さざなみの子守歌

2013.04.01.Mon.13:20
 おいで、おいで、わたしのそばに
 おまえを包もう、あたたかなこの腕で
 ねむれ ねむれ、かわいい子

 波音が聞こえたような気がした。
 よく通るすんだ声と、折り重なるように響くさざなみの音は、現実のものではない。ここには、海はない。あの子も、いないのだ。

 寒気が背筋をはいあがり、鹿矢は我が身をぎゅっと抱きしめた。体のしんまで凍えそうだ。冷たい川の流れに腰までつかり、青ざめた唇を震わせながら、鹿矢はため息をころした。みそぎをして、けがれを落とす。今日は特別な日だ。
 吐きだす息は白い。
 生まれ育った故郷を離れ、鹿矢は十五歳になった年に都に召された。ここは比留女という女王の支配する国だ。
 高床の御殿は故郷のそれとは比べることもできないほど立派だ。長い長い階と、天にまで届きそうなほどの高みにある神殿は、日の光のもとまぶしく輝いて、夢にまであらわれたほどだった。
 立派すぎて、どうも身の置き所がない。ここへ来て半年も経とうというのに、鹿矢はなじむことができずにいた。
 故郷の浦辺の邑が恋しい。
 同じ年頃の娘たちがともに寝起きしているが、親しく言葉を交わすことは禁じられていた。年かさの女官が目付役としてそばにいて、つねに目を光らせているのだ。
 とらわれた鳥かなにかになった気分だ。自由に歌えもしないし、羽をのばすこともできない。
 息のつまりそうな日々を忘れることができるのは、豊与を思い出すときだけだった。
 一緒に浜で転げ回って遊んだこと、手をつないでどこまでも駆けたこと。海と空がぶつかるところを、目をこらして見つめ続けた日のこと。
 思いをはせるたびに記憶は鮮やかさをまし、あの子のかすかな息づかいや、笑い声までも、まざまざと胸のうちに描き出すことができた。
(豊与)
 声には出さず、鹿矢は宝物のようにその名をつぶやいた。

 豊与は、海をこえて外つ国からやってきた。
 肌を日ざしに焼かれた屈強の船人たちに守られるように、彼女は立っていた。肩までの黒髪が潮風にゆれ、あおざめた白い肌がきわだってみえた。
 鹿矢は一目見て、豊与をすっかり気に入ってしまった。きょうだいたちが気を引こうとしても、いっこうになびかないところもよかった。
 海を眺めていることが多かった彼女のそばで、鹿矢は同じようにものも言わず海を見つめていた。
 鹿矢にとって海は、豊かな実りを与えるとともに人の命を奪いもする、荒ぶる神の領域だった。
 けれど、豊与とともに眺め続けているうちに、海にもいろいろな表情があることに気づいたのだ。
明け方は、もやで沖がかすんでみえることがある。夕方、すみれ色に空が染まるとき。よく砧で打ってつやを出した、紫の薄い布を何十にも重ねたように、海はかがやく。
 ないだ海を眺めていると心が落ち着く。それは、豊与とともにいてわかったことだ。
 豊与は歌もうまかった。
 彼女が「おいで」と歌うと、人々はたちまち聞きほれた。荒れた海は鎮まり、やさしいさざなみを寄せる。暴れまわる風は、歌をかき消さぬよう、そよ風に変わる。皆はそうおだてて、豊与に歌をせがんだ。けれど、誰かに求められて歌うことは一度もなかったのだ。
「かえりたい」
 豊与がそうつぶやいたとき、鹿矢はとても驚いて、思わず声を上げたものだった。
「しゃべった!」
 歌うときのほか、豊与はしゃべらないものと思いこんでいたのだ。
「ねえ、どこへかえるの?」
 豊与はじっと鹿矢をみつめた。今はじめて鹿矢のことに気づいた風だった。
 豊与の瞳は、ずいぶん明るい茶色をしていた。みがかれた琥珀のようだ。
みつめられるとなんとなく居心地が悪くなって、鹿矢は手にしていた枯れ枝を遠くへ投げ捨てた。
「どこに、かえりたいの」
もう一度聞くと、豊与はつぶやいた。
「この海のむこう」
「来たばかりでしょう」
「・・・・・・来たくはなかった」
 鹿矢は立ち上がり、衣についた砂をぱっぱと払った。手を差し出すと、豊与はそっぽをむいた。鹿矢はすうっと息を吸い込むと、大声を上げた。
「うみへび!」
 すましている豊与が、悲鳴をあげて飛び上がったのはおかしかった。振り払うように上げた手を、鹿矢は力をこめて思いきり引っ張った。つんのめった豊与は、鹿矢にぶつかって一緒に砂の上にたおれこんだ。
「なにする」
 砂をぺっと吐き出しながら、豊与は口元をぬぐった。
「ばかね、うみへびが浜にいるもんか」
 砂まみれになった二人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出した。はじめてだ。はじめて、豊与が声を上げて笑うところを見た。うれしくて、鹿矢の胸ははずんだ。唇から白い歯がこぼれるのが、真珠を連ねたようで、きれいだと思った。
「あたしは鹿矢」
「鹿矢?」
 うれしい思いで、鹿矢は何度もうなずいた。しろい手を引いて、走り出す。松の小枝を踏みながら、ときに飛び越えながら。おなかのそこがくすぐったくて、笑わずにはいられなかった。
「まって、鹿矢!」
 息をはずませた豊与が、叫ぶように名を呼ぶ。夕暮れの林に、軽やかな足音がひびいた。

「心を込めてお仕えするのですよ」
 冷たく尖った声が響き、鹿矢ははっとした。
 年かさの女官長は、薄い唇を開いた。
「宮の女官とは一線をかくすのです。そのことをゆめゆめわすれてはなりません。身を捨て、心を捧げ、しっかりとさいごの時までお仕えするのです」
 すっかり聞き飽きてしまった。次に何を言うかもそらで言えるほどだ。
「いかなるときも、取り乱さず、粛々と仕事をまっとうすること」
 見知った人がいなくなり、新顔がいつの間にか隣に座っていたりする。入れ替わりはめまぐるしいといってもよく、いなくなった人たちがどこへ行ったのかも、鹿矢たちに明かされることはなかった。
(帰ったのだろうか、故郷に・・・・・・)
 故郷といえば、のこしてきた病気の母が気にかかる。
 母は、奴卑だ。浦辺の首長が戯れに母に手をつけ、鹿矢を生ませた。胸の病に悩まされるようになっても、仕事は減らず容赦もない。
 鹿矢がここへきたのは、母のためといってよかった。神殿の女官になれば、支度のために一山の財が与えられる。「おまえがゆくなら、母を世話する者をそばにつけよう」そう父は鹿矢に約束したのだ。

 神殿の長い階を降りてくる人の姿を、鹿矢は目を凝らしてみつめた。遠目にもその清げなありさまをのぞむことができた。まっさらに白い上衣に、朱の長い裳を引きずり、青あおとした榊を胸に抱くようにして降りてくる。解いたままの髪はすんなりと長く、腰まで届いていた。
 女王は長い間、この国を統治してきたという。なのに立ち姿は若々しく、背はすらりと伸びている。
(あれは)
 いつもは、ちらと姿を見せるだけなのに、今日はちがっていた。階の最後の一段を降りたその人は、顔を上げて居並ぶ女官たちを見渡したのだった。そして、かすかに唇をほほえませた。
(まさか)
 胸が急にはやく鳴り出した。
 あの子の顔を、忘れたことなどない。
 目を伏せ、かるく唇をかみしめるのは豊与のくせだった。どこを見るともなく視線をさまよわせるのも、頬にかかる髪をうるさげに払うしぐさも。
「豊与さまよ」
 だれがささやいたのだろう。胸がきしむように痛んだ。
(豊与)
 小声で言い交わすのが耳に届いた。
「比留女さまはどうなさったの」
「おかげんがお悪いのですって。儀式が滞っていたのもそのせいでしょう」
「はやく豊与さまに御座をお譲りになられたらよろしいのにね。もうずいぶんお疲れのようだし」
「ほれぼれするわ、豊与さまのお姿」
 目付役の咳払いが響いた。娘たちはつんと顔を上げ、たちまち押し黙った。
 まばたきするのも惜しくて目で追っていると、「豊与さま」はきゅうに立ち止まり、鹿矢のいるほうを向いた。
 かすかに笑んだ口元と、細められた目。
 息が止まりそうになった。
 きゅ、とすぼめられた赤い唇が、声もなく「か、や」と動いた。ただの気のせいなのか、それとも。

 その日、空は青く、雲ひとつなかった。
 夏草がうるさいくらいに茂って、風に揺られてなびいていた。ひざをかすめる青草の感触がくすぐったい。
 崖の上の野原にはだれもいない。豊与と鹿矢、二人のほかには。
「島が見える?」
 豊与はすぐには答えずに、髪をなびかせながら海の向こうに目をこらしていた。
「見える。泳いでいけそうだね」
 鹿矢は吹き出した。浦辺で一番泳ぎの上手な者でも、あそこまではとうてい無理だろう。それに、どんなに誘っても海に入ろうとはしない人が、泳いでいけそうだなんて真顔で言うのがおかしかったのだ。
 ちいさく鹿矢は声を上げた。草をつもうとしたときに、指先を切ってしまったのだ。豊与がかけ寄ってきた。
「大丈夫?」
 ほんのかすり傷だ。心配そうに見つめられると、痛さがかえってしみるようだ。
 豊与はそっと鹿矢の手を取り、血のにじんだ指先を口にふくんでやさしくなめた。母が子にするような、きょうだいが妹にするようなことだ。鹿矢は何も言えずに、ぼうっと突っ立っていた。すぐに血は止まった。
「平気か」
 豊与の顔が近くにある。白い頬と、すっと通った鼻筋。大きくなったら、どれだけの美人になるだろう。
 素性はわからないが、豊与は高貴な人にちがいない。首長の館で客人としてもてなされ、皆は「姫さま」と呼んでひれ伏しかねないほどだ。
 そんな人が、鹿矢をまるで妹のように扱ってくれる。
 ・・・・・・大きくなったなら。
 そうしたら、豊与の侍女にしてもらおう。やさしくて、うつくしい豊与のそばにいられるのなら、何もこわいものなどない。
「ずっと一緒にいられたらいいのに」
 豊与は笑った。大人たちにみせるような、一歩引いたような笑い顔だ。鹿矢はもどかしくて、傷のことも忘れ、豊与の手をぎゅっとにぎりしめたのだった。

 別れは突然だった。
 ある秋の日、野分が去るのと一緒に、彼女は遠くへ行ってしまった。
 さよならも言えなかった。
 ひとり夕暮れの浜にでた鹿矢は、何度も何度もくりかえし歌った。
 外つ国の歌、豊与ののこした歌を。口ずさむと、豊与がすぐそばにいるような気がした。

 「豊与さま」が、鹿矢の大切な豊与によく似ていたから。そんな理由で禁をおかすようなまねをして、見咎められたらただではすむまい。けれど、どうしても確かめなくては気がすまなかった。 
 同室の人を起こさないよう寝床を抜け出した鹿矢は、そうっと廊下に出た。頭から襲着を引きかぶり、衣のすそを持ち上げて冷えた板廊を踏みしめていく。
 廊の柱のかげに隠れ、なんとか見回りをやりすごす。奥に進むごとに、いっそう闇が濃くなるようだ。
女王の居室は左殿の最奥だ。明かりの漏れる室の入り口のまえで立ち止まる。歌が聞こえたのだ。鹿矢は、はっとして息をのんだ。外つ国のことばだ。
ふと、歌がやんだ。
「・・・・・・お入り」
 低い声が響いた。
 鹿矢は引きかぶっていた襲着をぬいだ。手がふるえている。歯の根があわないのは、寒さのせいか、それとも、禁を破っているおそれのせいか。鹿矢は、ほのあかるい室へと足を踏み入れた。

 広い室には調度のたぐいが一切なかった。板敷きの中央に床をのべ、横たわった人がいる。寝息をたてているようだ。
 灯台の明かりが、風もないのにちらちらと揺れた。しわが深く刻まれた、浅黒い小さな顔が布団からのぞいている。そのかたわらに女人が座していた。鹿矢を招いたのは、この人だ。
 つややかな黒髪が背に流れている。衣は飾り気のないもので、女官のそれより質素かもしれなかった。声を潜めてその人は言った。
「お眠りになったところだ」
 鹿矢は待った。その人が振り返り、目と目が合うそのときを。見交わせば、きっとわかるはずだ。
「そなた」
 視線が鹿矢を射抜いた。「豊与さま」は声をなくした。
「豊与・・・・・・」
 目頭が熱くなる。声をつまらせ、そう言いかけた鹿矢は、きゅうに手をつかまれ、乱暴に引き寄せられた。細身のどこにあろうかという、あらがいがたい力だった。
 あっという間に鹿矢は布団のなかに押し込まれてしまった。
「静かに」
 そうささやく声にかぶさるように、廊を歩いてくる足音と女官の声がした。
「御方、参りました」
「下がりなさい。今宵の伽は、豊与がする」
「ですが・・・・・・」
「比留女さまがそうお望みなのだ」
 湿ったしとねの中、枯れ枝のように細い足に手が触れた。鹿矢は、はっとして両手を胸の前に引っ込めた。
 白髪を波のように枕べに広げ、しわだらけの肌をさらした、老いた女。女王の住まう宮の最奥にいて、豊与が伽をするほどの人となれば、誰かはあきらかだ。
(比留女さま。女王さまなの)
 国を栄えさせてきた女王が、これほどまでに老いていたとは。
 女王は戦つづきの国を見事におさめた。すぐれた巫女王は希有な霊力をもち、その容姿はどれだけ年を重ねようと、若かりし頃のまま衰えない。人々はくちぐちに言い交わし、天を照らす女王と呼んであがめた。
 しかし、こうして寝床に横たわる人は、死からそう遠いところにいるようにも見えなかった。
「もういい。出ておいで」
 布団をそっとめくり、這い出てきた鹿矢と向かい合った豊与は、居心地が悪そうに言いよどんだ。
「やはり、あなただったんだね」
 眉根を寄せ、豊与は深くため息をついた。
「わたしがまぼろしを見たのならいいと、そう思っていた」
 会いたいと願っていたのは、鹿矢のほうだけだったのだ。悲しいより腹が立って、鹿矢はまっすぐに豊与をにらみつけた。
「豊与は、薄情だね」
「みつかれば、ただではすまないのだよ」
「なぜさよならを言ってくれなかったの」
 ずっと言いたくて、言えなかったことだ。豊与は目を伏せた。
「言いたくなかった」
 それきり顔を背けてしまう。
「ここにいるとわかっていたなら、あれほど泣かずにすんだわ」
「鹿矢」
 豊与は狂おしいものを秘めた目で鹿矢をみつめた。
「わたしは、あなたの知る豊与じゃない」
「豊与は、豊与よ」
 ひるんだように豊与は唇をつぐみ、潜めた声でささやいた。
「ここはあなたのいていい場所ではない」
「あなたがいるのなら、あたしもここにいる」
 豊与は首を横に振った。
「いけない、それだけは」
「なぜ?」
 口ごもった豊与を、鹿矢はせっついた。
「きちんと話して」
 寝床に横たわる人にちらりと目をやった豊与は、息を一つ吐き出してから、静かに立ち上がった。
「・・・・・・おいで」
 差し出された手は、驚くことに鹿矢の記憶にあるのより、ずっとずっと大きかった。思わずふれるのをためらうほどの、骨ばった、かたそうな手だ。
 豊与は苦笑いをして手を引っ込め、暗い廊を先に立って歩きだした。扉をいくつかくぐり抜けると、いつのまにか、はだしの足につめたい土が触れた。細い坂道を降りてゆくと、いつしか二人は雪のふる川原に立っていた。流れる水音を聞いていると、身も凍るようだ。
 ちょうど満月が雲から顔を出し、二人を照らし出した。向かいあってみると、豊与はゆうに頭一つぶんは背高かった。
「寝ている人を見たろう」
「比留女さまなの?」
 豊与はうなずいた。
「あの人は、巫女などではない」
「比留女さまは、日を隠すこともお出来になるのでしょう?」
 かつて国が乱れていた頃。わずかな軍を率い、敵の矢も届こうという小高い丘に身をさらした女王は、昼を夜にしてみせた。それを見た人々は矛を下げ弓をおろし、服従を誓ったのだ。
「日は昇れば沈む。夜は必ず明ける。いつ日が隠れるか、知っていたとしたら?」
 鹿矢は身震いをした。
「そんなことが、わかるわけないわ」
 豊与は鹿矢の手をきつく握りしめた。
「知恵は力だ。戦つづきのこの国を、平らげるには畏怖される力がいる。招かれたのが、おばの比留女だ。わたしの一族は、星を読み、地に流れる脈を読むことができる」
 川原が雪に白く染まっている。豊与のほほに、ひとひらの雪が落ちて滴になった。
「おばの知識には、大事なものが欠けていた」
 差し出した豊与の手のひらに降り落ちた雪は、すぐに溶けて消えていく。
「一族の後継の男子のみに伝えられる、暦の知識だ。日がいつ隠れるか、星がどのように動くか。これは政にかかわる重要な秘密だ。父はきっと、他国へ行く姉へ餞別を持たせたつもりだったのだろうね。けれど、〝奇跡〟  は、一度では足りなかった」
 ひれ伏した人々の前で、比留女はなにを思ったのだろう。
「わたしをさらうようにこの国へ連れてこさせたのだ。足りない知識のすべてが与えられていると知っていたから」
 豊与は顔をゆがめた。
「館が焼き払われるところを見た。炎が空をこがしているのも、はっきりと見たんだ。父も母もきょうだいたちも、どうなったか・・・・・・」
 涙をこぼす人を、鹿矢は抱きしめた。
 抱きしめたはずなのに、腕が回りきらない。豊与の肩に顔をすっぽりうずめた鹿矢は、親鳥の羽に抱え込まれるように抱擁されたことに動転して、体をかたくした。
「豊与。豊与?」
 信じられないが、豊与は、男だ。
 きつく抱きしめられて、息が止まりそうだ。身動きしても、かたい腕はびくともしない。
「わたしが、いつ女だと言った」
 あわてる鹿矢をよそに、平然と豊与は言った。
「だって・・・・・・豊与は女の名だし。姫と呼ばれていたじゃない」
「男が王になると国が乱れるという。わたしは豊与という娘に仕立てあげられた。男の姿など、もう何年もしていない」
 鼻先がふれあいそうなほど間近で、豊与は鹿矢をじっとみつめた。
「がっかりした?」
 顔が熱くなる。正直を言って、なんと言ったらいいのかわからなかった。
「まあいい」
豊与は唇をゆがめた。
「あなたの命は危険にさらされているんだ。このままでは、明日には・・・・・・」
 鹿矢はごくりと息をのんだ。
「あす、日が隠れる。比留女のかわりに、わたしが新たな女王となる。神に捧げる供物として、あなたは選ばれたんだよ」
 鹿矢はきつく抱きしめられた。
「お逃げ。あなたを死なせたくない」
 鼓動を打つ胸と胸があわさる。鹿矢はおそろしさにふるえながら、豊与の首筋に顔を寄せた。
「ずっと一緒にいたい。豊与が男でもいい」
 驚いたように豊与はまばたきをした。
「ほんとうに?」
 見つめあうだけで、こんなに息苦しい気がするのはなぜだろう。胸が鳴り、頬がほてるのは、どうしてなのだろう。
 豊与は鹿矢の顔を上向かせ、そっと口づけをした。しおからい海の味がする。唇を離したあと、豊与はほほえんだ。
「きっと、迎えに行く。だから、待っていて」

