玉垣の吾が妻の君4

2012.03.23.Fri.05:12
「必要とあらば、戦う。それしか道がないのなら」
 あおざめた顔のまま、須佐之男はつぶやいた。
「きらいよ。高天原びとなんて、だいきらい」
 須佐之男はちいさく笑った。
「憎まれ口などたたかずに、素直に言うことをきいたほうが利口だぞ。なにしろ、わたしは傲慢で戦好きな高天原びとだからな」
 頬をたたこうとした手を、須佐之男はかるくよけて鼻で笑った。
「荒ぶる神にも、失礼な高天原びとにも物怖じしない。そこがあなたのいいところだ」
「あなたなんて」 
 その次に何を言おうとしたのか、奇稲田は自分のことながら、わからなかった。千の言葉をつくしても、言いたいことには足らない。
 この人が、憎らしい。でも、これほど強く引き寄せられるのは、なぜなのだろう。みつめられると落ち着かないというのに、須佐之男がよそをみたら、どうにかして振り向いてほしいと願ってしまう。ふれたいと、ふれてほしいと願ってしまうのだ。
「妻問いも仕切り直しだ」
 懇願する響きを聞きとめると、胸が高鳴った。
 大蛇神におびやかされ、死をつねに間近に感じていたこの身が、恐怖などではなく、まさか誰かを思っておののく日が来るとは、思わなかった。
「死んでも添わないと、まだ言うか」
 唇をかんだ奇稲田を、おかしそうに須佐之男はながめた。
「できれば、迎え入れてほしい、穏やかに。そうでなければ」
「そうでなければ・・・・・・ぶつ?」
 そっと抱き寄せられて、奇稲田は彼の髪にしみついた青草と汗のにおいをかいだ。夏の香りだ。
「ぶつより悪いかもしれない」
 須佐之男はゆっくりと口づけをした。血と土の味のする舌が、唇を割って入り込んできた。腕で押し返そうとするものの、びくともしない胸の中に抱きすくめられて、奇稲田は声も出せなかった。おびえて逃げる舌を追いつめ、執拗にからめ取ろうとする。ゆうべの口づけは、もっと穏やかで探るようだった。少なくとも、食べられてしまうかもしれないという怖さはなかった。
 唇をはなしたあと、奇稲田の顔になにを見たのか、須佐之男は決まり悪そうに言った。
「うつくしく青あおとした玉垣のうちに閉じこめておきたい。誰の目にも触れぬように、傷つかぬように。わたしのいとしい妻の君」
 奇稲田は息をのんだ。
 頬から耳のしたのくぼみ、そして首に唇がすべりおりた。衣のあわせをくつろげて熱い手が入り込み、あわだった肌をゆっくりとなでた。衣ずれの音が、大蛇の声なき声を思い出させて、体がふるえた。
 床に横たえられるときになって、ようやく何一つ身につけていない裸身を抱きしめられていることに気づいた。
「須佐之男」
 口づけは、羞恥やおそれを遠くに追いやる強い酒のようだと、泣きそうになりながら奇稲田は思った。
 声をころし、体をまさぐる手や汗ばんだ肌が触れ合う感触にたえるのでもうせいいっぱいだ。ももをなで上げる手はやさしく、熱かった。かたく閉ざしたひざを割り、細身をねじ入れた須佐之男は、ささやかなしげみにおおわれた、奇稲田の秘めた場所にふれた。
「力をぬいてごらん。息を吐いて」
 まぶたに熱い吐息がかかった。かたい指であらぬところをゆっくり撫でられ、奇稲田は悲鳴をのみこんだ。じきに、汗とも何ともつかない熱いものがあふれ出し、かき回しこね混ぜる無遠慮な動きを助けた。奇稲田はこらえきれずにすすり泣いた。痛みは少しだけで、それよりとてもくすぐったい。
「これからなにをするの?」
 ふと動きをとめた須佐之男は、ほんとうに驚いた顔で、奇稲田をみつめた。せつなげな息を吐くと、笑みをみせたが、どこか余裕なくひきつっていた。
「まいったな。あなたはおとめだった。それも八重垣に守られた希有なおとめだ」
 八重垣とは、大蛇神のことにちがいない。奇稲田は胸をつくような痛みに戸惑いながら、ささやくようにたずねた。
「まぐわいは、痛いの?」
「最初は、おそらく」
 そう言う人が平気な顔をしているところをみると、たぶん痛いのは奇稲田だけなのだ。ずるいような気がした。

