るお荷物になる。自分の心のままに振る舞うことを、ひどく難しくするのだ。
 かなうことなら、稚羽矢の手の届かない場所にこの人を連れ去りたい。心ない宮の人々の中傷にさらされて、笑うこともなくなった狭也を、広い野にときはなってやりたい。
 少し手を伸ばせば、すぐに触れられるところに恋しい人がいる。ためらいがちにでも狭也が見返してくれるようになったのは、いつからだろう。
 男には知り得ない悲しみを飲んで、伏した顔を上げたとき、狭也は子を抱いていなくても母に見えた。生まれ落ちることのなかった子を思って泣く人は、すでに母なのだ。
 科戸王は狭也をみつめた。そらさずに、挑むように狭也は見返してくる。言葉のほかに、なにかを語ろうとするように。
 目が語ることを、聞けるものならば。
(氏族も何もかもを裏切って、おれはこの人の手を取るだろう)
 胸の震えを押さえるように、王は衣の胸元をつかんだ。

あんな奴には、渡さない~菅流

2011.11.18.Fri.04:07
 行くな。
 そう言って、本当は止めたかった。
 復讐して、どうなる?
 失われた故郷が戻るわけでも、大切な人が死出の旅から引き返すわけでもないのに。
(おれではわからないというのか)
 故郷を失ったことのない菅流には、遠子の切ないほどの気持ちなど、わからないのかもしれない。
 波打ち際で腹いせに重たく濡れた浜の砂をけっても、引く波にさらわれていくだけだ。
 遠子の乗った小舟は、もう見えない。こんなところにいても何もできないというのに、菅流はどうしてもここを離れる気にはなれないのだった。
 遠子を見送るのは、思った以上につらいことだった。女が戦いに行くのを黙ってみている男がどこにいるというのだ。
 しかし、これは遠子の戦いであって、いくらか手を貸したとはいえ、菅流が役目そのものを肩代わりをできるものではないということも、分かっていた。
 旅路の途中、遠子の様々な表情を見た。おどろくほど強いところがあるかと思えば、赤ん坊のように泣きじゃくる夜もあった。
 なき故郷を思い、復讐の相手となり果てた幼なじみを思って、遠子は涙を流すのだ。
 菅流に言わせれば、娘は憎むべきものを思って泣いたりしない。
 恋しい人を、殺せるものか。
「がきは、これだから困る」
 菅流は吐き捨てるようにつぶやいた。
 もし、もしもだ。
 遠子が女だったら、自分はこうして見送れただろうか。
(そうだ。追うのなどやめろと、おれはあとすこしで言うところだった)
 敵討ちなどやめてしまえと、手をつかんで離さなかった。御統をばらばらにして、ミドリを細い首にかけてやることもできたろう。
 そこまで考えて、菅流はうなった。
「いかれているぞ、おれは。くそ、こんなときにあいつらでもいればな」
 一人では笑い話にもできない。孤独というのはいやなものだと、菅流は頭を振った。
 | HOME | Next »