 夜明けまでにはまだ時がある。
 抜け道を通り、鹿矢は宮の外へと急いでいた。寝床にいないことを知られる前に、一足でも遠くへ行かなければならない。
 暗い道は細く、曲がりくねっている。しかし月の明かりがたしかに足下を照らしてくれた。見上げれば、雪が月を煙らせている。
 もうすぐだ。欄干を飛び越え、鹿矢は凍えた土を踏みしめて走った。景色が変わる。板葺きの質素な家が、ひしめくように立ち並んでいる所へ出た。
豊与の腹心の女官が、ここで待っているはずだ。
 数歩さきに誰かが立ちふさがった。一人ではない。「捕らえろ」 押し殺した声が響いた。
 はっとして身をひるがえすなり、強く突き飛ばされた。転んだ鹿矢の前に松明がかかげられた。
そこにいたのは、目付役だった。片ほほをゆがめ、彼女はあざけるような声音で言った。
「御方をたぶらかし、情けを得るとは。なんと卑怯で汚らわしい」
 肌があぶれるほど近くに、松明をぐいと近づけ、目付役は吐き捨てた。
「あのお方は、そなたなど足下にも寄れぬ希有なお方なのだ」
 いいざまに拳で殴られ、鹿矢ははいつくばった。目がくらむ。手をついて身を起こしたとき、なにか生あたたかなものが、手元をじっとりと濡らすのを感じた。
ゆらめく松明の炎が、ざっと足下を照らした。一面、土が血に染められていた。投げ出されたふくよかな手と、血に染まった衣・・・・・・神殿の女官がうつぶせに倒れている。鹿矢は悲鳴をあげた。
「お立ちなさい。お役目を果たすときが来ましたよ」
 切り裂くようなまなざしには、哀れみすらない。鹿矢は捧げられる供物でしかないのだ。それが今こそわかったとて、救いにもならない。

 そまつな小屋には、手を縄でくくられた娘たちが押し込められていた。川音が聞こえてくる。もしかして、みそぎをした川のそばかもしれない。
泣くものもいれば、ぐったりと身を伏せているものもいる。
 日がもっとも高いところに昇ったころ、小屋の戸が開いた。一人、また一人と娘たちが引き出されていく。
 命乞いを耳にしているうちに、かすかな望みも消えてしまった。暗い絶望にひきずりこまれてしまいそうだ。
 とうとう一人きりになった小屋の中、鹿矢は目を閉じた。体のふるえがとまらない。
やがて、小屋の戸が開く音がした。
 鹿矢が信じたいのは現実ではない。
 信じたいのは、豊与の言葉だけだ。やさしいまなざしだけだ。それだけでいい。
 海を眺めていた幼い豊与は、子守歌をくりかえし歌い続けていた。故郷からさらわれ、親きょうだいから引き離されて、理不尽な役目を押しつけられて。
「かえりたい」
 そうつぶやいた幼い声が、波音とともに耳の奥によみがえった。
 目に涙をためて、じっと海の向こうをにらんでいた横顔が、いとおしかった。
(泣かなくていい。もういい)
 海の向こうには、何があるのだろう。豊与の故郷か。それとも支配も強制もない、みしらぬ王国だろうか。
 川原には白い衣を血に染めた男たちがいる。祝いに捧げるけものを屠るように、何人かの娘たちを殺したのだ。
 鹿矢は引きずられながら、ふるえる声で歌い出した。
「おいで、おいで、わたしのそばに」
 さざ波が浜に寄せる音が、かすかに聞こえてくるような気がした。
海は、どこか遠くへつながっている。どこでもいい、逃れられるのなら。そこへ行けたらいい。豊与だけでも、できることなら。
(豊与!)
 空がへんに明るい。すべてのものの影が長く伸び、鳥のさえずりもやんだ。
(日が、消える・・・・・・)
 豊与の言ったとおりだ。
 太陽が隠れる。昼は夜に変わり、国の人々は凶事だと叫ぶだろう。
 古い女王のかわりに、新しい女王が立つ。
 豊与が神殿に現れれば、新たな太陽として、国人は彼をたたえるのだろう。
 風が吹き、あたりは大きな御手が幕をひいたように暗くなり始めた。引っ立てる男の手がゆるんだすきに、鹿矢は身を引きはがすようにいましめから逃れ、走りだした。
「鹿矢」
 呼ぶ声がする。うすやみのなか、石につまづき鹿矢は倒れこんだ。しかしすぐに起き上がり、駆けだした。
「鹿矢!」
 あの人だ。力いっぱいに、鹿矢は駆けた。
 さざなみの打ち寄せる音が聞こえる。
歌が、聞こえる。空耳ではない。
 遠い国の歌だ。
さざなみの子守歌が、いま、聞こえたのだ。

一品妃(おうひ)のお茶

2013.01.31.Thu.05:00

 ちょうど里の入り口にたどりついたとき、風が強く吹いた。
 思わず編み笠をおさえたほどの強風だ。
 都から七日の道のりをゆき、船に乗り込み、凪海を揺られること丸一日。切り立った山が間近に迫ってくるようだ。港を離れると、あとは埃のまう道がどこまでも続くばかりだ。
(なんと寂しいところだ)
ひとつ、嘆息する。足下に何かが落ちているのにホバクは気づいた。かがんで手に取ったそれは、娘の髪を飾る細い布だった。
 羽ばたく鳥と、まさに咲き出したばかりといった可憐な花が、赤い布地に黄色い糸で縫い込まれている。若い男が手にするのが戸惑われるような、作り手の思いがこもってみえる品だ。ホバクは埃をそっとたたき、ていねいに畳んだ。
 人も物も雑多とあふれた都から、遠く離れた山里のここゴヒャンで、良家の子女の結い髪を飾るような布を見たことで、なぜかホバクは胸がうずくように痛むのを感じた。
「おじさん、それ返しておくれ」 
 かわいい声がした。泥でうすよごれた頬をぬぐいもせずに、くたびれた茶色い衣を身につけ、どうも身の丈に合っていない、だぶだぶの袴をはいたやせた子は、ぐっと顔を上げてホバクをにらんでいた。
 顔だちは悪くない。潤んで見える目は、はっとするほど強く輝いている。
「おじさんってば、耳遠いのかな」
 ホバクは咳払いをした。
「こちらの里の子は、目上への礼儀というものを知らないのか、そうか。知らないのか」
 頬をふくらませた子は、顔を背けた。
「泥棒に身を伏せて挨拶などしませんよ。それ、さっさと返してください」
 小憎らしい口をきく。
「そなたの持ち物には見えぬが」
 細い眉がきっとつりあがった。背筋をぴんと伸ばし、見上げてくる瞳の力は、たいそう強い。
「おじさんは目も悪いの?」
 かん高い声で叫ぶと、ホバクの手から布をひったくるようにして奪った。
「あたしは、娘だってば」
 そう言われてみれば、娘に見えないこともない、かもしれない。ちらりと頭によぎったしとやかな娘の姿と、目の前にいる子が、あまりにちがうので、たいそうおかしかった。
 大事そうに懐に髪飾りをしまい込むと、娘はホバクを横目でにらんだ。
「こんな山奥まで、誰かを訪ねてきたの?」
 ホバクはうなずいた。
「茶園はどこかな。ちょうどいい、リ・ジャンイン殿のもとに案内してはくれないか」
「茶園に、何のご用です」
「王様のご命令だ。よいから案内しなさい」
 振り返った娘は、恨めしいまなざしをしていた。
(たしかに、娘だ)
 男なら、こんなふうに人をにらむまい。
「道を教えてくれれば、礼をしよう」
 懐の財布をならしてみせると、銭の鳴る音を聞きとめたか、娘の耳がぴくんと動いた。
「名は?」「・・・・・・ビチュイ」
 ふてくされたような声で言う。
「翡翠か。いい名だね」
 たちまち耳が真っ赤にそまった。ホバクは急いでよそを向き、なんとかふきだすのをこらえたのだった。

「男の子と間違えなさるなんて」
 乳母のハニョンがあきれたようにそうつぶやいた。
何も言い返せない。客人と出会ったとき、ビチュイは汚れてもかまわない男物を身につけていたし、畑仕事のあとだったので、顔にも泥がこびりついていた。
客人の笑顔を思い出すと、なぜかへんに胸がくすぐったい。
背の高い、細身の男。笑い声をきくと、見た目ほど年を取っていないことがわかった。編み笠のへりをあげてほほえむその面は、整っていて涼しげで、見つめられると気後れしてしまうくらいだった。
「王様の命って、なんだろ」
ぬらした手布で顔をぬぐい、衣を着替えると、ようやくほっと息がつけた。
「茶園に甕を買いに来る人がありますか?」
 ハニョンは笑った。
「都では、近々、競茶が催されるそうですよ。
国中から集めた茶を飲み比べ、どれが一番おいしいか決めるのです」
「ふうん」
「ゴヒャンの一品茶なくして、なにが競茶ですか。王様がお求めになられるのも当然です。ヘンウン様のお茶ですもの」
 この国の世継ぎの王子の母であるヘンウン様は、ここゴヒャンでお生まれになった。かの方は、大勢の侍女の中から王様に見いだされ、身分から言えば望みうる最高の地位、一品妃にまでのぼりつめた。
 王様はヘンウン様と同じくらい、ゴヒャンの茶を愛した。いつしか茶は一品茶と呼ばれるようになったのだ。
 ビチュイはためいきをこぼした。
 それならどうして、一品茶はいま「毒茶」と呼ばれるのだろう。茶園は荒れ果て、ビチュイの父は多くのものを失った。この地を訪ねてくるものなど、いまはめったにない。父とビチュイ、そして数人の使用人には、この家は広すぎる。
ハニョンは、ビチュイに青い上着をきせかけながら、こう言った。
「まあ、よくおうつりになる」
 うかない顔のビチュイをせっつくように、ハニョンは言った。 
「さあ、おもてなしをしてきてくださいね」

 父の居室の前でビチュイはそっと呼吸を整えた。
「まさか、あなた様がお越しになられるとは」
 父の抑えた声が聞こえた。いつもより早口で、聞き咎められるのをおそれているかのようだった。ビチュイは戸にかけた手をとめ、そっと聞き耳をたてた。
「遅すぎたほどです。私に力がないばかりに、苦労をおかけしました」
「なんというもったいないお言葉でしょう」
 父のむせび泣く声に、ビチュイは息をのむ。
「あのとき、あなた様は八つでいらした。ご立派になられて・・・・・・」
「受けたご恩は、忘れたことはありません」
 客人は低くささやいた。
「競茶のことはご存じでしょう」
 ビチュイはつばを飲み込んだ。
「もっとも優れているものを決め、褒美をも与えようと王様はお考えです」
客人は、はつらつとした声で続けた。
「国一番を決めるなら、あまねく国中の茶葉を集めねばなりません」
 我慢できずに、戸をすぱーんと開けたビチュイは、客人に詰め寄った。
「うちのお茶を、一品茶を、王様がお飲みになられるんですか」
「これ! 不作法な」
父の声も、耳には入らなかった。
 客人は眉をひそめてビチュイをにらんだ。
「なるほど、そういう格好をすると、いよいよ娘に見えてきた」
「泥は拭いました」
 顔を高く上げると、吹き出す声がした。客人の肩が揺れている。
「衣は美しいが、あまりになまめかしいな」
 そう言いながら、笑いをかみ殺している。視線を感じて足下に目を向けると、裳のすそから素足がのぞいていた。
 夫にしか見せないようなものをさらすのは、大変はずかしいことだ。
 とっさに伏礼をして足を隠すと、それっきり顔があげられなくなってしまった。
「伏して礼などしないのではなかったか」
 追いつめるように客人はからかった。
「いたらぬ娘でございまして」
 ホバクという人は、何者なんだろう。父の様子からすると、ただの使者というわけでもなさそうだ。
「どうか、私を信じて一品茶をわけてはくださいませんか」
 へりくだりながらも、否とは言わせぬ力がある声で、ホバクはそう言ったのだった。

 笹藪がざわざわと音を立てる、曲がりくねった山道を、黙々とのぼっていく。
着替えずについてきたことを、ビチュイは後悔していた。日陰の道はぬかるんでいて、どんなに注意しても泥はねがついてしまう。
 狭く急な道をのぼりきると、ふいに視界がひらけた。丘にはりつくように、畑があった。茶は青あおとしげり、柔らかな新芽をのぞかせている。つみ取られるのを待ちわびているかのようだ。
「亡きお方の・・・・・・ヘンウン様の願いを賜り、こうしてわずかながら残して参りました。しかし、王様に献上することだけは、ご容赦ください」
「財と名誉を取り戻す好機なのですよ」
「ないならないで、気楽なものです」
「しかし」
「あなた様がこの茶葉を持ち帰られたなら、王宮に波が立ちます。お命すら、あやうくなりかねないのですよ」
 ビチュイは目をみはった。
「どういうことです」
 命が危ないのなんのと、ぶっそうな話だ。
 父は険しい顔で言い出した。
「十年前のことだ。ヘンウン様は、王様のお茶に毒をいれた疑いで、王宮を追われなさった。そのことは、おまえも知っているだろう」
 ビチュイは大きくうなずいた。
「ある日、王様の毒味役が茶を飲んで倒れた。疑われたのは、ヘンウン様だった。侍女をつかわず、茶の用意をすべてご自分でなさっていたので、申し開きはできなかったのだ」
 冷たい声で、ホバクはあとを続けた。
「そのとき、そなたの父上が、ヘンウン様をかばって王様にこう申し上げた。供されたのは王様のお好みであられた一品茶だ。非は茶にこそあると。葉についた虫を取り除くために使った薬が、残って湯に溶けだしたせいだと。ジャンイン殿が、ああ申し上げなければ、ヘンウン様には謀反の汚名がきせられていたことだろう」
 父の青ざめた顔をビチュイはみつめた。
 茶についた虫も、雑草も、すべて人の手が取り除く。茶葉に触れる手は、赤子を揺するようなやさしいものだ。
 ヘンウン様を守るためとはいえ、一品茶にまとわりついた悪名は、父にとって不本意なもの。誰より胸を痛めているに違いなかった。
 父の声はただ苦い。
「王子様をお生みあそばし、王様からの寵愛も篤かったヘンウン様が、毒など盛る必要はない。少し考えれば誰にでもわかること。それなのに、ろくな取り調べもないまま、次の日にかの方は王宮を追われ、戻ること叶わぬままお亡くなりになった」
 あまりに慌しい。寵妃であれば、なおさら妙だ。この事件そのものが、芝居めいて見えるのは、その性急さのためだ。
 ホバクは鼻を鳴らした。何かを嘲弄するような面もちになると、別の人のように見えた。
「悪者は大胆で、ずるがしこい。反論を封じ、力を誇示し、周りを従えるのさ。ときには、王様すらも召し使う」
 信じられない。それが王宮なのだろうか。
 だとしたら、なんておそろしい所なのか。 
 ホバクは深く息を吐き、空を仰いだ。
「母の故郷をずっと見たかった。このようにさびしいところだったとは」
 ホバクは笑ったが、それはどこかひきつっていた。ビチュイは裳をぎゅっと握りしめた。
 父の態度、そして、話の成り行き。ビチュイは目の前に立っている人を、信じられない思いでみつめた。
「王子、様・・・・・・?」
 ヘンウン様の産み参らせた、国でただ一人の男の御子。世継ぎの王子様だ。
 肝が冷えるようだった。ここが王宮なら、すぐさま首をはねられるような暴言を吐いた気がするが、こわくて思い返すことなどできそうにない。
 ホバクは、うなるように言った。
「いかにも。私を世継ぎと認めたくない人も、星の数ほどいるがね」
 そう言う人と、目があった。おかしな顔をしていただろうか。たえかねたように彼は吹き出した。物憂い表情は消え、ビチュイをからかうように目を細めた。
「気楽にしておくれ。ただ、私はまだ十八歳だ。おじさんと呼ぶのはよしてくれないか」
「あ、あれは、その」
「ビチュイ!」
 父の叱責に身を縮めると、ビチュイはホバクを盗み見た。
(ヘンウン様の子ども。この人が)
 ビチュイが六歳の頃、かの方にお茶を差し上げたことがある。
 茶碗からこぼれた滴を白い指でぬぐい、おいしそうにヘンウン様は飲み干してくださった。やさしい笑顔は、今でもはっきりと思い出せるのだ。