 女になるということは、うがたれることなのだ。それを我が身で知ったとしても、苦しさは減らなかった。床のべに置かれた大蛇の剣を目のはしにとらえたとき、須佐之男がいつになく怖い声でつぶやいた。
「よそ見などできるのか。なら、手加減もいらないな」
 あんまりだ。奇稲田は腹いせに、右頬の切り傷に舌をねじ入れるようになめた。ひどくしみるといい。
 よそ見をしているのは須佐之男のほうだ。そうでなければ、こんなにせき立てられるように、見咎められるのをおそれるように奇稲田を抱くわけがない。
(何をおそれるというの)
 ふいにいとおしさがこみ上げてきて、奇稲田はうっすらとひげのはえでた頬に口づけをした。今度は傷口をさけて、やさしく。
(あなたを閉じこめておけるのなら、十重二十重に垣根をつくって、そのなかで共寝をしたらいい。追っ手も戦ごとも忘れて。ほんのひとときでも、すべてを忘れ去って)
 痛みとおしかかるような苦しさの中、奇稲田はしがみつくように夫となった人を抱きしめた。

玉垣の吾が妻の君3

2012.03.22.Thu.07:17
 黄色っぽい夕暮れの光が、父と話し込んでいる須佐之男の丈高い背中を照らし出していた。近づくごとに、泥水のなかで転げ回ったように衣が汚れているのがわかった。角髪はこわれ、顔にもひどい切り傷が走っている。見ているだけで痛ましい姿だった。まるでふいに獣に襲われでもしたようだ。
「須佐之男!」
 思わず声を上げると、ゆっくりと彼が顔をふりむけた。奇稲田を目にとめると、須佐之男は見据えるように眉をよせた。唇が、笑みにはならないほどかすかに動いた。ふしぎとすんだその瞳の中に何が見えたか、言葉では言い表せない。
「あなたか」
 息を吐き出しながら、須佐之男はつぶやいた。
「何があったの」
 あわてて言うと、顔をしかめて彼は首をふった。泥のついた傷口をすぐにきれいにしなくては。
「大蛇神の案内が、いささかあわただしくて」
 訳の分からないことを言う。
 腕をとって歩き出すと、須佐之男はおとなしくついてきた。ときに大きな山のようにも見える強男が、ぼろぼろになるなんて。どんなことがあったのか、おそろしくて奇稲田はきくことができなかった。
「姫」
 炊場のにぎやかさが、風に乗って客人用の小さな館にまで届いてきた。
 汚れた彼の手を洗ってやり、しぼった布で顔をふこうとした奇稲田のぬれた手に、須佐之男は大きな手をかさねた。しずくが腕を流れていった。灯りがないことを、奇稲田は心からありがたく思った。鳴る胸をしずめる手だてを奇稲田はしらない。ほてった頬を見られたら、恥ずかしくてこうして座ってはいられないだろう。
「川に黒々と、ゆたかに沈んだ大蛇神の鉄をみつけた」
 奇稲田はため息をはいた。
「そう珍しいものではないわ。浜をごらんなさい、黒い砂でいっぱいよ」
「技術をもってすれば、この国は高天原にまさる富を得るだろう」
 泥と血をぬぐったあとの須佐之男の顔は、かたくこわばっていた。
「それに加えて、あとひとつ」
 奇稲田は須佐之男が伏せた目をあげ、まっすぐにみつめてくるのを、ただ見返していた。
「政をかしこく成さねば。国同士がつきあうには、面倒でやっかいだが、欠かせない。わたしは政に殺されるところだった」
 須佐之男は奇稲田の頬を指先でなでた。そのまま手についたしずくをはらうように手を動かすと、灯台にあかりがともった。息をのんだ奇稲田をにらむように一途に凝視する人からは、迷いがいっさい消えていた。
「わたしは高天原の巫だ。ただびとにはない力を持っている。それゆえに故郷をおわれた。戦を避けようと、逃げ出した。何者でもないわたしはさまよい、さすらい、死なぬとて生きてもいなかった」
 汚れた衣を脱いだ須佐之男は、傷だらけの上半身をさらした。それはおよそ御子にはあるまじき、大小無数の傷跡だった。想像もできない仕打ちが、この人の身の上に降りかかったのだ。そして、それは同母の姉がもたらしたものだという。気の毒という一言で片付けることなどできない。しかし、ほかに何も言葉がみつからないのだ。
 巫というものがすこし常人離れした力を持っているからといって、いたずらに恐れる必要がはたしてあるのだろうか? 悔いを、悲しみを知る人が、どんな狼藉をはたらくというのだろう。
(少なくとも、わたくしはこわくない)
「あなたがわたしを生き返らせたのだよ、姫。戦が起こるならば、打ち負かすだけだと、腹をくくることができたのは、あなたのおかげだ。逃げ続けてはいられない。逃げることは、死ぬことよりときにつらい」
「逃げないということは・・・・・・戦うことを選ぶしかないの」  
 須佐之男はうなずきもせず、否定もせずに、ただ奇稲田をみつめたのだった。