 夜のとばりのおりた頃。客人の寝床を整えていたビチュイは、部屋に入ってきた足音に気づいて声をかけた。
「ハニョン、あの方の着替えは大丈夫かな。背が高いから、父様の着物だとすねまで出るかも」
「いかにも、すねがでるな」
 小さな部屋に、若い男の声が響き、床板がきしむ音がする。
「すねが、で、で、でますか?」
「ああ、見てごらん」
 ひざまづいたビチュイの目のはしに、大きな足がつきだされた。
 悲鳴をあげそうになって、それでもなんとか飲み込んだ。
 くつろいだ格好で寝床に横たわったホバクは、濡れた髪を肩に流し、眠そうにあくびをした。
「狭い部屋ですが、どうぞごゆっくり」
 気まずい思いで、ビチュイは目をそらした。
「ご用がなければ、これで」
 小さな含み笑いをきくと、背筋に鳥肌が立った。
「気楽にせよと言ったのに」
 灯台にともした火がゆらめくと、横たわる男の姿が現実のものではなく、ゴヒャンの山からときおり這い寄ってくる霧が作り出す、幻のようにも思えてくる。
 疲れをためた黒い目が、じっとビチュイをみつめている。呼吸のたびに上下する肩が、ゆるんだ襟もとが、見てはならぬと思うのに気になって、気になるという自分が恥ずかしくて、とても平気な顔をしてはいられない。
「お待ち」
 呼び止められただけなのに、顔がほてり、胸が鳴る。これはどう考えても、悪い病気ではなかろうか。
「あの髪留めを、なぜつけない?」
 風にとばされ、ホバクに拾われた赤い髪留め。ビチュイは深く息を吸いこんだ。
「汚すといけませんので」
 ホバクは不思議そうに目をしばたいた。
「それほど大切なものか」
「お慕いする方がくださいました」
「相手は誰だ。ゴヒャンの山にすむ精霊か?」
 ビチュイは唇をひん曲げた。
「冗談だよ。そんな顔をするものではない。嫁に行けなくなるよ」
「行けなくったって、かまいません」
「ふうん。ずっと独りでいるつもりか」
「いつか、山の精とでも結婚します。精霊は山の気を食べるんです。米が減らなくていい」
 ホバクは声を上げて笑った。
「私はどうだ? 独り身だし、まあ、今のところ食うには困らないが」
 困らないどころの話ではない。頬をふくらませたビチュイは、黒い瞳に射抜かれて、はっとした。
「まっすぐな目をしているな。そこがいい」
 顔がほてる。たまらずビチュイは立ち上がった。言い含められた礼儀も何もかもがすべて吹き飛び、ただこの人のまなざしから逃げられるのなら、はだしをさらして笑われてもいいとさえ思った。
「気がのらぬか。それは残念」
 ホバクはほほえんだ。あくびをかみ殺し、目を閉じた。
 
満月がほのじろい輪っかをともなって、雲もない夜空にうかんでいた。
 床をのべ、横になってはみたものの、ちっとも眠れずにビチュイは庭におりた。すこやかに寝息をたてるハニョンがうらやましい。
 庭を照らす月明かりのした、きざはしに座り込んだホバクをみつけた。
 眠れないのだろう。
 月が明るすぎるせいか、それとも、ビチュイと同じように、押し寄せてくるとりとめのない思いが眠らせてくれないのか。
 ビチュイは寝間着であることもわすれて、しばらくの間、月を見上げる彼の姿を、息を潜めてみつめ続けたのだった。

 長い夜が明けた。
 空が白み、鳥がさえずり飛ぶさまを、こんなにもほっとして眺めたことなどない。
片づいた部屋には誰もおらず、父の姿も見えない。
 思いつく場所と言えば、茶畑しかなかった。
 ビチュイは、まだ薄やみのなかに眠っているような里内をぬけて、なれた山の道を上っていった。
 枯れた笹群のむこうに畑が見えたとき、もうもうと白い煙が立っているのに気づいて、ビチュイは思わず声を上げた。
 山を降りてくる霧などではない。
 燃えているのだ。父が、心をこめてひっそりと作り続けた一品茶が、煙に包まれている。
 ビチュイは駆け出した。畑に放たれた火は、吹き寄せてきた風をうけて、勢いよく燃え上がった。
 なめるように火が茶畑をのみこんでいく。脱いだ上着を両手で振り上げ、ビチュイは火をたたき消しにかかった。煙が目にしみて、涙がにじんだ。
 新芽が焼け焦げる音が聞こえてくる。ぱちぱちと、やわらかい葉が燃えていく。
 煙の向こうに、父が立っているのが見えた。手には、火のついた松明を持っている。なぜ。どうして。
 父は、自らの手で大切な茶畑に火をかけたのだ。今年初めての茶、甘くてみずみずしい、やわらかな茶葉だったのに。
 ヘンウン様は、茶を守ってほしいと言い残された。父はその約束を、一日たりとも忘れることはなかったはずだ。それなのに、なぜ。疑問が頭を埋め尽くした。

 やがて、火は消えた。
すべてを焦がし、台無しにして。
「どういうつもりです」
 いつのまにそこにいたのだろう。ぼうっと立ち尽くしていたホバクは、固いしわがれ声で言った。
 朝の日差しが、たなびく雲の切れ間からのぞき、彼の顔をてらした。途方にくれた子どものように、ホバクの顔はくしゃくしゃだった。
「なぜです」
 父は草の上に座り込み、頭を地にこすりつけて平伏した。
「ヘンウン様とお約束いたしました。この茶は、決して、政治の道具にはしないと」
 解き髪を汗で頬にはりつかせ、手も衣の袖口も真っ黒にしたホバクは、顔をゆがませた。
「なぜだ」
 悲鳴のような叫びだった。泣き濡れた頬のまま、空をあおぐように彼は顔を上向けた。開かれた口から、声にならない嗚咽が漏れ出てくるようだ。
「十年前の事件・・・・・・」
 伏したまま、父は言った。
「あの日の毒味役は王后様の息のかかった者。証拠もございましょう。それをうやむやにできるほど、かつては王后様のお力が強かった」
 ビチュイはホバクから目を離せなかった。
「でも、今はちがいます。流れは変わりました。王后様に御子はいらっしゃらない。ホバク様をもり立てる勢力が大きくなってきている。そんな中、あなた様ご自身が、母たる一品妃、ヘンウン様ゆかりの地にお越しになられた。この意味を、問うまでもございません」
 父はつっかえながら、早口に言った。
「事実を今こそ、明らかになさろうと、王様はお考えなのですね」
 ホバクはうめいた。
「このホバクの願いでもある」
 抑えた声に、怒りが滲んでいた。
 父は頭を地にこすりつけた。
「事件の真相を明らかにすれば、必ずや王宮が血で染まります。憎むものと同じところに、大切な王子様が立たれることを、ヘンウン様は何よりおそれておいでだったのです」
 ホバクはかすれた声でささやいた。
「母上は、亡くなったのだ。この寂しい土地で、夫にも子にも看取られぬまま。その無念を、はらしたとて、お喜びにはならないと?」
 どれくらいの時がたったのだろう。
 肩を落とし、山の道を降りていったホバクを、ビチュイは追えなかった。追っていったとして、何が言えるだろう。
 権力を得るために、毒を茶に仕込ませた人。そして、茶をつかい、恨みを晴らさんとする人。
 この地で、ヘンウン様はいったい何を思ったのだろう。
「都に残した、泣き虫の男の子が心配なのよ。気がかりは、それだけ。元気が出るビチュイのお茶を、あの子にも飲ませてあげられたらいいのに」
 おいしいお茶だ。飲む人を幸せにする、一品茶はそんなお茶なのだ。
 ビチュイは顔を上げた。火と煙にあてられて、ぴりぴりする頬をゆがめて、足をもつらせながら、屋敷にむけてビチュイは走り出したのだった。

 屋敷の表門のところに、所在なさげに立っていたホバクの腕を、ものも言わずにビチュイは引っぱった。
 台所のそまつないすに彼を座らせ、ビチュイは腕まくりをした。
 茶をいれる。十年前、ヘンウン様にそうしたように、ただ、おいしい茶をいれることだけを考えて。
 ほつれた髪が目にかかった。頬がしみると思えば、ビチュイはしらぬ間に泣いていたのだった。
 小さないすがきしんだ。座り込んだホバクは、疲れ切ったようにうなだれ、顔を両手で覆っていた。茶碗を置くと、ビチュイは静かに言った。
「どうぞ」
「欲しいのは、一品茶だ」
 低い声でホバクはうなった。
「つみ取られたばかりの若い芽だ。王様の競茶に、味の劣るものを出すわけにはいかない」
「いいから、飲んでください」
 のろのろと顔を上げたホバクは、憤りと落胆に青ざめていた。しばしの無言のにらみ合いの後、しぶしぶといった風に彼は茶碗を手に取った。
 一口含むと、ホバクはかるく目をみはった。
 あっという間に飲み干すと、問うように見つめてきた。そらさぬ視線にほほえみを返すと、ビチュイは薬缶をかたむけ、ふたたび茶をそそぎ入れた。ふうと息を吐きかけながら、ゆっくりと飲み干したホバクは、やがてかすかに笑った。
「一杯目で、渇きが癒えた。二杯目は、ほどよく熱い。味が濃く、深いな。香りもいい」
「ヘンウン様に教わったんです。飲む人のことを考えるのが、おいしいお茶をいれるコツだと」
 ビチュイはまっすぐにホバクをみつめた。胸元から赤い髪留めを取り出し、そっと手渡した。そのとき彼のかたい指先に手が触れたが、ビチュイは鳴る胸を押し隠して、口を開いた。
「この髪留めは、母を亡くしたばかりのあたしのために、ヘンウン様が作ってくださったものです。しばらくの間、あの方はこの家で過ごされました。まるで母のように、あたしを膝に乗せ、甘えさせてくださった」
 ホバクの火脹れのある手のなかに、大切な髪留めがある。胸がうずいて、苦しくて、息ができなくなりそうだった。
「あなたは、ここを何もないさびしいところだと言いましたね。でも、ヘンウン様はゴヒャンが一番美しいとおっしゃった。何もなくとも、ただあるべきものがあるように、汚されずに残っている。この場所が、好きだとおっしゃったんです」
 大切な人のためにお茶を入れる。健やかであるように、願いを込めて。
「この世がすべてゴヒャンのようならばいいな。・・・・・・真心など、王宮にはない。まぼろしだ」
 ホバクは厳しい顔で首を横に振った。布を持つ手に、力がこもった。
「すべてが偽りだ。人をあざむき、け落とさねば、自分の身が危うくなる」
 あざわらうように彼は唇をゆがめた。
「ですから、お茶を、いれさせてください」
「もう十分だよ」
「今日、この時だけではなく」
 うわずった声で、ビチュイは言った。
「明日もあさっても、元気の出るお茶をいれてさしあげます。きっとよく眠れるようにもなります。ヘンウン様のお心を教わったあたしを、どうか、連れて行ってください」
 突飛な申し出に聞こえたに違いない。問うようにホバクはビチュイをみつめた。
「ビチュイ」
「聞いてください。ヘンウン様は、どなたも恨んではおられなかった。それがずっと不思議だったんです。でも、今は、ようくわかります」
 物思いから立ち直るとき、苦しみを振り払うとき、一服のお茶が助けになる。そして、心の通い合う誰かがそばにいさえすれば、共に飲む茶はますます美味になり、苦しみを溶かすだろう。
 ヘンウン様は、王宮のだれにもなしえぬ仕事をなさったのだ。激務と心労で眠りの浅い王に茶を差しだし、気をひく昔話を語って聞かせ、安らかな眠りを誘った。
 王后から差し向けられた悪意にも、悪意で返すことはしなかった。
「天が、人々が望むなら、多くの幸福があなたのもとにおとずれるでしょう」
 ホバクの目に、かすかな光がともった。何かに思い当たったように、彼はうなずいた。
「母上の口ぐせだ」
 ホバクはため息を吐いた。
「時機をみろ。焦るな。そういうことか」
 いずれは王位をつぐ人だ。今は多くの反対があるだろうが、きっとこの人は国を率いる王になる。
(大勢のために生きる人なんだ)
「意のままにならぬと、憎しみをつのらせていては、醜い争いになるばかり・・・・・・。あいわかった」
ホバクはため息をつき、苦笑した。
「このようにたしなめられるとは、思ってもみなかったな」
 ホバクはふいに真剣なまなざしをした。
「じっとしてごらん」
おずおずとビチュイの頭をなでたあと、赤い髪飾りをほつれかけたおさげの先に結わえてくれた。
「なかなか似合う」
物もいえず目を丸くするビチュイをよそに、毛先をつまんで、そっとホバクは鼻をよせた。
「いくらか、焦げたな」
「かまいません。髪はまた伸びます」
 ホバクは笑みをこぼした。それは、今までビチュイが目にしてきたのとは違って、どこか傷つきやすい、しかしみずみずしい意気を秘めた、若者らしい笑みだった。
「なんとでもなると、そんな気がしてきた」
 照れくさそうにビチュイをみつめる。
「そなたのおかげだ」
胸がぽっとあたたかくなった。
凍えるほど寒い冬の夜に、茶の満ちたお碗を手のひらにのせたかのようだ。
 この人の手をとるということは、険しい危険な山道をゆくよりも、もしかしてずっと困難なことなのかもしれない。・・・・・・そうだとしても。
 ビチュイはうなずき、ただほほえんだ。

真玉手、玉手さし枕き【イワノヒメ×オオサザキ】

2012.11.18.Sun.17:00
秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ

秋の田の 稲穂のうえにかかっている朝霞のように いつになったら わたしの恋は晴れるだろうか
                                 (万葉集巻第二 八十八)






 あの日の野は、これほど晴れやかではなかった。
 とつぜん降った春の雨に、髪も衣もすっかり濡れてしまったのだ。雨音もつめたい肌ざわりも、今となっては遠い幻だ。
 あのとき手を引いてくれた人は、どんなお顔をしていただろうか。
 やぶのなか、目と目を見交わしたあの人は、あまりに遠い。
 ただこの腕に巻きついている真玉の手纏だけが、秘めた恋を知るよすがなのだ。



「あなたがいらっしゃらなければ、わたしは一日とて暮らしてはいけません」
 幼さの残る甘えた声でそう言った夫に、伊波(いわの)姫はほほえみかけた。
 春の野は一面に青草がしげり、鳥が歌いさえずっている。風はただやさしく、頬をなでてとおりすぎていく。
 宮をでることにしてよかったと、久々にはればれとした気持ちで姫は夫をみつめた。ちかごろ物思いすることが多い夫は、まぶしい日差しのもとで過ごすことを、心から楽しんでいるようだ。
「なにをおっしゃいます。御方が健やかでおわしますからこそ、国人も心やすく暮らしをたてることができるのですよ」
 十八歳で結ばれたとき、夫は六つ年下の十二歳だった。
 末の子が跡を継ぐという一族のならいにより、政をまかされた若き大王は、多くのことを妻の一族に頼った。
 大王は妻を姉と呼んで慕った。膝枕をせがみ昔語りを枕べで所望する大王は、伊波姫にとっては守るべき弟のような存在なのだった。
 手に手を取って、国づくりをする。それは大王の大后になったときに課せられた役目だ。
 伊波姫。家を継ぐ姫としてうまれたことを、誇りにして生きてきた。それは、これからも変わるまい。
「姉上」
 何度たしなめても、夫はそう呼ぶのをやめないのだった。
 同母のきょうだいのようだと、そうささやく声が耳に届く。
「政のことを話しているのではありませんよ」
 そばにきて、手を取る夫を姫はみつめた。いつのまにか伊波姫の背を追い越してしまったのだろう。口よりもよくものを言う表情豊かな瞳は、今まっすぐに姫を見下ろしていた。かすかに笑いながら、それでもどこかいらだちをにじませた視線にさらされ、落ち着かなくなる。
「お心がさまよっているみたいだな」
 ぐんと背が伸び、顔つきからもあどけなさが消えてたいそう凛々しくなった。
 打ち解けた気安さがいくらかこの人を稚く見せたとしても、御座での振る舞いに関しては非の打ち所もなく、臣や連を束ねて堂々としているという話だ。大王は、もう子どもではないのだった。
(大きくなられた)
 そういえば、ちかごろは膝枕も昔語りもしていない。
(大人になられたのだ)
 それが我がことのようにうれしく、なのに、どこか寂しいような気持ちがするのが妙だった。
「どうか、そのお手をのべてください。しろくてやさしいお手を」
 歌いかけるように、美しい声でそう言う。
 大王の美点のひとつは、このやさしい声だった。
 どんな命令も、この人の声で下されれば聞かずにはいられまい。やわらかで、しかもたわまぬ不思議と強い声だ。
「今夜は一緒に寝ましょうよ。このところ、はぐらかされてばかりでしたね」
「そんな大きなお声で」
 目を伏せて、姫はささやいた。
「あなたのところに、今日こそは招いてもらいますよ。いやだと言ったって、むだですからね。あなたの好きな藤の花を持って、お伺いしようかな」
 侍女たちがうっとりとため息をもらした。姫はしぶしぶ、夫を見つめ返した。
「藤の花にひとしく麗しいあなた。どうしてわざわざお尋ねになるのでしょう。わたしの寝床は、あなたがあたためてくださらなくては。恋しいあなた」
「その言葉を待っていました」
 にっこりと笑い、さっそく藤を探しに人をつかわしたようだ。
「さあ、皆も藤を探せ。どんなつれない方も、藤の花が衣の下紐のようにうつくしく垂れているのをみたら、心やわされて招き入れてくれるかもしれないよ」
 供人たちが駆けていく。侍女たちの華やいだ声が野に響いた。
 高い空に、楽しげな笑い声が吸い込まれていくようだ。
 空は広く、雲は心地よさそうに流れていく。
 しかし、胸のうちは春の野と同じとはいかなかった。
 笑みがぎこちなくこわばってはいないだろうか。
 皆人の前で、取り乱すわけにはいかないのだ。
(この人ときたら・・・・・・)
 ため息をほほえみに隠して、姫は目を伏せた。
 侍女にかしずかれた幼い王子たちのもとへ、父たる大王は機嫌よく歩み寄っていった。そうして二人の御子を肩に乗せ、笑いながら歩き回る様子はほほえましいが、同じだけ人の目が気にかかった。
 野遊びに招かれた人々は、今夜も大王が宮にとどまると聞いて、がっかりしたことだろう。
 大后として、ほかの妃のことも思いやるのは勤めのうちだ。
 幸いなことに、大王と伊波姫の間にはすでに二人の王子がいた。このうえは、ほかの多くの妃たちとの婚いで、さらに絆を強めるべきなのだ。
 なのに、大王はすこしもよそを訪ねようとはしない。
 伊波姫の嫉妬のせいだと、陰口をささやかれるのがつらかった。
(政をないがしろにしているわけではないのに)
 野に出ていながら、心は地の底深くに縛りつけられているようだ。晴れやかな空をみて気持ちが晴れたのはほんの一瞬で、すぐに日々の憂いが胸をしめてしまう。
 政のためにこそ、葛城の伊波姫は今ここにいるというのに。
 葛城は古い大和豪族のひとつであり、大王の一族とはもっとも因縁の深い間柄といってよい。何度も繰り返された戦いののち、手を組み国づくりを始めた今、婚姻によって豪族たちの結束を強めるのは必須のことなのだった。
(大王はまだお若い)
 十五という齢ならば、もっと外に出て妻を求めてもいい。やんわりと諭しても、しかし夫は姫の願いなど聞く耳ももたないのだ。
 幼い頃から、泣いた顔も怒った顔もずいぶんと近くで見てきた。きっと、同母のきょうだいよりも近くで。
 もし初寝の相手が夫だったなら、これほど苦しむことはなかったかもしれない。
 藤を捧げられた夫が、こちらに手を振っている。伊波姫は袖を振り返した。
「浮かないお顔ですね」
 木陰に入ると、ふと声がかかった。木の間からさす日差しが、枝をよけて頭をさげた人の衣の肩口に、まだらに影をおとしている。
「お久しぶりです、伊波姫」
 胸が高鳴った。低い声が肌をぶつようだ。注がれるまなざしに顔が熱くなる。
「お疲れですか」
「・・・・・・山城若郎子どの」
 太刀を履かない身軽な装いは、ひどくめずらしかった。
 兵を率いる将軍として、白銀のよろいかぶとに身を包み、威勢をしめす姿が目に刻まれているせいだろうか。それとも、何年も前の春の野での記憶が、焼きついているせいか。
 心の奥に隠そうとしても、思いはいつの間にかあふれ出してくる。
(押しとどめても・・・・・・)
 そうして、姫の心を昔に縛りつけるのだ。真玉の手纏を贈ってくれた、その連なった石と同じくらいにきらめいていた目を、ことあるごとに思い出してしまう。
「目がくらんだだけです」
「人を呼ぼうか。やれやれ、あなたの侍女まで藤狩りに遊びほうけているじゃないか」
「いいのです。たまには、こうした楽しみがなくては」
 声が震えた。身をよじり、顔を背けても視線が追ってくるようだ。
「あなたはやさしいね」
 いたわりに満ちた声だった。
「王子お二人の母上とも思えない。やはり変わらずお美しいね。大王の寵愛の揺るがぬあなたのことだ。また身ごもられたのでは」
 なにも言い返せなかった。
 それは本当ならば大変な吉事だというのに、心から喜べもしない自分がひどく薄情に思われた。
山城若郎子は、薄い唇に笑みを浮かべた。
「守人をつとめるのも楽ではないと、大王にそう愚痴を申し上げにきたのですよ。だが、あなたのお顔を見たら、物憂さなどたちまち吹き飛びました」
 山城若郎子を慕うものは多いときく。
 前大王の御子でありながら、都から遠く離れた辺境の守りを命じられたこの人は、ほとんど王宮に顔を出さないものの、大変な人気があるのだった。郎子を一目見ると、人を逸らさぬ笑顔に心引かれずにはいられないのだ。
「ご冗談を・・・・・・」
「冗談なものか」
 声を潜めて、目を合わせる。
 一瞬、雨音が聞こえたような気がして、姫は目をみはった。
「最後にお会いしたのは、もうずいぶん前だね」
 それ以上口に出さずとも、通じるものがあると思うのは、思い上がりなのだろうか。
「もう、お忘れになったかと思っていました」
 ふるえる声で伊波姫はつぶやいた。
「忘れるわけがない。その手纏を」
 はっとして、伊波姫は左の手首をおさえた。
 そのあとに何を言いかけたのだろうか。彼はさっと青ざめてひざを折り、頭を垂れた。供人をひきつれた大王が、近づいてきたのだった。
「やあ、兄上」
 突き刺すような声に、身が凍る心地がした。大王が異母兄に対して、こんな風に冷たい物言いをするのはめずらしかった。
「わたしのもとにくるのが先では?」
 あからさまな嫌悪をあらわすところなど、みたことがない。
「あなたが軍を率いねば、戦は長引いたでしょう。今日の野遊びは、あなたをねぎらうためのものでもある」
「恐れ多いことでございます」
 くぐもった、聞き取りにくい声で山城若郎子は言った。
「山城の訓練された兵に守られていると思うと、心強いことだ」
 大王は冷たい声でそう言ったきり、あとは一言も口を開こうとはしなかった。



 そうそうに宴席から離れて自室に戻った姫は、脇息によりかかるように顔を伏せて、目を閉じていた。侍女が運んできた白湯に手をのばすのもおっくうだった。
 不穏な話を耳に挟んだのは、そんな晩のことだ。
 うめくように姫はつぶやいた。 
「山城若郎子どのが、謀反?」
 背筋にざわざわと悪寒がはい上ってくる。 
「どこからそんな話が出たのだろう。あの方が、そんなおそろしいことをお考えのはずがないだろうに」
「大王の仰せです」
 細い侍女の声に、胸がさすように痛んだ。顔を上げると、まだ幼さののこるあどけない顔立ちをした娘は、ただ驚いたように見つめ返してきた。すぐに不作法に気づいたか、平伏して早口で言った。
「若郎子さまが、杯を落としてしまわれたのです」
 体を起こすと、姫は鳴る胸を押さえた。
「杯を?」
「飲み干されるたび、何度も重ねてお与えになられました。山城若郎子さまのお手が滑り、杯が落ちたのを見て、御方はお笑いになったのです。与えた杯を落とすのは、二心があるからだと」
 姫はわき上がってきた怒りのままに、脇息を叩いた。
「大后さま」
「あの方をそのように軽んじることは許されません。母は違えども、前大王の御子、きょうだいだというのに」
「大后さま、御方のお怒りはごもっともかと」
 震える声でそういう娘を、姫は見つめた。
「どういうこと?」
 といただそうとしたところに、先触れがあった。
 姿を見せたのは気安い相手で、今一番顔を見たい人でもあった。
「女鳥姫、よく来てくださいました」
 穏やかで言葉数のすくない姫は、今年十四になったばかりだ。大王や山城若郎子にとっては異母妹にあたる人で、数多くいる前大王の娘のなかでもっとも美しく清げで、穏やかな性質をもった姫だった。
 年下ではあったが、伊波姫にとっては心を明かせる大切な相手で、友とも呼べる人なのだった。
 女鳥姫の唇は青ざめて、かすかにふるえているようだった。いつにもまして静かな姫は、けれど伏せた顔をあげたとき、見たことのない強い目をしていた。
「どうなさったのです」
「月を見に参りましょう、大后さま」
 か細い声は、しかし断ることを許さぬような力があった。

 この晩は、満月だったのだ。
 廊に出てひさしのむこうの月を見上げていると、白く輝く光の中に吸い込まれてしまいそうになる。
「きれいね」
 女鳥姫の姿は、月光の中で淡くにじんで見えた。肩にかけた襲が天女の衣のようで、伊波姫はしばしみとれた。
「すぐに欠けてしまいます。満ちた月は悲しいですわね、大后さま」
 月を見上げる横顔が、ひどく思い詰めているように見えるのは、気のせいではなさそうだ。
「あなたはお美しくなられたわ、女鳥姫。さながら、欠けることを知らぬ月のように」
 年若い大王と、彼の美しい異母妹はさぞかし似合いの妹背になることだろう。
「大王はあなたのことをたいそう大事になさるでしょう」
 仲立ち人をまじえた話し合いはうまくいったはずだ。大王は近いうちにこの人のもとを訪れることだろう。葛城と同じく、大王家とも縁の深い丸邇(わに)一族の姫であれば、妃として何の不都合もない。
「夫を心から慕っております」
 か細い声は、はっきりと耳に届いた。突き放すようなとがった声だった。かける言葉もみつからないまま、伊波姫は立ち尽くした。泣いているかのように潤んだ目には激しさがある。
 そのとき、なぜ大王ではなく、他の人の面影が浮かんだのか。「姫?」「大后さま、お願いでございます」
 打って変わって懇願するように、女鳥姫はとりすがった。その面には、隠しきれない恐怖があった。
「どうか、大王に申し上げてはくださいませんか。わたくしは、夫のほかに誰かを迎え入れることなどできません。いとしいあの方のほかには、だれも夫と呼びたくないのです」
 手を取られ、伊波姫は息をすることも忘れたまま、黒曜石のような姫の濡れた瞳をみつめた。
 差し出された白い腕に、手纏がみえた。
 真珠の丸玉を連ねた、うつくしい品だ。
 これほどのものは、二つとあるまい。伊波姫の持ち物のほかには。
 細い腕に重たげに巻きついた手纏を見たとき、いったい自分はどんな顔をしていただろうか。
 伊波姫はそればかりが気にかかった。
 


 夫婦の寝床には、まぐわいの匂いがみちている。
 夕暮れのころから降り出した雨は、幾重にも垂らされた帳のようだ。だれも踏み込んではこない臥所の奥には、熱くけだるい吐息が満ちている。
 手を引いて誘いかけ、思いのままに振る舞った夫は、それでも鬱憤をつのらせた目で、射抜くように姫を見つめた。
「御方?」
「まだ足りない」
 半身を起こした人は、姫の顔をじっとのぞき込んだ。
「慰めてくださいますか」
「知りません。勝手になさったらいいんだわ」
 かすかに大王は笑った。
「怒っていますね。この間、隼をつついたからですか」
 つついたどころの騒ぎではない。
 大王の一言は、何よりも重いのだ。謀反を疑われた山城若郎子が、どれだけ心苦しい思いをしているか、思うだけで気の毒だった。
(女鳥姫のことも)
「ああなさるべきではありませんでした。取り返しのつかないことになったら、あなたを恨みます」
「わかっていますよ、我が身の浅はかさに、吐き気がします」
 少しも悪びれない言い方は、憎めるものではなかった。
「あなたときたら。本当に怒りますよ」
 静かにささやくように、夫は言った。
「あなたはわたしをいまだに同母弟のようにお思いなんだな。それがくやしい」
 驚いて伊波姫は言い返した。
「同母のきょうだいと、枕いたりはしません」
 ほほをかるくつねると、そっぽを向かれてしまった。
「また子どもの扱いをなさる。わたしは、それほど頼りない?」
 しとねに押しつけられるが、苦しくはなかった。寝床は、あたたかく身を包む安全な巣のようなものだ。姫は苦しげに眉をひそめた夫を、細く息をつきながら見上げた。
いくつもの夜を、この人と過ごしてきたのだ。
「わたしがあなたに、ひとつでも」
「なに・・・・・・なんですって?」
「勝るところがあるとすれば、いくらか早く産まれて、あなたをお待ちしていたということだけ」
 問うように夫は見つめ返してきた。
「ずいぶんあなたを待っていたのですから、少しばかり知ったふりをしてもいいでしょう? 大鷦鷯(おおさざき)」
「姉上」
 切ない声がそう言った。
「あの人のことはお忘れください。高い空を飛ぶ鳥のことは」
「わたしの大鷦鷯、ほかの鳥のことなどしりません。麗しい、やさしい鳥のほかに、気にかかる方などわたしにはいないわ」
「そう?」
 笑みこぼしたが、目だけは光っている。
「あなたはうそをつくとき、わたしと目を合わせる。そのことに気づいていましたか? いつも高い空を見上げているあなたに、わたしはさぞ滑稽に映るでしょうね。鷦鷯のようにたくさんの妻を持てと、そうせっつかれてもしないのは、あなたが恋しいからなのに。のんきなあなたが恨めしい」
 伊波姫は押し黙った夫をみつめた。物言いたげな瞳はゆれていた。
「あなたに明かすことがあります。あなたの秘密を、わたしは知っているんだ」
「秘密?」
「野遊びの日のことです。あなたが十八で、まもなくわたしの妃になろうという日のこと・・・・・・とつぜん雨が降りましたね。みな草のかげに隠れました」
「なんのことでしょう」 
 腕から逃れようとしたものの、きつく抱きしめられた。
「逃げてはいけない」 
 押し殺した声で、夫はささやいた。
「兄と共にいるのが、だれなのか。はじめはわからなかった」
 腕の力は強く、むき出しの肩に押し当てられた唇は熱かった。
「あなただとわかったとき、わたしがどれだけ兄を憎んだか、おわかりになられますか。許せなかった。あなたはわたしのものだと、ずっとそう思ってきたのだから」
 胸がこれほど痛むのが不思議だった。よく見知ったはずの夫が、見知らぬ男に思えておそろしくもあった。
「あなたを意のままにした兄を、憎みました。でも、あなたのお顔を見て、思いとどまったのです。あなたは雨の降る前とは比べようもないくらい、美しく泣いておられたから」
「なにを・・・・・・」
「慕わしい。憎いのに、こうしてお顔を見ずにはいられない」
「大鷦鷯」
「このうえ、あの人をかばい立てすることはできない。恋敵に情けをかける余裕はありませんから」
「冗談はきらいだわ」
「・・・・・・冗談なら、どんなにかいいのに」
 夫は怒ったようにつぶやいた。
「大王として、威厳を示さなくてはならない事態になってしまったのですよ。ご存じでしょうね、女鳥姫のことは」
 息をのむ音が、やけに大きく耳に響いた。
「兄と争うことは避けられないでしょう。焚きつけて、煙がどう流れるか、一緒に見ていましょう」
 夫のあたたかな指が下唇をなぞった。そうされてはじめて、唇をきつくかみしめていたことに気づいた。
「兄を想っていてもいい。あなたがわたしを見なくても。だから、お願いですから、ここでお泣きなさい。わたしの目の届くところで」
 そう言う人のほうが、今にも泣きそうな顔をしている。伊波姫は夫の頭をだきよせた。そのとき、ほのかな汗の香りとともに、結い髪に挿してある藤の花びらが頬にふれたのに気づいた。かすかな香りが鼻の奥に忍び込んだ。
 伊波姫は、涙にぬれた夫のまなじりに、くちづけを贈った。