玉垣の吾が妻の君2

2012.03.19.Mon.16:07
「さっそくけんかか、須佐之男どの」
 男たちのからかいに、須佐之男は苦笑いをかえした。
「怒らせてしまったようだ」
「いやいや、御身をずっと見送っておられたぞ。仲がよろしいことで、けっこうですな」
 須佐之男が鳥髪の大首長の姫を妻問いしたことを、川に連なる六つ里で知らぬ者はいないだろう。
(どこでどう・・・・・・まちがったのか)
 追われ続けるのには、もうあきあきしていた。ようやく腰を落ち着ける場所を、奇稲田というひとをみつけたというのに。大蛇神の鉄を使う、そう言ったとたんに、口づけにおずおずとこたえ、腕のなかでしおらしく抱きしめられていた人が、別人のように冷たい声で須佐之男をこばんだのだ。「あなたがそんな愚か者だとは思わなかった」などと言って。
 それだけではない、「死んでも添わない」とそっぽをむかれた。正直なところ、須佐之男はひどくとまどっていた。腹が立つというより、あの人の涙になぜこれほどたやすく胸をゆさぶられるのか、さっぱりわけが分からず、そんな自分にあきれてしまうのだ。
 大蛇神の守っていた山には、大きな宝が眠っている。いまだ誰も手をつけていない鉄の砂を抱く山が、奇稲田には戦を引き起こす災いの種にしか見えないのだ。
(力を求めることは、戦につながるのだろうか)
 大蛇の剣がかすかにふるえたような気がした。押し黙ってはいるが、大蛇神はたしかにこの剣に息づいている。ひとたび求めれば、奔流のような荒神の力が現れ出るだろう。
 力があれば、あらがえる。支配しようとするものに立ち向かえる。
(血を流したくないからこそ、力を求めるのは、まちがっているのか)
 どう言ったらあの人はわかってくれたのか。
 笑って、あの優しい腕のなかに迎え入れてくれるのか。
「須佐之男どの」
 大声で呼ばれてもかまわずに、草をかきわけ須佐之男は暗い山奥に踏み込んでいった。腰に履いた剣が、道を示すようにふるえるのにいつしか気づいたのだ。ものを言ったり歩みを止めれば消えてしまいそうなくらいかすかな感触だった。
 自分の行く道が正しいのか間違っているのか、須佐之男にはわからなかった。同母姉ならば、その答えをしっているのかもしれない。やさしくうつくしい、狂いかけた大巫女王ならば、あるいは。
 首を振り、須佐之男は大きく一歩を踏み出した。ところが、足がやわらかな草に沈んだかと思うと、そのままかたい地を踏めぬまま急な斜面を滑り落ちた。とっさに手につかんだ細い蔦はあっという間にちぎれ、堅い岩肌にはあとほかにつかみ取れるものもいっさいなく、須佐之男は焦りとともに舌打ちをした。
 鬱蒼とした夏草に覆われていた視界がきゅうに開けると、そこは眼下に細く糸のように見える川の流れを走らせる、峡谷だったのだ。