 王宮を辞したのち、山城若郎子はすぐに身を隠した。女鳥姫がそのかたわらにはいたという。
 大王の妃となるはずだった女鳥姫と通じた罪は軽くはない。丸邇一族もこれを重く見て、娘を一切かばいだてしなかった。
 わずかの手勢で山里に逃げ込んだ二人は、名も知らぬ侘びしい村で討ち取られた。
 山城若郎子の仕立てた軍は、決起するまでもなく散りぢりになった。謀反の事実は今となってはたしかめようがない。

 知らせを受け取ったとき、ただ、むなしさが胸をしめつけるようだった。
 庭におり、伊波姫はひとり池の縁にたたずんだ。
 どんな気持ちで、女鳥姫はあの人についていったのだろう。
 もし、初寝の相手が彼でなければ、女鳥姫は死なずにすんだだろうか。
 胸元から真玉の手纏を取り出して、伊波姫はじっとながめた。
 女鳥姫の肌のぬくみをいまだにとどめたような白い手纏を、どうしても手放せずにいた。見つめていると死に魅入られそうになる不吉な品だとわかっていても、ふれて確かめずにはいられなかった。
 これとほとんど同じ手纏を、伊波姫はいままで恋のあかしとして身につけてきた。
 一族の大姫としての役目を果たそうとして、むりやり胸の奥におしこめた恋心。手纏だけがより所だった。
 妻求ぎの品でもなく、約束の証でもない。おそらく、肌を合わせた相手に気まぐれに与えてやるような、そんな情けのきれはしだったのに。
(なぜ逃げたの)
 女鳥姫のことを、なぜかりそめの恋の相手として捨て置かなかったのだろう。なぜ、伊波姫の手を取ってはくれなかったのだろう。望めば、あの人は一緒に逃げてくれただろうか。
(・・・・・・愚かね。本当に)
 突き上げるように怒りがこみ上げてきた。
 伊波姫は力任せに手纏をちぎり取った。
 ぽろぽろとこぼれた真珠がはかなくて、頼りなくて、いっそう腹が立った。緒はすぐにちぎれるほどのものだったのに、どうしてこれほど頼みにしてこれたのだろう。
 恋を一筋に思い切れる、女鳥姫ほどの強さも自分にはない。ともに滅びることもできないくせに、ただめそめそと誰かを憎んでいる。
 強く愛することもせず、ただ愛されたいと望んで。
 ふたつの手纏を、伊波姫は青く藻のたゆたう池に放った。
 音もなく沈んでいく真玉は、暗闇にぽつぽつと灯された光のようにきらめきながら、水の底へ沈んでいった。
 ふと、藤のかすかな香りが鼻をかすめたような気がした。
(まだ残っていたのだろうか)
 藤の季節はとうにすぎた。恋人たちが討ち取られてから、ずいぶん時がすぎてしまった。
 すべてが夢の中のできごとのようだ。
 雨の日の仮寝も、真玉の手纏のことも。
 まぐわいを見ていたという夫のまなざしを思うと、肌がじりじりと焼かれそうな心地がした。
 すべてを忘れてしまいたい。何もかも振り捨てて、何もかも忘れ去ってしまいたい。
(逃れたかった)
 底のそこから、ぽっかりと浮かび上がってきた想いに姫は気がついた。
(どこへ?)
 答えはみつからない。探すつもりもなかった。
 伊波姫は鳥もさえずることをやめた晩秋の空を、そっと見上げた。



キスでさよなら

2012.10.05.Fri.12:36
 キスでさよなら~魔女の恋  「第6回 らぶドロップス恋愛小説コンテスト 落選作」




「ビジョっていうより、マジョだよな」
 高校生の頃、そうからかわれたことが、いまだに忘れられない。
「美女木 美紀」。自分の名前を好きだと思ったことは、一度もない。「美」が二つも入った名前のわりに、ぱっとしない容姿で、名前を言うたびによく笑われた。
 真っ黒な髪は生まれつきの天然パーマ。のばせば多少はましかと思ったのに、きつく結んでもワックスで固めても、二限目にはすでにあちこちぴょんぴょん立っているしまつ。幼稚園のころからメガネをかけるくらい視力も低く、黒縁のぶあついメガネがなければ、なにもみえない。肌が弱くて、やけるとすぐ黒ずむ。
 浅黒い肌で背が小さく、メガネをかけた天パの女の子は、おせじにもきれいだとは言えなかった。
 この上、性格が内気とくれば、ばかにされても言い返すこともできず、かといって笑われているのに一緒になって薄ら笑いをするのもいやだった。
 静かな図書室の奥の奥、狭い二人掛けの閲覧席が定位置で、そこに座って本を読むときだけが、ほっとできたのだ。
 奥の棚には誰も開かないような古い全集や古典が、うっすらほこりをかぶっていて、そうした誰も手に取らないような本を取りだして開いてみるのが好きだった。
「もうすぐここ、閉めるけど・・・・・・」
 小さな文字がぎっしりつまった古い本を眺めていたある日、ふと声がかかった。
「それ、おもしろい?」
 顔を上げると、背の高い人がこちらを見下ろしていた。窓からさしこむ夕暮れの光が、その人の笑顔をやさしく照らしていた。
「じゃましてごめん。それを手に取る人がいるなんて、珍しくて」
 三年の城田学は、図書委員だった。一年生に親しく声をかけるほど気さくな城田は、美紀が日本の古典が好きだと知ると、目を輝かせた。
 古事記から、万葉集、源氏物語、風姿花伝。
 一人でひっそり楽しんでいた本のことを、口に出して語るなんて美紀には初めてのことだった。向かいの席に座って、うなずきながら話を聞いてくれる城田に、美紀はすぐに恋をした。
 城田はけっして美紀をマジョさんなんて呼ばなかった。バスケ部のエースにして、女子からの人気も高い彼を、図書室で独占できるのが心からうれしく、誇らしかった。
 美紀も彼の前では、心から笑うことができたのだ。

「マジョのやつさ、調子に乗ってるんじゃねえの」
 小さなささやきが耳に入ったとき、美紀は思わず手を止めた。城田と廊下で話しているところを、数人の女子に見られた次の日だった。女子の視線が冷たいのはいつものことだったが、バスケ部の男子もその話を聞きつけたのだ。
 あこがれの先輩が、美紀と面識があるということすら信じられなかったにちがいない。
「間違いだろ。城田先輩が、あんなのと?」
「先輩、笑ってたって。あの先輩が。マジョが、魔法でもかけたんじゃね」
 あんなの。その言葉が、胸にささるようだった。
 美紀はごくんと息をのみ、逃げるように教室をでた。
 図書室に向かいかけて、美紀は足を止めた。城田は今日の当番だ。きっと、図書室にいるだろう。でも、これ以上一緒にいるところを誰かに見られたら、彼にも迷惑がかかるかもしれない。
 泣いてしまいそうだった。悲しいよりも、自分に腹が立った。どうして、堂々としていられないのだろう。美女木美紀でなにが悪い。名前も顔も、自分で選んで生まれてきたわけじゃないのに。とやかく言うクラスメイトも、こんなことですぐ泣く自分にも、腹が立つ。
 きびすを返してトイレに逃げ込もうとしたときだった。
 誰かとぶつかった。そのひょうしにメガネがずれて、抱えていた本が数冊ばたばたと落ちた。
「すいません」
 美紀の小さな声にかぶさるように、冷たい声がひびいた。
「いってえ。マジョさん、前、よく見てくれる?」
 かれたような男子の声だ。メガネを直そうとしたところ、ひょいと奪われた。ぼやける視界と、こみあげる涙。美紀は叫んだ。
「返して!」
「マジョが、吠えたぞ。呪われる」
 はやし立てる声と、せせら笑う声。投げ捨てられたメガネが、かしゃんと床のうえに落ちる音がした。つきとばされ、結んだ髪をつかまれた。
「マジョとチューしたい人ー!」
 この上なく残酷な、人を踏みにじって気にもとめない脳天気な声。美紀は胸ぐらをつかまれ、座り込みそうになったところを無理矢理立たされた。
 こんな子どもっぽいいじめが、自分の身にふりかかるなんて、信じられなかった。
「やめて」
 ぼやけた視界に、ぐいっと引き寄せられ、唇が触れあった。
 湿った、気持ちの悪い感触。
 それが、美紀のファーストキス。
 最悪の思い出だ。



 イヤな夢。思い出したくないことを、何度も何度も繰り返し美紀に見せつける。
 あれからもう何年もたった。大学を卒業し、就職して三年目。
 なのに、あのころの自分がすぐ後ろに立っているような気がして、美紀はうんざりした。職場でも、高校の時とかわらず、マジョさんと呼ばれているのが我ながらおかしかった。
 天然パーマを押さえるために、髪を固くひっつめて、メイクもほとんどしない。度が進んで新調したメガネは、やっぱり黒。ほかにひかれるものもなく、なんでもよかった。
 親しくつきあう人もなく、本があればいい。そんな性格が、人を寄せ付けないこともわかっている。美紀が心を開いてみれば、同僚たちとももっとよい関係がつくれるかもしれない。
 でも、こわい。からかいでキスをされた時のように、人は時にひどい仕打ちをする。されたほうが、どれだけ傷つくのか、思いもせずに、ただ気に入らないから、そんな理由で誰かを傷つけて、あとはさっぱり忘れてしまうのだ。
 
 


 「そんなに不満?」
 大きなため息をついたとき、それを聞きとめた男がちらりと美紀を見た。
「不満だらけです」
 美紀は赤いクーペの助手席で、もう一度ため息をついた。
「仕事と関係ないじゃありませんか。一社員の私が、社長の連れとして出席するなんて、無謀です。だいたい、なんで私が・・・・・・」
 和光明は、つぶやくように言った。
「無謀ねえ。マジョさんは、言葉の使い方をまちがえてる気がするな。無謀って言うのは、深い考えがない、成功する見込みがないっていうとき使うんだ。きみ、国文学専攻だろ。人には、いつもあいまいはやめろと言うくせに」
 一言多い。この人と話すと、いつも美紀はペースを乱されてしまうのだ。
「だから、言ってるんですよ。例の彼女と行けばいいじゃないですか」
「振られたよ、きのう」
「花束はどうしたんです。渡せたんでしょ」
「薔薇アレルギーなんだって」
 あっさり城田は言い、それきり気まずい感じの沈黙が車内に満ちた。
(で、補欠の登場というわけ)
 美紀はこっそり息を吐いた。
 補欠も補欠。最後の砦というやつだ。雇われの身で、社長のお願いを断る度胸は美紀にはない。というよりも、どこか憎めないこの人が、美紀に頭を下げてみせるところを、ほかの社員にみせたくないというのが実状だ。
「社長の弱みでも握ってるの?」
 好奇心をおさえきれない顔つきで、同僚にそう聞かれたとき、美紀は本当に返答に困った。弱みなど、この人には、ない。ある目的があって、それを果たすためならば、頭の一つや二つ、下げることなどなんとも思わない。ただそれだけのことだ。
 今夜のパーティーに誘う相手が、どうしても見つからなかったのだろう。パートナーなしで行くという選択肢は、彼にはないようだった。
「格好がつかないだろ」
 「マジョさん」を伴うのはかまわないと言うのか。理解に苦しむ。電話ひとつで、もっと見栄えのする相手を呼ぶこともできるはずなのだ。
 首都高をすいすいクーペが走る。金曜の夕方にしては、すいているほうだ。危なげない運転だけれど、時々ひやっとするときがある。急に前に車が入ってきたり、ウインカーなしで割り込んだりする車があると、けたたましくクラクションを鳴らす。
「スピード出しすぎです。もっと余裕を持って運転してくださいよ」
 たしなめると、彼は言い返した。
「だって、割り込まれるのは、嫌いなんだ」
 どうも子どもっぽい。この言動を、彼を「カリスマ」としてもてはやす各方面の人たちに聞かせてやりたいくらいだ。
 和光明、年齢二十七歳。名の通った大企業に就職後、わずか一年で退社、会社設立にいたる。その後、「二年で上場してみせる」と雑誌の取材に大言壮語、みごと有言実行して、順調に成長を続ける会社をひきいている。
(うまくいっているから、いいようなものの)
 美紀は言うなれば、明のお目付役だった。秘書と言ったら聞こえはいいが、ようは便利屋だ。
 明は会社を立ち上げて、休日返上で朝から晩まで働いていた。鬼気迫るありさまだった。
 美紀が彼の元で働くようになったのは、まったくの偶然と言っていい。高校時代の恩師に、大学卒業を機に挨拶にいったら、明と出会った。彼は独立したばかりで、スタッフを探していたのだ。
 思いついたように誘われて、翌日から出社。人もまだ少ない当時は、経理から人事、法務、もちろん雑用も、見よう見まねの四苦八苦でなんとかこなしてきた。
 明の誘いに乗ったこと。それがよかったのか悪かったのか、今でもよくはわからない。
 ただ、退屈とは無縁の生活であることだけはたしかだ。 
「さあ、着いた」
 明が車を止めたのは、とあるサロンの前だった。
「ここ、ですか?」
「予約してあるからね」
 入るのに気後れしている美紀を引っ張って、明はドアを開けた。
 一面青く塗られた壁は涼しげだ。白い大理石の床はぴかぴかで、顔までうつりそうなくらいだった。
「まあまあ!」
 ほどなくして素っ頓狂な声が響いた。中二階から階段を降りてきたその人は、明の頬を長いつけ爪でなぞった。
「城ちゃん、こんにちは。ごぶさた」
 180センチ近くある明より、頭一つ分さらに大きい。美紀は思わず後ろにさがった。細身にあっさりした麻のジャケットとパンツという出で立ちで、シンプルだがひどく似合っていた。坊主にできるのは、頭の形がいいからだ。鋭角の耳たぶに光る小さなピアス。
「こちらは、お連れさん?・・・・・・まあ、もっさい子」
 美紀はうつむいた。事実だ。でも、しみじみと言われると腹が立つ。
「どんな子でも、磨けば光る、そうでしょ。北条さん」
 明は言った。そこで、はっとした。どこかで見たことがあると思ったら、この人は、北条時男だ。きついダメだしのあと、クライアントを劇的に変身させるという番組によくでている。口癖は、たしか、「もっさいわ」だ。美紀は顔がひきつるのを感じた。
「じゃあ、おれは近くで用事すませてくるから。よろしくお願いしますね、北条さん」
 明はさっさとサロンを出ていった。
「マジョさん、しっかりきれいにしてもらいな」
(よけいなお世話・・・・・・!)
 あとには辛口ファッション評論家と、ダメだしポイント満載であろう美紀が取り残された。
「ふーん」
 北条は、じろじろと美紀を値踏みした。
「あんた、明ちゃんのなに?」
「秘書、のようなものです」
「へえ、そう。よくそんな格好で、あそこの秘書がつとまるわね」
 居心地の悪さに耐えきれず、美紀は声を上げた。
「あの、私はやっぱりいいです」
「なにがいいっての? そのもっさい格好のまま、うちの店から出られると思ったら大間違いよ。あんた、ところで一日に何回みる?」
「何ですか?」
「鏡よ、鏡」
 朝起きて、ざっとメイクして、昼休憩にトイレで見て、夜に歯磨きしながら。
「・・・・・・三回、かな」
 声にならない悲鳴が、北条のつやつやの唇からもれた。
「小憎らしいわね。女をあきらめてるじゃないの。ほんとにもう、ちょっと、こっち来なさい!」
「いやです。女もあきらめてなんかいません」
 美紀は大きな鏡の前に引っ立てられた。
「とっくの昔にあきらめてるでしょ、もったいないオバケでるわよ。なにこの髪。あーあーあ。ワックスでがちがちに固めるなんて信じられない! それに、この肌。ちゃんとお手入れしてないでしょ。せっけんでじゃぶじゃぶ洗顔して、ごしごし拭いちゃってる? 汚れた床みたいなのも納得ね」
 ただ、怒りだけがわいてくる。
「それに、この服。あのね。服は体にくっついてればいいってもんじゃないの。TPOってものが」
「それくらい知ってます」
 言い返すと、ほっぺたをつねられた。痛い。
「どの口がそういうことを言うわけ。このシャツの襟と袖型、はい、三年前にはやりました。このスカート、ちょ、おばーちゃんの原宿で買った? パンプス、ヒールに傷ぅ。靴裏ほとんどすり切れてるじゃない」
 シャツは着慣れて心地いいお気に入りだ。スカートだって、譲ってもらったものだけど、落ち着いていて好きだ。足になじむパンプスがなかなか見つからなくて、傷があることは知っていたけれど、はきつづけていた。
 わかってる、雑誌に載っているようなキレイなファッションでないことくらい。わかってる、髪の毛にかまうことも、肌のお手入れを怠っていたことも。でも、それを見ず知らずのオカマに言われたくない。
「もう、いいですから!」
 美紀は声を上げた。腕を振り払って、美紀は出口に向かって歩き出した。
 こんな店、あと一分だっていられそうにない。
「ねえ」
 背中に、おかしそうな北条の声が投げかけられた。
「社長命令なんでしょ?」
 美紀はドアにのばそうとした手をとめた。
 出て行きたい。振り返りたくなんてない。
「マジョさんって、いつまでもそう呼ばれててかまわないわけ?」
 美紀は目をみはって、ごくんとつばを飲んだ。
「あたしにトータルでコーディネート頼みたいって人はね、一年前くらいから予約してもらってるの」
 トータルというとき、やけに発音がいい。
「明ちゃんには昔、とっても世話になったことがあるから、特別時間とったけど。ねえ、これはチャンスなんだって気づいてる?」
 チャンス。
 その言葉が、なぜか心を揺さぶった。