 須佐之男の冷たい横顔が、まぶたのうらに焼き付いてしまったようだ。
(あの人は、一度も振り返らなかった)
 眉月のわずかな灯りの下で、すこしだけあの人の思いがわかったような気がしたのに。いまは、わずかな共感すらも遠くにかすんでしまったように思える。
 ひとしきり泣くと、今度は怒りがこみ上げてきた。
「しょせんは高天原びとなのだわ」
「これ、そんなことを言ってはいけないよ。あの方は神にもひとしいますらおなのだから」
 父にたしなめられても、母になだめられても、奇稲田はおさまらなかった。鉄は争いを呼ぶものだ。
 鉄は、おそろしく強力な武器になるのだという。
 もし高天原がこの地に鉄があることに気づいたなら、とうぜん支配しようとするはずだ。
 考えたくもない。やっと荒ぶる神から解放されたというのに、なぜ須佐之男はいたずらに力を求めようとするのだろうか。
「あの方にはあの方のお考えがあるのだろうよ」
 崇拝しきったような父の横顔を、奇稲田は見ていられなかった。つい昨日まで、奇稲田自身も彼を気まぐれに地上に降り立った天つ神のように、どこか夢見ているような気持ちでみつめていた。しかし、夕べ奇稲田の寝床にやってきた須佐之男は、雄々しいますらおなどではなく、故郷をおわれた逃亡者でしかなかった。
 大蛇神の力を得た今こそ、あの人が危うく思えるのはなぜなのだろうかと、奇稲田は不思議にすら思った。

 夕刻になっても、出かけた人たちは戻らなかった。
 陽はとうに山の向こうに沈んでしまった。
 館をでると、奇稲田は雲一つないまま赤く染まった遠くの空と、大蛇ののたうつ影のようにも見える故郷の山並みをみつめた。
(知らないわ、あんな人のことは)
 さいわい、夫婦になったわけではない。
 今なら妻問いもなかったことにできる。
(それでも・・・・・・)
 ゆうべ、身の上をあかした須佐之男はひどくさびしい、泣きそうな顔をしていた。涙が浮かばなくても、惑いに潤んだ瞳は泣いているように見えた。高天原の御子ともあろう人が、ただ一人きり、どこへ行くというあてもなくさまよってきたのだ。安らげる寝床も、心を明かせる人もいないままに。
 須佐之男はほんの一時、奇稲田に本意をみせてくれた。
 胸をあたためる気持ちが何なのか、奇稲田にはわからなかった。でも、くやしいけれど、あの人を心底から嫌えないことだけはわかる。
(須佐之男)
 里内がにわかにざわついた。奇稲田ははっとしてきびすをかえし、あぜ道を駆けだした。

玉垣の吾が妻の君1

2012.03.18.Sun.06:23
「もう行かなくては」
 うつくしい笑みが似合う口元をいかめしく引き結び、須佐之男は言った。
 奇稲田は、今にも涙がこぼれそうになるのをこらえた。しらじらと明けた夜をうらみたい気持ちでいっぱいだ。すでに支度をおえた人は、はやるようなまなざしで空を仰いでいた。供をする人たちが、里の入り口のところで須佐之男を待っている。
 呼び声がかかると、須佐之男は手をあげてこたえた。
「姫?」
「あなたを、行かせません」
 懐にとびこむような勢いで走りより、すぐそばで見上げると、須佐之男は顔をひき、一足後ずさりをした。さける振る舞いをされて、胸が痛んだことにまた傷つきながら、奇稲田はぶつけるように声を大きくした。
「行ってはだめ」
「おやおや」
 須佐之男は苦笑いをした。
「少し出かけるだけだよ。ほかに行くところなどないことを、あなたが一番よく知っているだろう」
 須佐之男はやさしく言った。
「どうした? あなたは何かをおそれているな。わたしなら、案じることはないよ、なにしろこれがある」
 腰に履いた大蛇の剣をならしてみせた。その金音こそが奇稲田に不吉な予感を抱かせるというのに。
「大蛇神が守っていたものは、鉄だ。大きな力なのだよ」
「力はいたずらに争いをうむわ」
 こらえきれない涙がとうとう頬を流れていった。
「どうか行かないで。大蛇神の忠告を聞いたのなら、行けないはずよ」
 須佐之男は困ったように目をそらした。考えをあらためるつもりがないことは明らかだった。
(勝手だわ)
 怒りがこみ上げてきた。奇稲田は大蛇の剣にとりすがりたい気持ちをこらえ、叫んだ。
「もう知りません。戦好きの高天原びとと言われたって、わたくしはもう知らんぷりするわ。あなたの妻になるのもやめます」
「やめる? いまさらあなたに妻問いするものがいるかな、この国で」
 意地の悪い目で須佐之男は見下ろした。
「いままで、誰もいなかったといったのは、あなただ」
 すがったものを冷たく置いていくことなど、すでに心を決めた人にとっては簡単なのだ。
「いてもいなくても、あなたとは死んでも添いませんから」
 須佐之男の目にかすかないらだちが見えた。
「ああ、けっこう。いまなら、添うも添わないもないな。あなたの寝床に招かれたわけではないし。それではさようなら、奇稲田姫」
 二人は背を向けあい、あとは口もきかなかった。

ヤマタノオロチ4

2011.09.23.Fri.03:53
 櫛名田が孕んでいることをはじめに見抜いたのは、やはり目の肥えた産屋のばばが最初であった。櫛名田ははにかみながら、須佐ノ男にそのことを告げた。
 孕んでいるとはいわれたものの、櫛名田自身がなにやらふしぎな気持ちだった。我が身のなかに、べつな生命が息づいているということのふしぎを迎え入れると、櫛名田はまず嬉しいよりも奇妙なのだった。

 あたらしく打ち立てたばかりの白野の庄での生活にようやく馴染んできた矢先のできごとだったから、須佐ノ男が驚いて何か言う前に、お祭り好きな庄のひとびとがこれをダシにして宴に持ち込まない方がふしぎなのだった。

 白野の庄は大蛇神の守っていた砂鉄の採れる山々から恵みを貰い受け、鍛冶びとの里として成り立つ場所だ。砂鉄をとかし、よけいな澱を流しだし、玉はがねという真鉄をとりだす作業をする女人禁制の高殿。ふだんであれば女がけっして立ち入れないような場所に踏み込んだ櫛名田を、この日ばかりはだれも叱る者はいなかった。

「いやはや、いつまでも子供だと思っていた嬢が、母親とは!」

 そう言ったのは、八耳である。八耳は掛矢の長の地位を弟にゆずり、じぶんは高志にできたあたらしい白野の庄に何人かの掛矢のひとびとをひきつれ、鳥髪の人々とともに里造りに加わっていたのである。

 八耳はいつものように両手をたたき合わせ、音頭をとりながら足を踏み鳴らした。宴の開始はきまって八耳の歌からはじまる。大きな身体に似合わず美声の持ち主である彼は、よくひびく声をはりあげ、喉をふるわせて上座にすわった須佐ノ男と櫛名田のまえに躍り出た。今日の宴の主役はふたりである。

 やくもたつ 出手母八重垣 妻籠みに

 八重垣つくる その八重垣を

「つぎつぎと雲がたちのぼる。わき出てくる雲は、さながら八重垣をなす。新妻を籠もらせようと、だれの目からも隠そうと、八重垣をつくるのはどこのどなただ?」

 歌の意味は、えてしてこういうものだった。ほどよく酒のはいったひとびとが、喚声をあげてから口々に唱和をしだした。須佐ノ男はおもしろがって、じぶんも歌い出した。八耳と比べるとさほど大きな声ではなかったが、けしておとらぬやさしくてよく響く声だった。

 やくもたつ 出手母美山の 涯まで

 浮きし雲群 うかうかと 我すがすがし この美き地にありて

「つぎつぎと雲がたちのぼる。見渡すかぎりに出手母特有の、たおやかな山なりをみせる山々がある。その漂っている雲群にもおとらずにわたしはうきうきとして、足元もふわふわとなにやら定まらないよ。酒のちからなどいらないようだ。わたしはまったく気分がいい、このすばらしい土地にあって」