「マジョとチューしたい人!」

 残酷な声が、耳の奥によみがえる。
 もう少しキレイだったなら。「美女木美紀」の名を聞いて、クラスメイトたちが笑わないくらいの容姿の持ち主だったなら。
 堂々と、あの人と会い続けることができたかもしれない。
 からかいで突き飛ばされることも、なかったにちがいない。
 後味のわるい最悪のファーストキスを思い出して、美紀は唇をきつくかみしめた。
(やってもらおうじゃないの)
 振り返って、北条の前に戻った美紀は、勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 やれるものなら、やってみろ。殊勝な気持ちなどない。挑戦状をたたきつけている気分だった。
(この二十何年もののコンプレックスを、トータルにコーディネートしてもらおうじゃないの)
 北条はつけまつげをした目をぱちぱち瞬きさせたあと、にっと笑った。
「望むところ。さあ、時間はないわよ、始めましょ」
 
 それまでどこに待機していたのか、北条が一声かけると数人の男性が美紀にかしずくようにそばに立った。髪には丁寧にパーマがほどこされた。
「はい、さっぱりお嬢様系メイク、完成」
 顔ができあがったあと、メガネを再びつけてみると、美紀は鏡から目を離せないまま、思わず声を上げた。
「わあ!」
 魔法のようだった。
 メイクだけでこれだけ印象が変わるなんて。眠そうだった目が、ぱっちりと大きく、輝きをまして見えた。ぼさぼさの眉は細く優美にカットされている。唇はみずみずしい果物みたいにおいしそうだ。チークがほんのりと頬を染めている。黒縁のメガネだけが、なじみのもの。そのほかは、もういっそ、顔ごと誰かと取り替えでもしたみたいだ。
「そのメガネ、預かるわ」
 メガネがはずされると、再び視界はもやがかかったようになった。
 北条の言ったことは、あながちはずれてはいないのかもしれない。
 女であることを半分以上あきらめてきたのではないだろうか。
 キレイでありたいと願うこと。自分に手をかける、ということを、美紀はあえてしてこなかった。見ない振りをして、過ごしてきた。
(これが、私・・・・・・?)
「お手をどうぞ」
 一度もマニキュアすら塗ったことのない美紀の爪に、きれいな桜色のネイルが貼られていく。
(やめよう。今は)
 何も考えたくない。
 美紀はただ、目を閉じた。



「今のあんたをマジョさんと呼ぶやつがいたら、あたしがひどいめにあわしてやるから」
 完成した作品を前にして、北条は満足そうな声で言った。
 メガネがないと、伸ばした手よりさきはぼやけて何も見えない。心許なくてしかたない。髪はふんわりまとめられているが、耳のわきに垂らした髪がまっすぐで、それが信じられなくて、美紀はすべすべの髪を何度も手ですいた。さらさらのロングヘア。はねもない髪の毛は、完璧に美紀の理想そのものだ。
 背中がすうすうする。大きく背中のあいたデザインのうえ、腕もひざ頭もすっかりのぞいたドレスは、シンプルだが上品で、質のよいものにちがいない。足下には、エナメルのような光沢のあるハイヒールが、照明を照り返していた。歩きにくいが、背筋がすっと伸びるような気がした。
 この格好で、背中を丸めて下を向くことはできない。前をまっすぐみつめて、高く顔を上げて歩くのがふさわしい装いだ。
「お姫様、今夜はあんたが一番きれいよ」
 北条が美紀の手をとった。おせじがくすぐったかった。
「あら、素直に受け取っておきなさい。半分以上は本当だもの」
「あの」
「さあさあ、おしゃべりする相手はあたしじゃない。足下に気をつけて。王子様のお迎えだわ」
 階段を降りていくと、誰かが下で待っていた。ぼんやりとしか見えない。目を細めて、美紀は手すりをたよりに降りていった。あと数段というところで、ひとつ踏み外し、よろけてしまった。てすりをつかみそこねて、美紀はつんのめった。
 転んでしまう。目をきつくつぶったとき、しっかりと抱き止められて、美紀は目を開けた。スーツを着込んだ肩のあたりに顔をうずめてしまっている。
「社長? ありがとうございます」
 何も言わないのはおかしい。いつもなら、からかわれるか、それとも一言ちくりと嫌みでも言いそうなものだけれど。顔をあげた美紀は、吹き出した。おばけでも見たような顔だ。
「大丈夫?」
 戸惑ったような、聞いたことのないやさしい声が落ち着かない気分を呼び起こす。美紀は腕をつっぱねるようにして、彼から離れた。
「社長こそ。もう行かないと間に合いませんよ」
 空は暗くなりつつある。腕時計を確認して、明は頭をかいた。 
「本当だ。急ごう」
 北条が店の外まで出て見送ってくれた。口は悪いが、手をふる気さくさはなんだか好ましかった。助手席のドアを開けてもらったことなど、初めてだ。明はどうやら、メガネをかけていない美紀を気遣ってくれているようだった。
「社長、あの、貴重な経験をさせていただいて、ありがとうございます」
「なんのこと?」
 明はつまらなそうに言った。
「仕事だよ、これは。言ったろう、特別の手当も出すって。きみは、今夜はおれの恋人になってもらうから。それ相応の装いもしてもらわないと」
 シートベルトをしめる音と、美紀の胸の鼓動がぽんと一つ大きくはねたのが重なった。
「恋人?」
 明はうなずいた。
「言わなかった?」
「聞いてません!」
 美紀は声を上げた。


 豪勢な百合の花が生けられたエントランスは明るい。
 都内のホテルの一フロアをすべて貸し切りにしたパーティは、すでに招待客でにぎわっていた。腕の届くところまでしかよく見えない美紀は、少々癪ではありながら、ただ明にうながされるままについて行くことしかできなかった。
「和光くん、久しぶりだね。相変わらず元気かい」
「そちらのお嬢さんは?」
「和光社長、ぜひご一緒したい企画があるんですが」
 次々と話しかけられる明は、にこやかに、かつ人の気を逸らさずにそれに応えている。
 美紀は感心した。背筋もすっとのび、驚くべきことに顔つきにもだらけた甘えたところがなくなっている。意識してそうしているのかどうかはわからないが、明は大勢の人に囲まれるときは、それにふさわしい振る舞いをすることができるのだった。
 美紀は自分がうまくほほえんでいられるか、ずいぶん自信がなかった。明がさっき言ったことも、気になっていた。
(恋人、この人の?)
 冗談じゃない。こんな勝手で、女たらしで、口も悪い奴の、だれが恋人になんか。
「笑顔、笑顔」
 飲み物を手渡しながら、明はおかしそうに言った。
「眉間にしわが寄ってるよ。美紀」
 口に含んだものを吹きこぼしそうになるのを、なんとか美紀はこらえた。
「やめてください、社長」
 明は何食わぬ顔で、美紀の耳元に唇を近づけた。そのあまりの近さに、背筋がぞくっとした。
「色気ないな。お芝居がばれるよ、そんなんじゃ」
「お芝居なんて、むりです」
 美紀はこっそりたずねた。
「どうして、こんなことを?」
 明は唇を笑わせた。遠くで会釈をする人がいたのだ。
「むりでも、やるんだよ。でないと、ここで」
 明はほほえんだ。
「きみにキスでもしようか」
 足でも踏んでやろうか、口の中で毒づいた美紀は、明が口で言うほど平気な様子ではないということに気づいた。
 リラックスしているようではあるが、どことなく顔に血の気がない。伏せた目にはどこか落ち着きがなく、美紀の手を握りしめる力はさっきよりずいぶんと強くなっていた。
「社長・・・・・・明、さん?」
 明はためいきまじりに言った。
「そばにいてくれないか」
 ほんのささやかなつぶやき。聞き返そうとしたとき、誰かが目の前に立ったのがわかった。
「明さん、久しぶりね」
 美紀は頭を下げた。それから目を細めて、小柄な女性をこっそりみつめた。どこか尖った声だ。
「お仕事がお忙しいんじゃなくて?」
「おかげさまで」
 明の声は固かった。
「あなたは一年で独立なさって。その勇気も決断力も本当にすばらしいわ。ゆくゆくは、城田の幹部にともいうことだったのに」
 美紀はぎくりとした。 
 表だっては明らかにされていないことだが、明の父は城田ビルディングという企業の役員をしている。彼が城田を名乗らないのは、そうできない事情があるというのが公然の秘密なのだった。
 会場の照明が落とされ、設えられた壇上に恰幅のよい男が立った。
 城田ビルディングの創業祝いのパーティーが、今夜、まさにこのホテルで行われることを、今まですっかり忘れていた。去年も一昨年も明は欠席をした。でもなぜ、今年は出席しようという気になったのだろう?
 挨拶が終わり、明るくなった会場にざわめきが戻ってきた。グラスのぶつかり合う音、そこかしこで交わされる談笑。
「兄さんは、どちらですか? 探しているんですが」
「何かご用でも」
 ひるむほどの冷たい声だった。明は平気な風で、ほほえんだ。
「ご挨拶をと思っただけです。この人をぜひ兄さんにお目にかけたくて」
 急に引き合いに出されて、美紀は息をのんだ。
 女性は一歩踏み込むようにして、美紀に近づいた。
「こちらの方が、例の?」
 ぼやけていた視界のなかに、フェミニンな白いスーツを着込んだ女の姿がようやくはっきり見て取れた。
「結婚を前提に、おつきあいされているという方ね」
(冗談でしょう)
 そう問いつめたくなるのをこらえて、美紀はつとめてにこにこしていた。
 頬の肉がそげたようにやせているその人は、いまいましそうに顔をゆがめた。
「こんなすてきなお嬢さんがいらっしゃるなら、はじめに言ってくれないと。先方に大変な失礼をしたこと、わかっている? 明さん」 
「ご迷惑をおかけしました。お母さん」
 そう言った瞬間、かろうじて刻まれていた笑みは消え、彼女はにらむように明を凝視した。どうみても好意的とは思えない、嫌悪に満ちた表情だ。
 明をこんなふうに見つめる人がいるなんて、信じられなかった。彼はどこへ行っても、すぐに誰とでも打ち解けることができる。相手の心をつかみ、すばやく懐に飛び込むすべを生まれつき知っているかのようだった。年下には慕われ、年上には目をかけられる。
 それなのに、彼が「お母さん」と呼んだ人は、まるで憎むべき敵でも見るようにかたくなな表情をしていた。
「上に行ってごらんなさい。あなたを追い返したと知ったら、あとであの子に叱られるもの」
 それから、つんと顔をそむけた。ほかの来客のもとへ向かう横顔には、穏やかな人なつこい笑みが浮かべられていた。
 まだ胸がどきどきしている。
 明のほうを見られなくて、美紀はだいぶ困った。なんて言葉をかけたらいいのか、わからなかったのだ。
「びっくりしたろう」
 明はため息をはいた。
「父の戸籍上の妻だよ。今日はずいぶん穏やかなほうだ」
 手を引かれて、美紀はテラスに連れ出された。休憩のためのソファとテーブルがおいてある。静かな夜の気配が空を塗り染めていく。
 明は上着の内ポケットから、何かを取り出した。
 ふちのない楕円のレンズ、飴色の細いつるをしたメガネだ。
「せめてもの、お詫びのしるしだよ。かけてごらん」
 いいにくそうに、明は続けた。
「本当はサロンで渡そうと思っていたんだけど。きみにみとれて、すっかり頭からとんでた」
「また冗談」
 メガネをかけた美紀は、胸がうずくような気がした。
 こちらをみつめる明の顔つきは、真剣だった。
 息が詰まるような苦しさを感じて、美紀は目をそらした。
「おいで。会わせたい人がいる」
 エレベーターに乗り込むと、明は最上階に美紀をともなった。落ち着いたダークブラウンの家具で統一された部屋は、明かりも落とされ、間接照明だけがぼんやりと壁に掛けられた絵画を照らしていた。
「失礼します」
 明はためらわずにじゅうたんを踏みしめて、奥の続き部屋に足を運んだ。
 寝室だ。キングサイズのベッドの枕元に、上着を脱いで深く腰掛けた人がいた。その人は顔を両手で覆っていたが、ゆっくりとこちらに向き直った。
「明か」
 すこしやつれてはいるが、やさしい笑顔は、確かに見覚えがある。
(城田先輩)
「こんばんは、学兄さん」
 夕暮れの図書室で、学と語り合ったこと。
 ほかのだれも知らないような、深い話題で共感をわかちあえたこと。
 やさしく美紀をみつめていたあの瞳を、まっすぐにのぞきこめたあの時間を思い返すたびに、美紀は胸がうずくのを感じる。
 学は立ち上がり、手を差し出した。
「明の兄の、学です。明も水くさいな。こんなすてきな人がいるなんて、はやく紹介してくれればいいのに」
 学は、目を細めた。
「どこかで会ったことがあるかな。お名前は?」
 問われて、すぐには答えることができなかった。
「美女木、美紀です」
 ようやく口からおしだしたが、学は少しも表情を動かさなかった。
「はじめまして、美女木さん」
 握手したあとも、学の姿から目を離せなかった。
 すっかり忘れられていた、ということよりも、彼の左手の薬指に光る指輪に気づくと、何か気の抜けるような、さびしいような、ほっとした感じがこみあげてきたのだ。  
「あなたのことは、明から聞いているよ。あなたなら、明を支えてくれるんじゃないかって。いつもそう思っていた。どうか、こいつをよろしく」
 思わず明をみると、本人はすました顔をしている。
「はあ・・・・・・」
(どうしよう)
 よろしくされてしまった。
 初恋の人はとっくに結婚していて、そのうえ彼から「弟を頼む」と言われるなんて。
 城田学。城田財閥の御曹司。
 高校生の頃は女子のあこがれの王子様だった学は、じっさい本物の王子様だったのだ。
 再会できたのに、少しもうれしくない。キレイになった姿を、見せることができたなら。そんな淡い望みが果たせたはずなのに、ただみじめなだけだった。
 図書室での出来事を覚えていたのは、美紀のほうだけだったのだ。それを思い知るくらいなら、会わなかったほうがましだ。
 部屋を出ようとしたとき、水を持った女性と目があった。
 会釈をかわすと、明は美紀の手を引いて廊下へ出た。
「兄さんは、結婚したんだよ、半年前に」
「そう」
「一度体をこわしてね。さっき部屋にいた女性、あの人が奥さんだよ」
 やさしそうな人だった。控えめな笑顔がきれいで、可憐だった。
「残念?」
 明はたずねた。
 なぜそんなことを聞くのだろう。
 高校の時、ほんのすこし学と接点があったことなんて、明には知る由もないだろうに。
 少しの違和感をなかったことにして、美紀は下へ降りるエレベーターの中で明に詰め寄った。
「いったい、どういうことなの?」
 明のことは、きらいではない。経営者として、尊敬してもいる。
 ただ、こんな嘘をついて縁談から逃れようとするなんて、姑息だ。 
「罪がない嘘っていうものさ」
 明は平気な顔をして言った。
「婚約者なんかを押しつけられてたまるか。おれはまだ結婚する気なんてないし、あてがわれた相手と結婚なんてできるわけない」
 エレベーターの中で、明は手を差し出した。
 メガネもあるし、手助けは必要ない。
 その手を押しのけるように美紀は無視した。
「いいわけを聞かせる相手が違うんじゃありませんか」
 にらみつけると、明は肩をすくめた。
「自分の本当に欲しいものにしか興味がないだけだよ」
「そのために、うそをついてもいいっていうの?」
「うそだとバレなきゃいいだろ」
 子どもっぽい。本当に、あきれてしまう。
 欲しいものとやらを、本気で探している風にも見えない。
 近くで彼を見ているからこそ、言えるのだ。
 つきあう相手をころころ変える。最長で、一年。それ以上は恋人関係が続いたためしがない。傷心はフリだけだということは、目を見ればわかる。彼が心底うちのめされたのなんて、見たことがない。
 会社が軌道に乗り始めて、オンオフの区別も一切なく働きづめに自分を追い込んでいた。自分から崖のふちに追いつめられて、あと一押しされるのを待っているみたいだった。
 彼にとって、その隙間を埋めるのが恋愛だった。少なくとも、美紀にはそんなふうにみえたのだ。
「本当に欲しいものなんて、あなたにあるの?」
「どうだろう。わからないな」
 明は美紀の手をとった。
「社長」
 苦笑いする人を、美紀は戸惑いながら見つめた。さりげなく重ねられた手。大きな彼の手のひらのうちにそっと握られた自分の手が、ひどく華奢で女らしくみえて、落ち着かない。
(この人は、憎めない)
 無理を言われても、なんだかんだで受け入れてしまうのは、明がなんとなく自分に似ていると思うからだ。
 恋で彼は泣かない。心を揺さぶられない。
 まるではじめから恋なんて信じていないように。
 それなのに、明の手はこんなに熱い。まるで、本当に彼に求められているような錯覚に陥ってしまいそうだ。