 須佐ノ男の歌の意味は、このようであった。須佐ノ男は八耳にむかって笑うと、からかいを籠めて言った。

「わたしだって少しばかりなら歌えるのだよ」

 八耳はやられたという表情をして見せた。

「きいておられたのか、ああ、まずいことを言ったものだ」

 口噛みの甘酒で顔を赤くしたおとこが、櫛名田にささやいて言った。ささやきといっても格好だけで、やけに大声なのだった。酔っているから小声と大声のちがいもわからないに違いない。

「八耳はね、須佐ノ男どのがねたましいのさ。なんていったって、草醤になるのをじりじりとして待っていたすずしろを、横からかっさらわれたんだから」

「黄太、よけいなことは言わんでいいよ」

 八耳はあわてもせずにそう言った。にわかにすずしろが出てきたものだから、ますます何がなんだかわからない。けれど櫛名田をながめる八耳の瞳がひどくやさしいので、櫛名田は戸惑って目をそらさずにはいられなかった。黄太はつづけた。

「どんな益荒男だろうと、見目よかろうと、なにかひとつでも欠点があるって言い張るんだ。八耳はちいとばかし声に自信があるもんだから、須佐ノ男どのに挑戦をしたんだよ。さあ、櫛名田、どっちに勝ちをやるね? じつはみんな、そいつが気になっているんだ」

 櫛名田は迷いもせずにこたえた。

「二人にあげます」

 須佐ノ男はなにがおかしいのか、櫛名田のとなりでひとり笑いをもらした。櫛名田はかまわずに言った。

「わたくしにはどちらもすばらしく聞こえたわ。甲乙なんてつけられない。どうしても決めるといいはるなら、ふたりで手鞠の回数でも競ってください」

 そう突き放すように言い切った櫛名田に、ひとびとは少ししらけたようだった。ここで櫛名田が八耳に勝ちをあげれば、庄での八耳の株があがる。だれもかれも八耳の鷹揚さ、明るさを好ましく思わないひとはいなかったのである。櫛名田が須佐ノ男に勝ちをあげれば、ますます須佐ノ男への尊敬の気持ちが高まったことだろう。櫛名田がどちらに勝ちをあげるかで、須佐ノ男と八耳、どちらにつくかを庄の人々は決めようとしていたのだった。

 白野には、今、長が二人いる。正しく言えば、長として人々の上に立ち、彼らを指導する人間がふたりいるということである。須佐ノ男と八耳のどちらが白野の長か、きっちり決めないことには人々の気持ちがすまないらしいのである。じっさい、白野にまだ長はいなかった。須佐ノ男は八耳にゆずり、八耳が須佐ノ男にゆずるといった具合で、長の席はいまだにからっぽなのだった。

 まったくばかげたことなのだ。当人たちがどちらが長になるかで争っているならばともかく、庄の人々がおのずと須佐ノ男派と八耳派にわかれだしている。櫛名田だって、庄の空気が近ごろ微妙なものになってきているのに気づかないはずがなかった。いまの宴も左と右にきれいに人々が別れてしまっている。

 八耳をとくべつ持ち上げているのが黄太という男で、もともとは掛矢の人間だ。彼は口には出さないものの、須佐ノ男をあくまでよそ者とみなしていた。大蛇神を鎮めてくれたことはありがたいが、しょせんはよそ者だと。

 それに反して須佐ノ男をひいきにするのが、鳥髪の麻由利だった。麻由利は須佐ノ男を名前ではなく、英雄どのと呼ぶときがおおく、まさに鳥髪をすくった英雄として須佐ノ男に心酔をしていた。

「櫛名田の言うとおりだ」

 須佐ノ男は言いながら、にこやかに笑った。

「八耳もわたしも、勝ち負けをきめるために歌ったのではないよ。櫛名田の腹の中の赤子のために歌ったのだ。言祝ぎ歌に優劣をつけることはできまい? どうあっても決めたいというのなら、黄太、おまえが麻由利としりとりでもすればいい」

 黄太がにわかに勝負などと言い出したものだから、麻由利のほうも息巻いていた。須佐ノ男はなにげなく彼らを制したのだった。

「しりとりか」

 黄太は酒で濁った目のまま、ふいに高笑いをした。なにやらいやな笑い方だったので、櫛名田はおどろいた。黄太はすこしばかり高天原に偏見をもっており、高天原びとである須佐ノ男を心底からは受け入れられないらしいのだ。そうとはいえ、いつもは須佐ノ男への最低の礼儀はかいたことがなかったのである。酔っているとはいえども、こんなにからんでくるのはおかしい。

「いいだろう、面白い。言葉のしっぽをつかんで行くうちに、須佐ノ男どのよ、あなたの化けの皮からほどけた糸も、もしかしたらおれがつかんでしまうやもな」

「なにが言いたい」

 須佐ノ男はくちびるから笑いをけした。しかし咎めるような口調ではなく、むしろさびしそうな声だった。櫛名田は彼の瞳に、わずかなあきらめの色をみつけていた。

「須佐ノ男どの、あなたはいつ高天原へ覆奏をされるのだ? 庄もできあがり、われら鍛冶びとは早くも白銀をあつかえるようになった。これは素晴らしいことだ。鍛冶の技術をわれらに教えてくれた、須佐ノ男どののおかげだ。白野はこれからますます豊かになるだろう、ますます栄えるだろう。だが、その繁栄に高天原が目をつけぬはずがない」

 黄太はおどけた口調でかさねて言った。しかし須佐ノ男を眺めるまなざしに浮かぶのは、あきらかな須佐ノ男への不審、それと苛立ちだった。「あなたはまことに、白野を第二の鳥髪と考えておられるのだろうか。もしや白野を高天原のものとして天照に差し出すつもりではあるまいか」 八耳はそれを聞くとすぐさま渋い顔をした。

「だれか、この酔っ払いをここから連れ出せ」

「八耳、おまえは甘い。こんな男を信用して良いものか、この男は高天原びとだぞ。おまえもわかっているはずだ、腹黒い高天原びとがどうして信用できようか」

 黄太は須佐ノ男をにらみつけていたが、ふたりの里人に両の脇を掴まれ室から引っ張られていくときになると、しゃくりあげるような声になってわめいた。

「そのうち軍がやってくる。高天原の軍がおれたちのところに。どうすればいい、どうしたら逃げれるだろう。だめだ、どうあっても逃げられない、高天原の軍のやつらは、生きた人間にまで火を放ち、火だるまになるのを眺めて笑い合うのだ・・・!」

 酔いどれ男の喚き事というには、あまりにも黄太の声にはおびえの色が濃かった。櫛名田はそれに気圧されて、問うように須佐ノ男をみつめた。須佐ノ男はさびしく笑っただけだった。

「わたしは高天原を捨てたと言ったはずだ。白野の庄は出手母びとの里だと思っているし、わたしの妻の故郷でもある。妻のいるところがわたしの大切な故郷だ。それに、わたしのものでないものを、どうして天照に奉ることができるだろう」

 人々はしんと静まり返り、酒の満たされた土器をあおる手も止めて須佐ノ男をみつめていた。あるいは、須佐ノ男の顔がみれずにうつむいている者もあった。八耳が須佐ノ男のことばの終わるのを待たないで、早口に言った。

「須佐ノ男、黄太を許してやってはくれまいか。あの男は幼い頃に高天原に故郷をほろぼされ、着の身着のままで掛矢に逃れてきたのだ。その恐ろしさが身に染み付いていたがために、あのようなことを・・・」

 八耳はいちど言葉をきり、くちびるを湿らせてからつづけた。

「須佐ノ男、あの男の無礼をどうか許してくださらないか」

 しごく丁寧に八耳は言った。まるで高天原の貴人に許しをこうように。すると須佐ノ男はさびしく笑い、首を横にゆるく振った。

「おまえはこんなささいなことで怒るわたしだとでもおもっているのか、八耳。・・・できることならば、無礼などという言葉をおまえの口から聞きたくはなかった」

 八耳は、はっとして須佐ノ男を見た。須佐ノ男は黄太の罵りなどより、八耳の態度にひどい失望を感じていたのだ。八耳は須佐ノ男の頼りない笑い顔を見てはじめてそれに気づいたが、もう遅いのだった。八耳はなかば無意識のうちに、須佐ノ男を高天原の貴人として突き放してしまったのだ。同胞びとではなく、あきらかなよそ者として。

「居心地がいいぶん、どうやら長居をしすぎてしまったようだ」

 須佐ノ男はそう言ったきり、押し黙った。
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