「来てたか」
 エレベーターを降りるなり、明は低くつぶやいた。
 みると、人だかりができている。
 シャッターの音が立て続けに響きわたる。フラッシュが焚かれるさきにいたのは、最近系列のCMでよく見かける女性だった。
 つい最近まで明がつきあっていた人だから、よくよく注意して見ていたというのもある。彼女の好きなもの、嫌いなもの。雑誌のインタビューを読んで贈り物を考えるのは、美紀の仕事だったからだ。
 薔薇の花束をもらうと、本当にうれしい。
 記事で読んだのは確かだ。
 発注した薔薇百本の花束。どこが気に入らなかったんだろう。
「社長」
「静かに」
 明は押し殺した声で言った。
「ここで見ていよう」
 柱の影に隠れるなんて、情けない。フられたなら、フられたで、堂々としていればいいものを。
「四谷さん、ご婚約が間近だというウワサですが」
 投げかけられた質問も、答える人が口ごもるのも聞き取れる場所だった。美紀は耳を澄ませた。
 明が二股をかけられ、天びんに乗せられた上で捨てられたのなら、多少は同情の余地もある。
「薔薇を百本、花束にしたのをいただきました」
 どよめきが起こった。女性陣からはうっとりしたため息。
(薔薇百本の花束?)
「でも、残念ながら、フられてしまいました」
 さらに大きなざわめきが広がった。
 美紀は壁に明を押しつけて、胸ぐらをつかみあげた。
「社長、どういうことです」
 腹が煮えくり返る思いだった。
「四谷まどかをフるなんて、正気ですか」
 美紀は早口でささやいた。
 正気のはずがない。清純派にして好感度抜群、CMで長いさらさらの髪を風になびかせ、透明感のある微笑で人気をさらったあの人。
 明はいやそうな顔で唇をひん曲げていた。
「政略結婚ってやつだよ。四谷さんは、城田と関係が深い会社の令嬢だ。城田のCMに彼女を起用したのだって、偶然なんかじゃない。そういういきさつがあって、断るにも、断れないだろう」
 目をのぞいてみると、どこかこの状況を他人事のように思っているのが透けて見える。美紀はうんざりした。
「ファストフードで食事して、電車で移動。そんなのであきれてくれるかと思ったんだよ。なのに、あの子は居酒屋なんかかえってめずらしかったみたいで、気に入ってはもらえたんだけど」
 駅前の大衆居酒屋に四谷まどかを連れて行ったのか。たしかに、彼女は珍しがりそうだ。
「もったいない」
 人の波がひいたのをこれ幸いと、そっとその場を離れると、背後から声をかけられた。
「明さん?」
 振り返ると、胸元のあいた白いドレスをまとった三谷まどかがそこにいた。清楚で、におうような色気がある。美紀の着ているものと、デザインも色も同じに見えるが、どうも美紀は彼女ほど完璧に着こなせているという自信はまったくなかった。
「四谷さん、こんばんは」
 明はさっきまでの情けない表情をしまって、ほほえんだ。
「もうお帰りになるの?」
 残念そうな声で聞きながら、美紀へ視線をむけてくる。何気なく見ているようで、どこか好奇を押さえきれないようなまなざしだ。
 無関係です、そう叫びたかった。
 しかし、明が美紀を「恋人」としてともなっている手前、そんなことを言ったら収集がつかなくなりそうだ。
「そう、この方が・・・・・・」
「古い知り合いです。学生の頃からの」
 明はため息を混ぜながら言った。
「独立の時も、縁があって助けてもらいました。この人はおれのことを弟か何かと思って、ちっとも振り向いてくれなかったんですよ。あなたのおかげで、ようやく、口説く勇気が出ました」
 ほほえみを口元に張り付けながら、うなずき聞いていた美紀は、ふと歩み寄ってきた人に手を取られ、握りしめられた。四谷まどかが、熱心にこちらをみつめている。
 ひんやりとした手はすべすべで、近づくといい匂いがした。
「美女木さん、明さんをよろしくおねがいします」
「はあ・・・・・・ええ?」
 しみひとつない肌を、黒々とした瞳をみつめていると、なにかとんでもない場違いなところにいるようで、めまいがした。
「薔薇の花束、ありがとうございます。わたしの好きな花をご存じでいらして、うれしかった。明さんは、兄のような方で、わたしの知らないことをたくさんご存じです。そんな明さんが、頼りにしていらっしゃる女性に、いつかお会いしたいと思っていました」
「あの、私はそんなんじゃ」
「いいんです。何もおっしゃらなくても。どうか、お幸せに」
「きみも」
 笑顔で髪を揺らし、去る後ろ姿もうつくしい。
 わかったのは、明が愚か者だと言うことだけだ。
 美紀は、腹を立てながら明をにらみあげた。
 ひどくのどが渇いていた。炭酸水だと思ってあおったのが、ワインだったことに一口含んで気づいたが、かまわず飲み干した。
「うそも、ここまでくると笑えますね」
 政略結婚がいやで、美紀をだしにして同情をかい、フるようにし向けたのだ。たしかに、あの人にとってはこのほうがいいかもしれない。うそつきで軟弱で愚か者と結婚するよりは。
「ひどいな。マジョさんは、おれのことをそんな風に思ってたの?」
 顔を背けると、明はつぶやいた。
「ぜんぶうそなわけじゃない」
「好きでもないくせに、私のことをよくも恋人なんて紹介できたものね」 そこまでして守りたいものが、まったく見えてこない。政略結婚だってなんだって、そこまでして逃げたがるわけがわからない。
「これからそうなるんだから、かまわないだろ」
 冗談じゃない。
「本当に欲しいものしか、いらないんでしょう」
 その舌の根がかわかないうちに、そんなことを平気な顔をして言う明が信じられなかった。
「軽率で、誠実じゃないわ、そんなの。今日という今日は、心底あきれました」
「マジョさんに、男のことがわかるっていうの?」
 明はふしぎそうに言った。
「おれのことが、わかるっていうの? 話もよく聞かないで。不実か誠実かなんて、きみにわかるのか?」
 かっとなって、美紀は思わず声を大きくした。
「誠実じゃないってことは確かね」
 周りの人が振り向く。どう思われようともかまわなかった。明に振り回された一日の終わりに、すこし自由にふるまったってばちは当たらないだろう。
「もう、帰る」
「どこに行くんだよ」
「さよなら」
 美紀は会場を出て、歩き出した。
 足下がふわふわする。フロアにしかれた絨毯にヒールをもっていかれそうになり、よろけた。
「一人で帰すわけにはいかないだろ」
 駆け寄ってきて腕をとった明は、なだめるように言った。
「けっこうです。まだ電車もあるし」
「そういうことじゃない」
 舌打ちをして、明は美紀の背中に腕を回した。
「女たらし・・・・・・」
「うるさい、酔っぱらい。ほんとうに酔ったの? あれだけで」
「まさか。酔うわけないでしょ」
 ふりほどくことはできなかった。おそろしいほど強い力で抱き寄せられて、美紀は息もできなくなりそうだった。
「離して」
 やっとのことで言ったとき。
「どこにもやらないよ。これは、命令だ」
 低い、押し殺したような声が聞こえた。
 誰かが明を探して呼ぶ声がする。彼は美紀の手を引くと、ドアを開けて中に体を滑り込ませた。すぐに、通り過ぎる足音がした。だれもいない着替え室は、ただ照明だけがぼんやりとついていた。
 ぼうっとして見合っていると、ドアに手をかける気配がした。
 開かれたとき、二人は奥のクローゼットにすんでのところで身を隠し、みつかることをまぬがれた。
「おかしいな。いると思ったんだが」
 そんなつぶやきが耳に届いた。すぐにドアは閉まり、覆いかぶさるように美紀を壁に押しつけていた明は、ふかく息を吐いた。
 せまい場所にいることも忘れて、美紀は明の胸を押した。
「つぅ」
 明はハンガーに頭ををぶつけて、顔をしかめた。
「どうして隠れるの」
 美紀は間近で見下ろしてくる明の目を見れないまま、ささやいた。
「はやくどいて。帰るんだから」
「だめだ。一人じゃ帰さないよ」
「いつでも自分勝手ね。わたしのお願いなんて、きいてくれたことないじゃない」
「お願いなんてかわいいこと、きみはいつしたっけ?」
 頬に明の息がかかる。こわくなって、美紀は目を閉じた。彼の目に、自分がどんなふうに映っているのか、見たくない。気まぐれなのか、それとも、同情なのか、あわれみか。
 そのどれもが、美紀にとっては不本意で受け入れがたいものだった。
(私は、いらない。何も、いらない!)
「おれが嫌い?」
 口を開こうとしたとき、あたたかな感触が美紀の唇にふれた。息をうばうようなキスだ。熱い舌が忍び込み、好きにふるまった。背中と腰をたくましい腕にとらえられ、逃げるすべもなかった。
「んっ!」
 顔を引くと、舌が擦れ合って唾液がこぼれた。
 こみ上げた涙をおさえずに、美紀はしゃくりあげた。
「キスなんて大嫌い。あなたも大嫌い」
 明は苦しそうに目を細めた。
「もう遅いよ」
 狂おしい目でみつめられると、気持ちをうらぎって胸の鼓動がはやくなる。
「もう待てない。きみには悪いけど、おれは割り込まれるのがきらいなんだ。たとえ、相手が兄さんだって」
 無茶をする明のほうが、泣きそうな顔をしている。美紀は驚いて聞き返した。
「何の、こと?」
「さあ」
 美紀の首筋に顔をうめて、明はささやいた。
「きみは、いつも図書室にいたね」
 低いかれたような声。
「ほかの誰も手に取らないような本をさ。あれは、寄贈本なんだよ。貴重な本だけど、きみくらいしか読まなかった。だから、気になったんだ」
「本」
 ほこりをかぶったような、かび臭い古い本。
 においもはっきり思い出せる。今でも、胸の痛みと一緒に、あの人の笑顔がよみがえる。
「社長・・・・・・?」
「名前で呼ばないと、キスするって言ったと思うけど」
 明は泣く子をなだめるように、口づけをした。あめ玉をおしこむような、息の通う甘いキスだ。美紀はあえいだ。
「や」
「兄さんなら、きみは拒まない?」
 ドレスごしにふくらみに触れた手が、ゆっくりと胸をなでた。逃げようとすると、ひざを割るようにして体を割り入れてきた明が、ふとため息をはいた。
「おれのほうが、最初にきみをみつけたんだよ」
「うそ」
「うそじゃない」
 くるしくて、深く呼吸がしたくて顔をあげた美紀の唇に、明がそっと唇を重ねた。ドレスがずれて露わになった肩に、熱い息がかかった。かたい手のひらが、むきだしの背中をなでる。たくしあげられたドレス。美紀の足の付け根に、ざらりとした堅い腿があたり、甘いしびれがおこった。
 体がはねる。押さえようとしても、鼻にかかったような、自分のものとも思えない甘い声が漏れ出すのを止めることができなかった。
 明は困り切ったように言った。
「きみをここで、抱いてもいい?」
「だめ」
 だめなのはわかっているのに、首筋に舌を這わされると、それほど強い拒絶もできなかった。
「だめっていわれると、よけいにしたくなる」
 明は背の低い靴入れに美紀を座らせ、ひざをなでた。そのまま奥へ手をすべらせ、下着の中に指を忍ばせた。
「早急で悪いね。でも、よそに連れて行く余裕なんてないんだ。きみを、誰の目にも触れさせたくない」
 ワインのせいだ。 こんなに体が熱く火照るのは。
 こわいのに、いやじゃない。いやじゃないけど、こわい。
「待って」
 明の腕をつかむと、美紀は必死に言った。
「こわい」
「うん」
 美紀の頬に顔を寄せて、明はやさしく言った。
「わかってる。できるだけ、ゆっくりする」
 そういうことじゃない。
「おれは、きみのこととなると、ちっとも我慢ができないんだ。本当に、自分であきれるくらいだよ。でも、そばにいてほしい。この気持ちは、うそじゃない。これだけは、本当だ」
 足を抱え上げられ、秘めたところに堅い高ぶりがあてがわれた。
「美紀」
 息をのむと、耳元で熱い声がする。低くてただ一途な男の声。
 名を呼んだのか、それとも言葉にすらならなかったのか、それすらもよくわからない。美紀はきつく抱きしめられながら、背中にしがみついた。そうして、いつも頼りなくも寂しげに見えた背中が、広くたくましいことを初めて知ったのだ。


 目覚めたあとは、ぞっとした。
 昨日の醜態、体があちこち痛む。
 そこは簡素な部屋だった。ベッドがひとつ、そして本棚がひとつ。
 書名を目でたどるまでもなく、見知った背表紙が棚を埋めているのに気づいて、美紀はなんとなく意外な気持ちがした。
 古事記、万葉集、日記文学。
 今は絶版になって手に入らない全集が、乱雑だがチェリーウッドの本棚にちゃんとおさまっている。
「おはよう」
 開け放された窓から、涼しい風が吹き込んでくる。静けさのうちに眠ったような街並みが見えた。窓辺に置かれたポトスに水をやっていた明は、振り返って苦笑した。
「きみが目を覚まさなかったから、うちにつれてきたよ。一人住まいだから、気兼ねしなくていい」
「どうして・・・・・・」
「どうして? それをきいてどうするの」
「どうして、私なの」
 明は床をきしませて近づくと、ベッドに腰掛けて美紀の髪をなでた。
「最初は、きみが気にくわなかった」
 目を伏せて、明は話し始めた。
「いいや、全部気にくわなかったんだ。何もかもが」
 そういう明の横顔が、ふと傷つきやすい少年のそれのように見えて、美紀ははっとした。
「父親の言うことをなんでも聞き入れて、しまいには一人で死んでいった母のことも。周りからもてはやされて、にこにこ笑顔を振りまいていた城田の兄のことも」
 薄暗い図書室で、窓辺の席に腰かけて、ふと外を眺めていた人の横顔に、明の物憂い表情がかさなるようだった。線の細い、繊細そうな少年の顔。いつもぼやけた感じでよく見えなかったが、そのほうがいいとさえ思っていた。メガネをかけたら、現実に引き戻されそうな気がして。
「おれが愛人の子だってわかっているくせに、兄はおれをよく気にかけてくれた。おれは、兄貴のことを慕っていたんだよ、きみに、会うまでは」
 とても静かな声なのに、胸をえぐられるような気がした。
「おれは二年のとき、図書委員だった。きみのことは、いつも見てたよ。山ほど本を借りていったね。毎日、毎日」
 明はおかしそうに笑った。
「まじめに読んでるわけないと思ってた。でも、下校の時に、歩きながら読んでるのを見て、あきれたよ。あきれて、笑っちゃったよ」
 ちらりと、明は美紀を見やった。その目にどんな感情がかくれているのか。考え出したら、そこのない水の下のずっと下の方まで引きずられていきそうな、そんな言いしれぬ悲しみに満ちた目だ。
「兄にその話をしたんだ。そうしたら、興味を持ったらしくてね。きみに会いに行ったんだ」
 図書委員は、学ではなかったのだろうか。
「兄さんは、生徒会だよ。あんまり前にでる役目じゃなかったけど」
 やさしい言葉で追いつめられるような気がする。美紀は息をつめた。
「きみは、読書するときはメガネをとるね。夕方、あの奥の席に座っているきみのそばにいくと、静かで・・・・・・でも満たされる気持ちがした。ほっとしたんだ。声をかけたら、きみは笑ってくれた」

「城田先輩」

 鳥のさえずりが、空に響いた。
「兄さんとおれは、よく似てる。背丈も、髪型も。あのころは、よく間違えられたよ。でも、きみにそう呼ばれたときほど、ぐっさりきたことはなかった」
「・・・・・・ごめんなさい」
 明は声もなく笑った。
「きみは悪くない。名乗らなかったおれが悪かったんだ。兄と間違えられて、名乗る勇気がなかったおれが悪いんだ」
 美紀は言葉をなくしてしまった。
 それでは、いつも図書室にいたあの人は、学ではなくて、明だったというのだろうか。信じられなかった。
 寝癖のついた髪をかきむしると、明はうめくように続けた。
「でも、そのときは、腹が立って。その気持ちをどこにぶつけたらいいのか、わからなかった。もう、とっくにきみにひかれていたのかもしれない」
 伸びをして、明は立ち上がった。
「兄さんは生まれながらに、全部を手に入れてる。おれは、二番目の女性から生まれたってだけで、どこか後ろめたい思いをしているのに。兄さんはやさしいよ。でも、そのやさしさは、特別をつくらない。みんなに同じくらいやさしい。おれも、その他大勢にすぎなかった」
「そんなこと」
 言い掛けた美紀は、それ以上何もいえずに口をつぐんだ。
「特別なんて、思いこみだよ」
 明のまなざしが、誰かとだぶって見えたのだ。
 美紀を冷たくののしったあの子。
 やるせない怒りをにじませて、美紀の前に立っていたあの子と。
「兄さんをはじめてにくんだよ。そのときは、そうせずにはいられなかった。きみのことも、にくかった。うわべの薄い優しさを、知らずに受け取ってにこにこしているきみが」
 明は顔を両手で覆った。ふたたび美紀を見つめた目は、ただ笑んでいた。気持ちを隠して、自分を守る鎧。彼の笑みは、そうしたたぐいのものなのかもしれない。
「きみを傷つけたかった。泣かせたかった」
 そういう人の方が泣き出しそうに見える。
「・・・・・・きみにキスしたのは、おれだよ」



 今日は日曜だ。
 明が送るというのを、美紀はかたく断った。
 胸が苦しくて、息ができなくなりそうだ。
 彼のそばにいると、あの悪夢が大音響の恐怖音楽を響かせて、目の前に迫ってくるような気がした。
 大げさなのかもしれない。キスひとつに、ここまで引きずられるなんて、子どもっぽいのかもしれない。けれど、美紀にとっては水に流せないことなのだ。今、あの悪夢のキスの犯人がわかったとして、怒りをぶつけることもできそうになかった。
 明の横顔をみてしまっては、何も言えなかった。

 電車が動き出すと、美紀は北条のサロンに向かった。
 着替えの中に、メガネが見あたらなかったことに気づいたのだ。
 締め切られた店の前で立ち尽くしていると、やけに明るいクラクションが鳴らされた。振り返ると、青いオープンカーに乗った北条が、見事に縦列駐車をしたところだ。
「どうしたの、マジョちゃん」
 店に招き入れられると、北条はにべもなく言った。
「もういらないでしょ、黒縁の分厚いのなんて。フレームもくたびれて、ひん曲がってたわよ。明ちゃんからもらったそれで、十分じゃないの」
 涙がこみあげてきた。
「何があったの」
 ぶざまだろうと、涙は美人にしか似合わないと言われようと、かまわない。美紀はしゃくりあげた。
 北条は黙って話を聞いてくれた。相づちのひとつもなかった。
 ほんとうに聞いているのか、爪に息を吹きかけたりしていたが、とにもかくにも話し終えると、美紀のまえに湯気の立つ紅茶を差し出した。
「で、あんたは明ちゃんのことを、どう思ってるの」
「・・・・・・嫌えない」
「それだけ?」
 北条の声はやさしかった。
 美紀はそっと心をさぐってみた。記憶の中にある明の面影をなぞってみた。こみあげてくる感情は、ひとつにくくれるものではなかった。
「苦しい。好きだけど、嫌い。だけど、憎めない」
 北条はため息をはいた。
「からかいだろうが、なんだろうが、相手を傷つけるためにキスするなんて、最低ね。その手のたぐいのことが、どんなに卑怯かも、よくわかる」
 北条はカップを手に取り、紅茶を飲み干した。
「でも、明ちゃんは、ようするに、あんたのことが好きなのよ。昔はどうあれ、今はオトナよ。オトナが、正直に厨二行為を告白したんだもの。許してあげたら?」
 ぬるくなった紅茶を飲み干すと、苦みのあとにさっぱりとした甘さが舌のうえに残った。
「ゆっくりしてきなさいよ。・・・・・・少しくらい、待たせたらいいわ」
 北条は外をちらと見た。いつの間にか、赤いクーペが店の外に停車していた。 
 鳴り出した胸を落ち着かせようと、美紀はひとつ深呼吸をした。北条に頭を下げ、店の外にでると、人通りの少ない道に立つ明と目があった。
「美紀」
「マジョに、なにか用?」
 そう言ったつぎの瞬間に、美紀は手を引かれ、きつく抱きしめられていた。
「きみには、悪かったと思ってる」
 腕を解かないまま、明はゆっくりと言った。
「許されなくても。もう一度、きみにキスしたかった」
「キスしたら、さよならよ」
 美紀はようやく言った。口にして、やっと胸の重石が軽くなるような気がした。
 それが、答えだ。
 今は、さよならしか言えない。すべてをなかったことにできるほど、あの出来事は軽いものではなかった。
 許せないのは、美紀の心が狭いからなのか。
 明はゆっくりと近づいてきた。
 美紀の頬を指先でそっとなでた。見下ろしてくる彼の瞳は、何か言いたいことをこらえているように揺れていた。
 唇が、重なる。思いのこもった、やさしいキスだ。
 やさしくて、かなしい、こっけいなキスだ。
 手のひらを合わせ、指をからめた。
 この人が好きだ。でも、許せない。許せないけれど、好きだ。
 二つの気持ちに引き裂かれそうだった。
 あたたかな手。大きな手。ずっと包まれていたい。つないでいたい。
 それでも。
 唇がそっとはなれた。絡み合わせた指を、さいごの一本までほどいたら。
 それがさよならのときだ。


 それから三ヶ月がたった。
 あの悪夢は、いつの間にかみることはなくなった。
 たまに、疲れ切ったときに何かに追われる夢をみることがある。けれど、驚くべき事に、美紀は夢の中で追いかけてくるものを迎え撃ち、一喝で追い払った。
 単なる夢だけれど、目覚めたあとは爽快で、一日中気分が良かった。
 明のもとから離れると、いろいろなことが見えてきた。今までは彼の近くに居すぎたのかもしれない。三年間、明の姿を見てきた。けれど、本当に彼を知ろうとしたことがあっただろうか。
 美紀は市名を冠したちいさな駅で、電車を降りた。
 移転する事務所の文書整理も残すところあとわずかだ。
「おはようございます」
 管理室に鍵を取りに行くと、もう誰かが受け取ったという。
(まだ八時前なのに)
 一本遅らせると始業に間に合わないため、美紀がいつも最初に事務所をあける。ほかのスタッフはまだ当分来ないはずなのだ。
「おはよう、ございます」
 油の切れたドアを開けると、段ボール箱の山が目に飛び込んでくる。 
 その向こうから声がしたが、小さくて聞き取れなかった。
 紙類の山の崩れる音。奥には未分類のファイルがまだ残っている。
 駆け寄ると、そこには文書に埋もれた明がいた。
 美紀は驚き、同じくらい呆れかえって彼をみつめた。
「明さん?」
「早いね。少し片づけておこうと思ったんだけど」
 手を貸して立たせると、明は顔を背けた。
「どうして。こんなところにいるの」
 言いにくそうにしている。美紀は回り込んで彼の顔をのぞき込んだ。
「休暇をもらったんだよ。たまには、いいだろ」
「休暇・・・・・・? だって、ここであなたが何をするっていうの」
「さあ、何をしようかな。きみの手伝いでもしようと思ってるんだけど」
 明は顔をかたむけて、美紀のほほに不意打ちのキスをした。
 あとずさりしようとした美紀は、段ボールの山に阻まれて、すぐにおいつめられてしまった。
「おれときみは、どうも狭いところで愛をはぐくむ運命らしいな」
 寒気がする。こんな軽口はきらいだ。
「やめて」
「おれは本気だよ」
 手を伸ばし、明は跳ね返った美紀の髪の毛を、つんと引っ張った。
「いた!」
「さよならを言ったつもり? あれで」
 明はじっと美紀を見つめた。
「そのつもりだけど」
 腰に手を当ててにらみつけると、明は眉間にしわをよせた。
「置いて行かれても、困る」
 美紀はとうとう吹き出した。言葉とはうらはらに、明のまなざしはどこか不安げだった。
 この人に初めてキスを奪われたとき、悲しみと嫌悪しかなかった。
 でも、同じ唇で、胸がときめき、幸福を感じることができるなんて、思っても見なかった。
 美紀は一歩踏み出した。不器用な人のもとへ、また一歩。
「きみが、好きだ」
 腕のなかに抱きしめられた。
 心地よくて息をはくと、彼は美紀の髪に顔をうずめ、くぐもった声で笑った。
「呪いがとけたみたいだ。すっきりした」
「私はなんだか、呪いをかけられた気がする」
 明は顔をひいて、美紀をじっとみつめた。
 交わしたキスは甘い。
「おれの呪いは、とけないよ。きっと、ずっとね」
 なごり惜しそうに唇を離した明は、やわらかくほどけるようにほほえんだ。
「ねえ、おれのマジョさん」  

官能部部誌ができました

2012.09.10.Mon.04:42
官能部部誌 その1

パブーさんで配布しています。
ぜひご覧ください!

乙女のグッとくるお話を追求する部活動、官能部初の部誌です。

名古屋コミティアでは、「官能部」という名前がけっこう目を引いたようです。
「へええ、なにこれ」という感じでちらっと見ていかれる方が多かったです。
「おとなの部活動・・・へえ」的な。楽しいですよ、おとなの部活動は。

名前買いしてくださる方も。
気づくと、お買い上げくださったのは男性がほとんどだったという…。

なにはともあれ、ありがとうございます!


さて、部誌の中身を、引用しつつ簡単にご紹介していきたいと思います。

【官能部と夏の思い出・・・琴さん】

 小説に挑戦してみると、性描写で必ずつまづく。そこまでは順調にいっても、だ。
 まず、肉体の描写というか、身体の部分の呼び名をどうするかが非常に難しい。
 たとえば胸や性器の描写は、官能小説には欠かせないものだが、「乳房」とか「乳首」とか「あそこ」といった言葉では、官能レベルが足りない。直接的な表現ではなく、どこか秘めやかでひとひねりあった方が、よりいやらしさをかき立てるのだと思う。



 官能部副部長、琴さんによるエッセイです。
 官能というキーワードをもとに、創作にとりくまれた心情や文を生み出すのに苦慮されている過程がかいまみえます。
 誠実に、かつ楽しんでこのテーマと向き合っておられる姿がすけて見えます。
 

【三十一文字の裏側・・・糸村和奏さん】

 短歌とショート・ショートによる作品を書いてくださいました。

たった三十一文字に、凝縮されたものがある。背後に秘められたものがある。
そしてそこから湧き上がるイメージは無限大で、とてもとても個人的なものだと思うのです。
官能というものを表現するには、短歌はまさにぴったりの表現方法ではないかなと感じます。



短歌に凝縮された悲喜こもごも。みずみずしい情動を感じてください!

この思いが行き場を無くしたら、自分の一部は確実に死ぬだろう。
彼のためだけに生きている細胞が、そろって滅び行くだろう。
そうして、再び生まれ変わる時。
残り火のようにくすぶる細胞の残骸が、新たな思いにとり憑いて。かさぶたを剥がすように、ひりつかせるのだ。

「目も耳も舌も手首も足指も全て締め付けられたる君に」




【ある夜と朝  たかさわ】

恋人たちのいる情景。

「あ」
彼女は、いまさらびっくりした声を上げた。
ぼくは手の甲を口元に押し当てた。彼女のきゃしゃな手の中で、どんどん堅さをましていくぼくの分身。息を吐くと、彼女は伏せていた目をあげてささやいた。
「気持ちいいの?」「……悪いわけない」
 天を向いた高ぶりから、透明なしずくがふくれ出て、ゆっくりと伝いおちる。手の平と指先でぼくをいたぶる彼女は、ただ面白がっているようにしかみえない。これは、だいぶん、腹立たしい。




【薫ふがごとく今盛りなり 小名さん】

七年前に交わされた約束。

それが今夜、果たされようとしている。

月夜の晩に忍んでくるは、かつて兄とも慕った従兄。

二人の恋を見届けて!!

「どこを見ている? 汝を妻問いしたのは私だよ」
 男は握った娘の腕を引き寄せて、彼女の耳元に唇を寄せた。
「あの木簡が私の代わりだったというのなら、あれがずっとあった場所は私のものだね」
 男がそれを言うのと、彼の手が娘の衣の袷紐を解くのとは同時だった。ふわりと放たれたそこから、娘の白い胸乳がこぼれた。咄嗟にそれを隠そうとした娘の隙を突いて男は娘を褥に押し倒した。



【秘密の官能ラクガキ帳・・・早虎さん】

部誌に華をそえるイラストエッセイ。
とにかくご覧いただきたいです!

本来は、ファンタジー系ラブストーリーだったのですが、何故か段々「官能」表現中心になって来てしまい、気づいたらそれメインで十数冊!誰に見せるでもなく自己満足だけで、夢中になって(汗)。



【そなたの空・・・たかさわ】

更級日記 竹芝の例の話を、妄想した掌編。

「ものを知らぬおとめだと、都合が悪いのですか」
男は肩をゆらして笑った。
「はい。たいそう都合が悪いのです」
私を本殿へと続く廊のところに降ろすと、男は帯に挟んでいた菖蒲を私の朱の袴にそっとのせた。浅黒い手が、ひざを撫でたと思ったのは、気のせいだったのか。
ひどく真剣な、でもどこか惑いを刻んだような瞳に見下ろされた一瞬、身がやかれるような思いがしたのは、気のせいなのか。



【乙女に捧げる官能的な二十の質問】

 必見!
 わかるわかる、と共感できるところあり。
 そんな趣味まで!? という部分あり。

 読んでどう感じたか、ぜひ教えてください…!!


 以上、簡単に部誌を紹介してきました。
 その2の発行も考えていますので、「面白そう」と思われましたら、ぜひ入部をご検討ください。

 官能部です、と名乗れば、今日からあなたも官能部員。

 乙女のぐっとくる萌えを、共有していきましょう。

 



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4名の方が寄稿してくださいました!
どうもありがとうございます。




2012年9月16日に名古屋国際会議場 で開催される
コミティア・イン・名古屋に参加します。
しろたへの@官能部 で参加予定です。

ひょんなことから発足した官能部(乙女のぐっとくる萌え話を追求する部活動)ですが、
せっかくなので部誌をだすことを検討しています。

内容は、官能に関するアンケートの結果と
みなさまからの原稿をいただければ、作品をのせつつ、私も官能的な何かをがんばって書きたいと思います。


どなたでも、お気軽にご参加ください。
こっそり、匿名での参加も大歓迎です。

完成後は、コミティアで紙版の販売・寄稿者に部誌送付。
電子書籍的なかたちで、無料で配布したいと考えています。

【乙女にささぐ官能的な20の質問】





【寄稿について】

一作につき2000字(原稿用紙換算5枚)~4000字(10枚)
お一人5作まで。

オリジナルであれば、ジャンルは問いません。
官能萌えについて、思いのままにお書きいただければと思います。

小説、書評、短歌、俳句、詩など なんでもありです。
イラストは、JPEG形式で添付してください。 
テキスト形式でメールに添付して、yrdhp744☆yahoo.co.jp(☆を@へ)までお送りください。
メールのタイトルは 官能部部誌原稿 でお願いします。

寄稿してくださった方には、紙版の部誌をお送りしたいと思います。
紙の部誌ご希望の方は、原稿送付時のメールに、郵便番号とお名前とご住所を明記してください。
イベント後、一月くらいでお送りしたいと思います。

しめきりは8月24日(金)です

こころに秘めてきた萌えを、これを機会にみんなで共有しませんか!!
書いてみて、不安になっても、大丈夫です。
とりあえず送ってみてください。
カタチにできたら、ぜひ見せてください。私が見たいんです…。
もしかして、「私もそう考えていた!」という賛同者があらわれるかもしれません。
書くことで新たな発見があるかも。

何かご不明な点がありましたら、お気軽におたずねください。
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